散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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将進酒から石丸神社へ

2023-11-27 11:21:34 | 日記
2023年12月14日(木)
 自分が一人っ子の育ちなので、配偶者は兄弟姉妹の多いに限ると幼い頃から念じており、これはめでたく満願成就した。4人の義兄弟妹とそのまたパートナーたちに恵まれ、今どき珍しいほど姻戚づきあいを楽しんでいる。
 いちばん近くに住む義弟夫妻から久々の誘いあり、11月末に中国料理店で会食した。前にも同じ店の似たような卓を囲んだはずだが、前回は気づかなかった壁の書に目が行った。幅2メートルもあろうか、立派なものである。開店祝いに贈られた揮毫であることが読みとれる。



 『将進酒』とは李白らしく、また酒家の壁を飾るにふさわしい。詳しい解説が下記にある。

 「天生我材必有用」のくだりが力強い。「天我が材を生ずる必ず用有り」すなわち「天が私に才能を与えた以上、必ずやこれを用いる時が来るはずだ」と読むのだが、さらに半歩を進めて「命と人生を与えられた以上、必ずそれを用いる時が備えられる」と解してみたい。死生学的な楽観主義とでも言っておこうか、そのように言い放って李白先生また酒を飲むのである。

 今朝になって写真を見直し、この書体は隷書というのだったか、隷書を含む六体(りくたい)とは何だったかと気になって、検索して出てきた画面の一隅に目が吸いついた。「六体千字文」や怪しげな画像に交じって現れたのが…


 石丸神社である! この神社に六体地蔵があるので、「六体」の検索語から釣れてきたのだ。
 書かれている仔細は、徳川レジームへの移行に伴って1600年代に起きた地域の小紛争、集団憤死ともいうべき事件であるが、わからないのはなぜそこが「石丸塚」と呼ばれ「石丸神社」の名に引き継がれたかということである。トリビアルな事情か、それ以上の何かがあるのか、ネット上ではわからない。
 家の伝承が正しければ、伊豫の風早あたりに石丸姓を名乗る我が家の先祖が住み着いたのは1600年代と推定される。謎に包まれたその事情を推理するのに、これまで伊豫河野氏との関係ばかりを考えていたが、隣国の土佐に「石丸」という地名なり人名なりがあり、しかも同じ1600年代に、河野氏と同じく新レジームの勃興に伴って滅亡の道をたどった集団に関連しているとすれば、関心をもたずにはいられない。
 名の由来は、すぐにはどうもわからない。行ってみるほかないだろうか。その昔、この名を担って同じ道を往来した人々のあることを思い描きつつ…

Ω

二十四節気 小雪

2023-11-22 11:34:43 | 日記
2023年11月22日(水)

小雪 旧暦十月中気(新暦11月22日頃)
 「寒さもまだ厳しくはなく、雪まだ大ならず」が「小雪」の意味するところです。
 雪国では雪が降り始め、街では木枯らしが木の葉を払い、冬の到来を間近に感じさせます。
 師走も目の前に迫り、人々が冬のコートを準備する時期。魚では鮟鱇や鮃、野菜では蕪や春菊など、冬の食材が走りとなる頃です。
『和の暦手帖』P.88-9
 
七十二候
 小雪初候 虹蔵不見(にじかくれてみえず)  新暦11月22日~26日
 小雪次候 朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)新暦11月27日~12月1日
 小雪末候 橘始黄 (たちばなはじめてきばむ)新暦12月2日~6日

 最高気温19℃では依然として冬の実感に乏しく、どうも落ち着かない。「虹蔵不見」は面白い。季節を関連づけてみたことはなかったが、言われてみればそうなのだろう。
 朔風がなぜ北風を表すか。
 「朔」は新月を意味し、従って月の初日を表す字でもあった。そこから「朔」は「始まり」の意となる。いっぽう、方位を円環としてイメージする場合、その始まりは北である。そこで時間的な始点を意味する「朔」の字が、空間的な起点である北と等置されたという次第。判じ物のようだが、これが風水などの面白さであろう。
Ω


 

朝刊の紙面から

2023-11-19 06:29:36 | 日記
2023年11月19日(日)
 「何かを書くということは、それ以外のことをすべて書かないということでもある」ぐらいなら、自戒もするし学生にも伝える。しかし、ここまでは考えなかった。

