散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

心は関係の座/イランと出光/帰と還と

2018-06-28 00:05:10 | 日記

2018年6月27日(水)

 CMCC会報のバックナンバーを読み返していたら、二年ほど前の号が目に止まった。

 ・・・人は、他の人や物、自然などとの関係を求める生き物です。心は関係の座です。他のものとの関係が失われてしまうと、心は病み、ひずみ、ひどい場合には死んでしまいます。たとえそれが痛みであったとしても、それを訴える相手を求めることで関係をつなぐことができるのです。その痛みがなくなってしまえば、この方にとって自分という存在をつなぐ他の人との関係が断たれてしまう。だから痛みは続く、あるいは続かねばならなかったのかもしれません。それが死ぬまで続く痛みであったとしても。

(藤崎義宣『ケアを求める痛み』CMCC No.50 2016年6月号)

 「心は関係の座」、言い得て妙とはこのことだ。

***

 トランプ氏がイランへの制裁を呼びかけており、同国からの石油が入らなくなってガソリン等が高騰するのではないかと昨夜あたりのニュース。それで思い出したのが1953年の日章丸事件、一民間企業がイギリスとその海軍に「丸腰でケンカを売って勝利した」できごとである。イランの石油をめぐる国際緊張が背景にあり、『海賊と呼ばれた男』のクライマックスでもあった。(https://ja.wikipedia.org/wiki/日章丸事件)

 残念ながらこの件をきっかけに石油メジャーの結束が強化され、その後そうしたゲリラ的活躍の余地はどこにもなくなった。歴史上ただ一回だけ可能であった快挙だが、現実に可能かと事前に問われたら百人が百人「無理」「無謀」と答えただろう。しかもあの敗戦からわずか8年後のことである。百一人目のやんちゃ者、出光佐三とその一党に心から喝采を惜しまない。

 当時、イギリスと利害を異にするアメリカが事態を黙認静観し、それが出光を利したという。皮肉にも今回はアメリカがイランを締め付けにかかっている。折しも今朝の朝刊は出光と昭和シェルの統合を告げ、出光の創業家がついに賛成に転じた経緯を報じた。これまた歴史のいたずらか、出来すぎた偶然ではある。よくも悪くも今の出光はかつての出光ではない。

 時代は移り、布置は変わる。いま突破口はどこにあるか。

***

> 「夢の世にあだにはかなき身を知れと教えてかえる子は知識なり」

> 五七五ならぬ五七五七七ですが、ご存知でしたら教えて下さい。
> ~教えてかえる~は
> 帰る、なのか
> 還る、なのか。

> 和泉式部の時代(それすら怪しくてごめんなさい) 原文は仮名文字でしょうが、ざっと調べたところ出典元によって帰る/還る表記はまちまち。
> 意味合いがずいぶん変わってくる気がするのです。

 Wolfy さん「ご存知でしたら」とおっしゃいますか、私は何も知らないのですよ。教えてあげられることが何もありません。ただ、知らないから「知りません」で済ませられるはずもなく。

 そもそも和泉式部の作かどうか、そこから疑問視する向きもあるようですね。

 「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり」(後拾遺集)

 こちらは確かに小式部内侍を喪った母、和泉式部の絶唱、しかし御指摘のものは確証がなく、誰かが和泉式部の「口に入れた」のではないか等々。でも私たちには、それはどうでもいいことで。

 「帰る」と「還る」、Wolfy さんにはどのように違って感じられるのでしょう?コメントをいただいてから何度となく反芻してみるのですが、結局悲しさは変わらない、つまるところ子は彼岸にかえってしまうのでしょうから。

 けれどもここに微妙な違いがあって、「帰る」はただ一度「還る」は反復という響きを感じるのです。正しいかどうかは知りませんが。

 それなら「還る」のほうが、いくらかでも嬉しく有り難いこと、日毎夜毎に教えては還り、また来ては還っていくのだとしたら。

 答えになっておらず申し訳ありません。仰る通り、和泉式部その人の作であれ否であれ、もともと仮名で書かれたのでしょうから、そこにどんな漢字をあてて何を読み込むかは、私たちの自由であると思います。

 שלךם


アオバズク再登場 / 五七五に難渋

2018-06-25 23:29:20 | 日記

2018年6月25日(月)

 森のフクロウの楽しいスナップを以前紹介した。

 「フクロウはフクロウ」2017-01-26 https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/dcf7f7dee88d0b72bfc64bb08e14e7e3

