散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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5月31日 三浦環がロンドンで「蝶々夫人」の初舞台を務める(1915年)

2024-05-31 03:12:18 | 日記
2024年5月31日(金)

> 1915 年5月31日、ロンドンのオペラハウスで、ソプラノ歌手三浦環が、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」の公演に主役「蝶々さん」として出演した。三浦はドイツ留学中に第一次世界大戦が勃発したためロンドンに難を逃れたが、そこで才能を認められてこの日の出演となった。出演依頼が来てから慌てて楽譜を買いに行き、一日十ページずつ暗譜して二ヶ月で仕上げたという。
 実はこの夜、ロンドンはドイツの飛行船部隊による初の空襲を受けていた。劇中、ピンカートンの船が長崎に入港する場面で大砲の音が轟くと観客は動揺し、ホールから逃げ始めた。三浦は最後まで歌い続けたが、気づくと観客はみな逃げ出して、客席は空になっていたという。彼女が劇中の大砲のだと信じていたものは、実は本当の爆撃音だったのだ。
 しかし、このロンドン・デビューは大成功を収め、三浦は世界の「蝶々夫人」として、1935年までに二千回という出演記録を作った。作曲者プッチーニから絶賛されてイタリアに招かれたり、アメリカのメトロポリタン歌劇場では日本人初のプリマとなり、名テノール、エンリコ・カルーソーと「蝶々夫人」のロングラン公演も行っている。
 ちなみに夫の三浦政太郎は東大内科助教授で、環と共に渡欧し、ロンドンで肝油中のビタミンAの研究などを行っている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.157

三浦 環
1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日


 1900年に入学した東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)では瀧廉太郎にピアノの指導を受けたとある。世界各国を股にかけた公演活動で、第2000回目の「蝶々夫人」は1935年にシチリア島パレルモで行われた。
 その直後に決断して帰国永住、「蝶々夫人」を自身による日本語訳の歌詞で上演するなど活躍を続けたが、時局は戦争に進んでいく。1944年からは山中湖畔に疎開。疎開先にもピアノを持ち込み、母の看病をしながら地元住民と気さくに交流したり、子供好きであることから近所の子供たちに歌を教えるなどしていた。
 敗戦から4ヶ月後の1945年(昭和20年)12月には日比谷公会堂で二度にわたってリサイタルを行い、シューベルトの「冬の旅」全24曲を昼と夜の2回ずつ計4回歌った。この時にも自身が疎開中に翻訳した日本語の歌詞を用いている。
 まだまだ活躍し、敗戦後の時代に失意の同胞を慰めることもできたはずだが、天意は計りがたい。惜しいかな膀胱癌のため急速に衰え他界した。危篤の昏睡状態の中でドビュッシーの「バルコン(露台)」を口ずさんでいたという。

 墓碑に実筆で刻まれた詩:
うたひめはつよき愛国心持たざれば 真の芸術家とはなり得まじ

資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/三浦環

Ω

逃げの小五郎

2024-05-30 22:33:47 | 読書メモ
2024年5月30日(木)

 司馬遼太郎の短編集『幕末』を入手。目当ては先日知った『逃げの小五郎』、面白く一読。
 全体を集約する部分を書き抜いておく:

>  ところが、乱後、二日ほどして、長軍の戦利品のなかから、「桂小五郎」と墨で鉢に記名した兜が出てきたといううわさを、対馬藩士がききこんできた。落ちていたのは朔平門付近で、桑名藩兵がみつけた。
 「死んだのかもしれぬ」
 と大島友之助がいった。
 「たしかに、兜どすな」
 幾松は、考えた。じつをいうと桂の具足は大阪藩邸においてあり、京都では持っていなかったことを幾松は知っている。桂はおそらく死亡説を流布させるために、名を書きこんで道へわざと捨てころがしたのであろう。あの男の智恵なら、やりかねない。
(生きている)
 桂とはそういう男だ。「わしの剣は、士大夫の剣だ」と、かつてこの男は幾松にめずらしく自慢したことがある。
 「士大夫の剣とはどういうことどす?」
 「逃げることさ」
 桂が塾頭をつとめた斎藤弥九郎の道場には六ヵ条から成る有名な壁書があった。その中で「兵(武器)は凶器なれば」という項がある。
 ー  一生用ふることなきは大幸といふべし。
 出来れば逃げよ、というのが、殺人否定に徹底した斎藤弥九郎の教えであった。自然、斎藤の愛弟子だった桂は、剣で習得したすべてを逃げることに集中した。これまでも、幕吏の白刃の林を曲芸師のようにすりぬけてきた。
(単行本P.193)