 「歌を詠むとき、本当に大事なのは何が表現されなかったのか」(永田さん)。短歌を教える際も「一番言いたいことは(直接的な言葉で)歌で言ってはいけない」と伝えている。鑑賞とは、その表現されなかった「寂しい」「感激した」といった感情を読み取り、デジタルな言葉からアナログの情報を再構築することだ、と解説する。
(朝日新聞本日朝刊文化面、歌人・科学者永田和宏さんと考える)

 なるほど、そうなんだな。だから歌が詠めないのか。
 ところでこれは歌だけのことではない、「本当に大事なことは言葉にしない」あるいは「できない」という暗黙の決め事が日本人のコミュニケーションの中にある。文学の豊かさの源であろうが、法の運用や政治過程には案外な害を及ぼしているかもしれない。明示的な言葉への信頼や義理立てが薄いのである。だから政治家の嘘は真剣に追及されず、文書の改竄は「またか」で終わりになると言えば、いささか飛躍が過ぎるだろうが。
 それはそれとして、上記は「歌詠むAI 創作・鑑賞の本質は」と題された記事の一部であり、末尾はこのように結ばれている。
 「AIを使った『贋作』の投稿が来たらどう扱うか。考えなければならない問題ばかりだが、面白がりながらつきあっていきたい」

 …偉いなぁと思う。皮肉ではない。自分の領域に起きてくるであろうAI問題について、僕はとても面白がることなどできそうにない。AI登場はいよいよ人類終焉のはじまりではあるまいかと、心底から怖いのである。あわせて昨日報道された羽生結弦の離婚の理由が、気の毒でならず憤ろしくてならない。特定個人の人生を破壊する作業に、SNSはかくも見事に力を発揮した。その責任は誰もとらないし、とらせようがない。これを便利と言い進歩と言うか、嫌な時代になったものだ。

***

 致仕【名・ス自】① 官職を辞して隠居すること。② 七十歳。▷ 昔、中国の官吏の停年が七十歳だったから。(岩波国語辞典)

Ω

見えないものを見る力

2023-11-18 17:26:30 | 聖書と教会
2023年11月18日(土)
 「老い」をテーマに話す機会が増えている。
 「老い」を肯定的に語ろうとすれば、「結晶性知能」「老年的超越」それにエリクソン言うところの「統合」といったところがヒントになるが、それらに通底するものとして「見えないものを見る力」を挙げても、あながち外れてはいないだろう。
 「たいせつなものは目に見えない」という星の王子様へのキツネの献辞があり、「昼のお星は目に見えぬ、見えないけれどあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」という金子みすゞの詩句がある。
 それらを見る魂の視力は、肉体の視力と入れ替わりに老年期に成長すると言ってみたい。すぐれてスピリチュアルなことがらでもある。
 
 関連して思い浮かぶ聖書の言葉がある。
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
『ヘブライ人への手紙』11章1節(新共同訳)
 「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
『へブル人への手紙』同上(口語訳)
 寸分変わりないようだが、「見えない」事実か、「まだ見ていない」事実かの違いがある。原文は下記。
 Ἔστιν δὲ πίστις ἐλπιζομένων ὑπόστασις, πραγμάτων ἔλεγχος οὐ βλεπομένων.
 