 同じネタ元が今月また同じアオバズクを取り上げている。紹介せずにいられない。

 森林文化協会「グリーン・パワー」2018年7月号 https://www.shinrinbunka.com/publish/greenpower/

 フクロウの不思議は何といっても360度自在な首の動きである。しかしこの写真は撮った写真家のほうが、天井画を描いたミケランジェロのように、首を傾げ続けねばならなかったのではないかしらん。アッパレだ。

***

 代休にて完全休養の一日。Y先生のお励ましにも関わらず、句は露ほども絞り出せない。三男の誕生日を一月遅れで祝いながら、たまたま呟いたフレーズが五七五にハマったが、これでは俳句にも警句にもなりはしない。

  寿司うまし政治は拙し国貧し

 そういえば学会から帰京の新幹線中で、沿線のビル壁に大きな看板を見た。

  子に残す大きな遺産下水道

 満腔の賛意、こちらは大阪府高槻水道局のアッパレである。松山市も少し考えてくれないかな。

Ω


ブロック塀のこと/アグレッシヴな退却戦

2018-06-23 09:58:22 | 日記

2018年6月23日(土)

 今年の精神神経学会は神戸開催、水曜日にゼミを終えたその足で現地に移動した。月曜日の朝、大阪北部地震が起きて関西のゼミ生の安全を案じたが、今度は気遣われる立場である。学会の主催者からも大学の事務担当者からも注意喚起があったものの、結果的には支障なく予定を終えつつある。福島の原発事故被災地の現状に関するシンポジウムもあり、多くを学んだ。神戸の学会にはとりわけふさわしいテーマに違いない。

 ブロック塀の倒壊で小学生が亡くなったこと、出先で会う人々が口々に残念がった。とりわけ神戸で生まれ育った義母は「阪神淡路の時あれだけ言われたのに」と悔しがる。僕は2011年3月11日のことを思った。あの日は金曜日、週明けを待って郡山のE先生に電話で様子を聞いたら、患者さんの動揺や浜通りへの懸念などを語った末、郡山市内はさしたる実害は見えないものの「至るところのブロック塀が崩れて自動車が通れない」と苦笑した。午後2時46分は小学校児童の下校時刻と微妙にずれていただろうか、そのきわどい幸運から学ばねばならなかったのだ。

 住宅街の塀がどこもかしこもブロックになったのはいつ頃だろう?おおかた高度成長期かと想像され、利便性・耐久性・経済性などとあわせ遮蔽性という言葉が浮かぶ。物理的には堅牢で用心がよく、心理的にもそこに隔壁があることを強くアピールするのがブロック塀である。裏を返せば伝統型コミュニティの可視的な裁断・分節に一役買ってきただろう。今となっては防災の観点から、人口密集地でのブロック塀の設置を制限する措置が必要と思われる。代わりにどんな素材・工法を使うかは考えどころだが、それこそ日本人の得意とする工夫の領域、コンテスト形式でアイデアを募れば国中の企業や個人から名案・妙案が山ほど出るに違いない。

 良い工法が見つかったら亡くなったお嬢さんにちなんで命名し、後世に伝えてはどうだろうか。

***

 先だってT教授が今後の日本の課題を「退却戦」に喩えたが、これには一理も二理もある。それで『島津奔る』(池宮彰一郎)というタイトルが以前から気になっていたのを思い出し、Amazon で取り寄せて学会の行き帰りに読んでみた。

 薩摩島津は『西郷どん』でまたブレイクしているが、薩摩人集団の独自固有なことは昔から繰り返し話題にされ、司馬遼太郎はとりわけその外交感覚が日本人離れしていると評した。関ヶ原の帰趨が決まった時、「前へ向かって退却した」と評したのも司馬遼だったか。読んでみたら『島津奔る』の冒頭は、まさしく慶長の役における朝鮮半島からの退却戦に始まる。全編が退却戦の歴史的実例のようなものである。

 1598(慶長3)年陰暦九月、秀吉存命中から著しく士気の落ちていた日本の諸将は既に半島南端に追い詰められ、明と朝鮮の大軍が復讐に燃えて北から接近しつつあった。海上では名将李舜臣を擁する朝鮮方が圧倒的に優勢で、日本軍は全滅しても不思議のない窮境にある。これでよく無事撤収できたことと以前から不思議だったが、その秘密は泗川(しせん)周辺での島津勢の果敢かつ巧妙な退却戦にあったのだ。不利な水上戦でも巧みな反攻によって敵方の追撃を不能にし、李舜臣はこの戦いで落命している。そもそも文禄・慶長の役なるものが義も理もない侵略行為で、日本史上の汚点であるために注目もしづらいが、ここに描かれる島津義弘と郎党の戦いぶりは見事というほかなく、おかげで日本の全軍が全滅を免れた。これが物語の前半部分。