 なお、桂の死因について作品はこう記している。

これほど軽捷無類の男も、すでに出石時代からそのきざしのあった結核からはついに逃げきることがなかった。
(同P.204)

 他でも「結核」と聞いた覚えがある。一方、Wikipedia が「大腸癌の肝転移」と記すのは下記に依ったものらしい。信憑性がありそうである。


Ω

5月30日 ジャンヌ・ダルク処刑さる(1431年)

2024-05-30 03:41:40 | 日記
2024年5月30日(木)

> 1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクが魔女としてフランス北部の都市ルーアンで処刑された。ルーアンには今も火あぶりの薪を積んだという場所が残っている。
 当時フランスはイギリス軍の侵攻を受け、百年戦争の真っ只中であった。神の声を聞いた乙女ジャンヌ・ダルクは神の指示通りにオルレアンを奪回し、シャルル往時を国王の座につけた。その後も彼女はフランス全土の奪還を目指したが、イギリスに味方するブルゴーニュ公との戦いに敗退、捕虜となって裁判にかけられ、「教会に従わぬ救い難い異端者」として火あぶりにされた。
 彼女の死から25年後、裁判はやり直されその名誉は回復された。しかし、フランスを救った彼女に光を当てたのは、ずっと後世のナポレオンである。
 1803年、ナポレオンは「フランスの独立が脅かされる時、優れた栄養が現れて奇跡をもたらしてくれることを、ジャンヌ・ダルクが証明している」という言葉で称えたという。1919年、ローマ教皇庁によってジャンヌ・ダルクは「聖女」と認められた。魔女として死に、死後約500年たって聖女となったわけである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.156


 Jeanne d'Arc、古綴:Jehanne Darc
ユリウス暦1412年ごろ1月6日 - 1431年5月30日

> この法廷の裁判記録にはジャンヌの驚くべき思考力が記録されている。もっとも有名なものは「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」と尋問されたときの返答である。

「もし私が恩寵を受けていないならば、神がそれを与えて下さいますように。もし私が恩寵を受けているならば、神がいつまでも私をそのままの状態にして下さいますように。もし神の恩寵を受けていないとわかったなら、私はこの世でもっともあわれな人間でしょうから。」
— 『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』 86-87頁

 この尋問はジャンヌに仕掛けられた神学的陥穽だった。教会の教理では神の恩寵は人間が認識できるものではないとされていた。ジャンヌが尋問に対して肯定していれば自身に異端宣告をしたことになり、否定していれば自身の罪を告白したことになるのである。公証人ボワギヨームは、法廷でジャンヌがこの返答をしたときに「この質問を彼女にした尋問者は呆然としていた」とあとになって証言している。20世紀の劇作家ジョージ・バーナード・ショーはこの問答記録を目にしたときに深い感銘を受け、ジャンヌの裁判記録を『聖女ジョウン』として戯曲に仕立て上げた。