 βλεπομένων は動詞 βλεπω の一人称複数現在分詞。βλεπω は英語の see とほぼ等置されるが、「見る能力をもつ」というニュアンスがより強いようで、新共同訳の「見えない」はそのあたりを汲んでいるのであろう。
 口語訳の「まだ見ていない」は違う方向へ読み込み過ぎの感じがする。文語訳は「それ信仰は望むところを確信し、見ぬ物を真実(まこと)とするなり」と歯切れよく直訳しており魅力的ではあるものの、日本語の「見る/見ない」は意志的な意味合いが強く、「見ようとする/しない」の方向に話が傾いてしまう。ここはそれより、見ることができるかできないかの方が問題なのだろう。
 そういうわけで「見えない」は良いとして、当該事実がその性質としてそもそも不可視なのか、それとも今のわれわれがそれを見る能力をもたないのか、そのあたりは気になるところである。原文を素直に読むなら後者と思われ、それが地上の肉体に閉ざされた者の限界であるけれども、信仰はその限界を超えてその事実を「確認する/真実(まこと)にする」ことを促すというのである。
 核心をなす二つの言葉。
 ὑπόστασις : 「下に置く」の原義から転じて、① 土台、実在、実体、② 確信
 ἔλεγχος :動詞 ἔλεγχω に由来する名詞。この ἔλεγχω は ①(罪、過ちを)責める、② (真相を)あばく、摘発する、③ きびしく咎める、 ④ 鍛錬する、などとかなり厳しい言葉である。ἔλεγχος は「確認、確証」と訳されるが、語源から考えれば「徹底的に吟味・検証したうえで真実性を認める」といった強いニュアンスでなければならない。
 そのような意味で「望んでいる事がらを確信し、今は見ることができずにいる事実を真実と確認する」者の霊的視力たるや、驚くべきものとせねばならない。
 そうした能力の日々育つ老年期であるならば…


Ω







イシガメの奇癖

2023-11-18 11:57:03 | 日記
2023年11月18日(土)

 かりんとうさん、10月21日付再度のコメントありがとうございました。一か月以上もほったらかしで、御礼がすっかり遅くなりました。
 
> 詳しいなんて恥ずかしくて言えないくらいです。
> クサガメは必ずしも中国産ではなく日本産のものもあるようです。(若干、色も違うそうですよ。)
> カメのDNA検査なんて甲羅の一部持っていって専門の人に見てもらうしか思い付かないです。僕の場合は論文でしか見たことないですから。

> クサガメとイシガメの交雑種をウンキュウと言います。パッと見はイシガメだけどクサガメ特有の悪臭を放ったりするそうです。(イシガメ型ウンキュウ)と言うそうです。
> こんな風に見るとカメさん飼うのも楽しくなるかも。

 ウンキュウというんですね、なるほどネットにもいろいろ出ていました。

 「クサガメ特有の(懐かしい)悪臭」は、今のところ感知していません。それより、かりんとうさんに急ぎ御報告したかったのは、うちの亀のサンダル愛好癖のことです。こちらをご覧ください。


 このサンダルの定位置はというと、


 …当然ながらこんな感じです。きちんと並べておいたサンダルの下に入り込み、甲羅に乗せるようにして引きずっていくことを先日から繰り返しているんですよ。ピンクのものには見向きもせず、グレーの方ばかりです。甲羅の色とよく似ているので、下に亀がいることに気づかず、あやふく踏んづけそうになったこと一度ならず。
 外出中の所業を帰宅後に知ることもしばしばです。↓


 これ、何なんでしょうね?直接尋ねてみるんですが、寡黙なお方でお返事はありません。ぎゅっと結んで口チャックです。


 振り返ればずいぶん長いことプラスチックケースの中に囲い込んでいたものを、放し飼いを思いついてからいろいろ知るところがありました。ポーズだけでもさまざまで、眺めているだけで飽きません。

 

 こちらがベランダに出ると、見逃すことなく駆け寄ってくるのは以前に書いた通りです。てっきり餌を求めての行動と思っていたのですが、10月も後半に入って気温が下がってきてからは、目の前に餌があってもほとんど食べようとしないのに、姿を見るとやっぱり近寄ってくるのです。
 世話の手間がかからず、鳴いたり吠えたりで近隣を煩わすことなく、見ていて楽しくそれなりに懐く、おまけに寿命が長いので死ぬのを見なくてすむとなると、愛玩動物の至適条件をすべて具備した完璧な存在といえるのではないでしょうか。クサガメはかなり大きくなりますが、ニホンイシガメは15~20cm止まりというのも個人的には好ましいところ。
 そうそう、亀の甲羅の独特の模様も魅力の一つです。朝鮮王朝の玉璽や大韓民国初期の国璽は亀の形の金印ですね。ユーモラスにしてミステリアス、卓抜な発想でしょう。

 ベランダを見れば、ほら今朝もやってます。
 ピンクを経由して…

 こちらで落ち着きました。


 よほど居心地よいらしく、日暮れ近くまでそのままじっとしていました。

Ω