 後半、今度は関ヶ原の「前への退却」である。詳細は略すとして、碁の教える機微が泗川と関ヶ原の島津の戦略に共通しているようだ。攻める時はおおらかがよく、本気で相手の石を取りにいくのは下策としたもので、相手を活かして打つ 〜 活きようとする相手の力を利用して大局の得を図るのが本道。逆に攻められた時はただ逃げ回るだけではいけない、シノぐ時こそ相手の弱点を鋭く衝いて強襲し、刺し違えの脅しをかけつつ活路を見出す。好んで戦争の話をしているわけではない、人生にも社会にも役立つ心得が見つからないだろうか。

 退却戦こそアグレッシヴに、そのことである。

***

 関ヶ原や家康の天下取りについて書かれたものは数知れずあるが、書く人ごとに何かしら見解の違いがあって面白い。例えば開戦直後の伏見城攻防戦、三成が事を起こせば、まっさきにこの城を落としにかかるのは目に見えている。その伏見城を託されたのが鳥居元忠、今川家の人質時代から艱難を共にした家康無二の腹心で、ここが死に場所と志願の花道というのが大方の解釈だった。

 『島津奔る』では天下は家康に傾くと判じた島津義弘が、自分が伏見城に入ることを内々に申し入れ、家康いったんこれを容れた仔細が語られる。難戦には心得のある義弘、100日や200日は寄せ手を悩ます自信が優にあり、その末に全滅を被っても家康に恩を売ることで島津本家は安泰と読んでいる。ところが家康の家臣団がこれを受け入れない。島津が寝返って城ごと西軍に投じたら、東軍は袋の鼠だというのである。あるいは、薩摩本国の島津義久(義弘の兄)が援軍を送らぬ可能性があると謀将本多正信の言。このあたり、島津義弘の人柄を惜しむ家康と排他的な三河家臣団との描きわけが面白い。結果的に家康は内諾を反故にし、東軍入りを拒絶された島津は 〜 「中立」のあり得ない武家の政治力学に従って 〜 心ならずも西軍に与することになった。(ただし関ヶ原当日は、勝敗が決まるまで兵を動かしていない・・・)

 それはさておき鳥居元忠、こちらは家康との君臣超えた信頼のゆえに入城したのではなく、頑迷固陋の老将として家臣団の中で敬遠されており、いわばこの機に捨て駒にされたというのが作品の解釈である。島津義弘腹心の新納旅庵(にいな・りょあん)が伏見城に鳥居元忠を訪ねて追い返される場面が印象的で、元忠は言葉の端に島津への哀惜をこめて忠告するが、義弘はその顛末を予見していた。

 「元忠の苦衷は察するが、あやつめは一介の武将だ。美しく戦って死花を咲かせ、青史にその名を残すのみである。だが、われらはそれでは事足りぬ。この絶体絶命の境地で、わからずやどもの家と郷国を、いかに残すか。考えるだけでも気が遠くなる、が、まあ見ておれ、わしはまだ、望みを断ってはおらぬ・・・」(上巻 P. 414)

 壮絶な退却戦がここから始まる。家康を間一髪まで追い詰めた者が三人あり、先に武田信玄、後に真田信繁(幸村)、その間に島津義弘を加えようか。「前へ退却した」島津の群れは、家康の本陣に肉薄したところでなぜか転進、伊勢路へ脱出した。東軍の猛追に島津方は島津豊久(義久の甥)、長寿院盛淳(ちょうじゅいん・もりあつ、家老)らが身代わりとなって討ち死にし、見事に義弘を薩摩へ落とす。ここでも島津は捨て身の反撃を随時に交え、井伊直政は銃弾を受けて深傷を負い、松平忠吉(家康の四男、秀忠の同母弟)も負傷している。

 最も興味深いのは、実はその後の戦後交渉かもしれない。島津は西軍に加わりながら咎めを受けなかったばかりか、本領安堵のうえ琉球支配の許可まで得た。まるで手品のようである。家康を目前に義弘が転進を命じた時、既に戦後交渉が始まっていたと『島津奔る』の筆法。徳川方でこの交渉を買って出たのは、追撃中に被弾しそれが二年後の死の原因になったとされる井伊直政だった。

 ことほど左様に不思議の山、「島津の退き口(のきぐち)」と呼ばれるアグレッシヴな退却戦に何を学ぶか、学べるか。

                  