 バーナード・ショーの戯曲を教養課程の英語で読んだ。小田島先生のクラスだったと思うが、せっかくの授業の雰囲気も戯曲の内容も頭に残っていない。
 ただ、井上陽水のファンだという先生が、「仲良しこよしは 何だかあやしい夕焼け小焼けは それより淋しい」という歌詞を引いて何かの解説をなさったことがうっすら思い出される。
 そう、それから助命の機会を与えられたジャンヌが、自然と触れ合うことなく牢獄の中で日々を送らねばならないと聞かされるや、敢然として勧告を拒否し火刑を選ぶ場面があったっけ。
 …物持ちよく、40数年前の教科書が本棚から出てきた。そう、ここだ。

Joan "...if only I could still hear the wind in the trees, the larks in the sunshine, the young lambs crying through the healthy frost, and the blessed blessed church bells that send my angel voices floating to me on the wind.  But without these things I cannot live; and by you wanting to take them away from me, or from any human creature, I know that your counsel is of the devil, and that mine is God."

The Assessors [in great commotion] "Blasphemy! blasphemy! She is possessed."

  P.123

 病跡学的にはジャンヌ・ダルクは、てんかん性精神病ではなかったかと言われている。タルソのサウルこと使徒パウロと同じ範疇である。
資料と図:https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャンヌ・ダルク

Ω

5月29日 エディントン卿が皆既日食の観測で一般相対性理論の正しさを証明(1919年)

2024-05-29 03:47:56 | 日記
2024年5月29日(水)

> 1919年5月29日、天体物理学者アーサー・エディントン卿の指揮するイギリス観測隊が、西アフリカのプリンシペ島とブラジルのソブラルで、皆既日食の時に隠れた太陽の周りに見える星の観測、撮影を行った。さらに半年後に同じ場所で同じ星の観測を行ない、両者を比較した結果、アインシュタインの一般相対性理論にある通り、太陽の重力場によって周りに見える星の位置がずれていることを確認した。
 この現象は重力レンズと呼ばれる。アインシュタインは一般相対性理論の中で、太陽のふちを掠める光線は、太陽の重力場の影響で最初の方向から1.75秒角曲がるとしている。エディントンの観測は数値的には誤差を含んでいたが、アインシュタインの理論が正しいことを証明し、一般相対性理論が世間に受け入れられるきっかけとなった。
 アーサー・エディントン卿は当時ケンブリッジ天文台の所長で、1944年に死去するまでその職にあった。アインシュタインの友人であり、アインシュタインの宇宙模型とハッブルの観測データを結びつけた画期的な業績でも有名である。現在ではこの重力レンズ現象は、銀河やブラックホールの周辺でも観測されている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.155