Ω  


お別れの会/カテドラルとステンドグラス

2018-06-18 09:54:46 | 日記

2018年6月17日(日)

 「最後にその妹、伊邪那美命、みづから追ひ来たりき。ここに千引きの石をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、各々むかひ立ちて、事戸(ことど)を渡す時、伊邪那美命言ひしく、『愛しき我が汝夫(なせ)の命、かく為(せ)ば、汝(いまし)の国の人草、一日に千頭(ちがしら)縊り殺さむ』といひき。ここに伊邪那岐命、詔りたまひしく、『愛しき我が汝妹(なにも)の命、汝然為(しかせ)ば、吾一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ。』とのりたまひき。ここをもちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり。」

『古事記』岩波文庫版 P.27-8

 日本古来の死生観の一半をここに見る。ただし、植物の繁茂と衰枯に似た「勢い」の論理で、死はどこまでも自然現象に過ぎぬと書いたのは浅薄だったかもしれない。火の神を産んで身罷った、母/女神の恨み憤りの深さを見逃すわけにはいかない。さらに見回して深刻なのは、依然として死の勢いは一日に千人の同胞を奪っていくのに、もはや一日に千五百の産屋が立たないことである。

***

 先週の日曜日は義父の葬儀、今夕は高校のクラスメートの通夜に参じた。3年前にクラス会が復活して以来、「飛び抜けて健康」と自他ともに認める市民ランナーだった。高校時代はほとんど女性恐怖の自分だったが、五十音順の出席番号で男子の4番、彼女は女子の4番だったから、試験の際など余儀なく隣に着席することになる。『明日のジョー』の熱烈なファンであるとか、将来は農家に嫁に行きたいのだとか、何かの弾みに聞かせてもらったことが記憶の底からふわふわ浮かんできた。

 こちらが何を話したかは、まるきり思い出せない。農家には嫁がず、東京都内で幸せな家庭を営み二男一女を成人させた。秋には信州から東京に向けて200kmを超える道のりを二日かけて走破するイベントに申込んでおり、逝去の翌日その参加証が届いたという。ゼッケンをランナー仲間に託すと御夫君。満場の参会者の頭上で穏やかに翳っていく雲間の青空を、しきりに見上げていた。

***

 旅先で撮った海外の教会の写真をブログに載せている人があり、これがまことに圧巻。

 『教会めぐり世界一周の旅 ~ 旅上で心癒された美しい教会を紹介』 http://wolfy.hatenablog.com/

 「写真転載厳禁」とあるところ、特にお許しをいただいて一枚だけ。Wolfy さんイチオシ、バーミンガムのカテドラルのステンドグラスである。

(http://wolfy.hatenablog.com/entry/2017/11/19/000000 より拝借)

Ω

 


アガパンサス

2018-06-17 08:55:48 | 日記

2018年6月16日(土)

 過去の記憶がもたらす不安や恐れから抜け出そうと苦闘している人に、何と伝えたらよいものか。

 もともと好きだったものは何もかも、どれもこれも不快な色に塗りつぶされ、何を思い出すのもつらいという。輝かしい人生の蓄えはすべて封印され、意欲も希望も内側からは出てこない。

 毎日の生活の中で、いま現に入ってくる香り、眺め、声に心を向けるよう勧めてみた。微かな明るさ、小さな美しさ、ささやかな微笑ましさ、それを細大漏らさず心に書き留め、もち来たって言葉にしてみませんか。

 一週間後に語られたこと、

 お隣のお花が、そう言えばきれいでした。背が高くて、青くて、線香花火を逆さにしたような姿をしていました。

 初めて見た花だから、記憶とも連想とも無縁である。「線香花火を逆さにしたような姿」、生きた言葉にヒントを見つけた。線香花火の思い出は、毒されておらず汚されてもいないということか。

 6月の青い花、それだけのヒントで正解が他愛もなく姿を現した。これに違いない。背が高くて、青くて、線香花火を逆さにしたような姿、これ以外にありえない。

根岸森林公園(http://negishi-shinrin.jp/283.html/)より拝借

 花の名をアガパンサス agapanthus という。agape(愛)+ anthos(花)、すなわち「愛の花」と解説はしたり顔に記すが、この「愛」の意味を彼の人はよく知っている。写真はたぶん Agapanthus africanus、英名 African Lily あるいは Lily of the Nile、和名は紫君子蘭(ムラサキクンシラン)、ユリ科とされたこともあったが、現在はヒガンバナ科に分類されている。

 半歩前進。

Ω