Sir Arthur Stanley Eddington
1882年12月28日 - 1944年11月22日

 話しの本筋はほぼ全く理解できないので、必然的に逸話・挿話に逃げることになる。以下、目につくものを Wikipedia から抜き書きする。
 何とも宇宙人的な…
  • 第一次世界大戦の間、エディントンは兵役に召集された。クエーカーとして、また平和主義者としての立場から、彼は良心的兵役拒否者として陸軍での任務を拒否し、別の任務に就くことを希望した。彼の研究者仲間達は、科学の分野にとって彼は重要な存在であると軍を説得し、彼の兵役を免除させることに成功した。
  • エディントンは相対性理論に関する業績で特に知られている。彼は Report on the relativity theory of gravitation(『重力の相対性理論に関するレポート』)という論文を書き、1915年から1916年にかけて発表されたアルベルト・アインシュタインの一般相対性理論を英語圏に紹介した。当時は第一次世界大戦のためにドイツの科学界でなされた新たな発展がイギリスであまり知られていなかった。
  • エディントンの観測結果は一般相対性理論の予測を裏付けるものであった。この結果は当時、一般相対論がニュートン力学のモデルよりも正しいことを結論付ける証拠として歓迎された。このニュースは世界中の新聞に大きく取り上げられた。同時にこれは、「相対論を理解しているのは世界中で3人しかいない」という都市伝説の元となった。この話を記者から聞いたエディントンが冗談交じりに「はて、3人目は(アインシュタインと自分以外の)誰だろう?」と答えた、というエピソードは有名である。
  • 最近の科学史の研究によれば、エディントンの元の観測データは決定的なものではなく、エディントンはデータの中からどの結果を使うかを恣意的に選択したのではないか、という説も唱えられている。
  • 1930年には、インドからの留学生スブラマニアン・チャンドラセカールが、初めてブラックホールが存在する事を理論的に指摘した際、その指摘をまともに検討すること無く頭ごなしに否定した。当時、科学会の重鎮だったエディントンのこの態度の影響は大きく、結果チャンドラセカールの指摘は誰にも省みられること無く忘れ去られてしまうこととなった。この事件によって、ブラックホールの本格的な研究が始まるのが1960年代にまで遅れてしまう原因を作った。
  • 1920年代、彼は量子論と相対論、重力を統一する "fundamental theory"(基本理論)と呼ぶ理論の構築に次第に没頭した。最初彼は「伝統的」な道筋に沿って進んでいたが、次第に基本定数を無次元化した比を数秘術的に分析するという手法に傾倒していった。彼の研究はだんだんと風変わりな様相を増し、晩年には科学界で除け者のようになっていった。
  • 彼の基本的なアプローチは、いくつかの基本定数を組み合わせて無次元量を作り出すというものだった。こうすると多くの場合、1040、あるいはその2乗、あるいはその3乗根に近い数値が得られる、としていた。彼は、陽子の質量と電子の電荷は「宇宙を作るための自然で完全な設計書」であり、これらの値は偶然のものではないと確信していた。
  • こういった概念を彼が擁護する上で特に不利になったのは微細構造定数 α についてであった。当時のこの値の測定結果は 1/136 に非常に近く、彼は様々な理由から、この値は正確に 1/136 になるべきものだと主張した。その後、測定結果が 1/137 により近い値をとるようになると、彼は理由付けを変更して、微細構造定数は正確に 1/137 になるはずだと主張した。この 1/137 という値はエディントン数と呼ばれた。この時点で多くの研究者は彼の考えを真面目に受け取ることをしなくなった。
エディントンが撮影した1919年の皆既日食の写真。
位置測定に用いた恒星が2本の線でマークされている

 資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/アーサー・エディントン

Ω

5月28日 ストラヴィンスキー作曲「春の祭典」初演(1913年)

2024-05-28 03:58:10 | 日記
2024年5月28日(火)

> 1913年5月28日、パリのシャンゼリゼ劇場において、ロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキー作曲のバレエ組曲「春の祭典」が初演された。バレエはディアギレフ率いるバレエ・リュス、振り付けはニジンスキーであったが、演奏が始まるとそのあまりの斬新な響きに観客からブーイングが起こり、やがて会場全体が怒号と嘲笑に包まれた。コンサート後も批評家の間で賛否両論が噴出するセンセーショナルな初演であった。しかし、翌年四月コンサート形式で再演された時にはパリの聴衆に受け入れられ、絶賛された。
 ストラヴィンスキーはオペラ歌手の父を持ち、19世紀末にペテルブルグ近郊で生まれた。大学では法律を学んだが、在学中に作曲を志し、リムスキー=コルサコフに師事して作曲法を学んだ。26歳の時に初演された「幻想的スケルツォ」と「花火」がバレエ団の主催者であったディアギレフに認められ、彼のバレエ団のために「火の鳥」「ペトルーシュカ」を作曲し、成功した。
 第一次世界大戦勃発とともにスイスに移住した後はロシアに戻ることはなく、人生の後半はアメリカで活躍し、1971年にニューヨークで亡くなった。なお、この初演の日付は29日とする説もある。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.154

ロシア語: И́горь Фёдорович Страви́нский, 
ラテン文字転写: Igor Fyodorovitch Stravinsky、
1882年6月17日 - 1971年4月6日

 自分には芸術が理解できないのではないかと疑うことがよくあるが、その手っ取り早い例が『春の祭典』である。
 良さが、わからない…

Ω