2013年9月16日(月)
台風18号に降り込められ、ブログ日和である。
子どもの頃、僕はバイオリンを習っていた。
けっこうな腕前だったんだよ、そうでないと話が面白くないでしょ。
当時まだ珍しかったバイオリンを、習い始めた経緯や最初に出会った先生のことなどは、今は省く。
3歳の時に東京で習い始め、前橋を経て松江まで続けた。
小3の夏から小6の夏まで、ちょうど三年間滞在した松江で忘れられない出会いがあった。
太田定明先生とおっしゃる、これは実名のバイオリン指導者である。
松江は歴史こそ豊かだけれど、当時で人口10万人ほどの地方都市。
バイオリンなんか教えてくれる人があるかどうか、怪しいものだったろう。
母はどこから太田先生のことを知ったものか。
長い話を短くするなら、太田先生はたいへんな名伯楽だったのだ。
詳しい経歴などは存じあげない。当時既に銀髪が目だつ御年輩だったが、松江と東京を往復しながら精力的に子どものバイオリンの指導にあたっていらした。
旧家の離れに手を入れたようなレッスン室を、今でもよく覚えている。
アップライトのピアノの前に座った先生の指導を、次の順番の子どもは長椅子に座って眺めている。
壁に掛かった写真が二枚、いずれもバイオリンをもった女の子が太田先生と並んで写っていた。
初めは気にも留めなかったが、やがてこれが驚きになった。
全日本ジュニアクラシック音楽コンクール、そのバイオリン部門で先生の門下生が過去に二人、第一位を受賞していたのである。
だから、という訳では、無論ない。
何かにひきつけられたのだ。
松江の三年間、ほとんど毎日、2時間は集中してバイオリンを弾いた。
調弦し、まず丁寧にボウイング、次にスケール(音階)を初めはゆっくり徐々に速く、それから練習曲、最後に本式の曲へと進む。野球なら、ランニングからキャッチボールと素振り、ノックやフォーメイションを経て練習試合へ進むだろう。芸事には、種類を問わず通底する原則というものがある。それを身に刷り込んだ気がする。
もちろん、父母の激励と全面的な支えのおかげで続いたことだった。
そして太田先生には、確かにものすごくかわいがっていただいたのである。
1965年から68年まで、松江の三年間はバイオリンの三年間だった。
*****
ただこれだけのことを書きとめようとして、一カ月以上も難渋した。
大きく深い体験ほど、簡単には言葉にならないという例のことを、またまた確認したのだね。
この三年間に何が起きたのか、豊か過ぎてよく分からないのだ。
記憶は溢れるほどたくさんあり、何から手を付けたらいいか迷うほどだけれど、もちろんそういうことではなくて。
たとえば、あのまま松江に住んで太田先生の指導を受け続けたらどうなっただろうか。
自分もコンクールに挑戦するようなことが、あるいはあったかもしれない。
音楽の道へ進んだ可能性もあっただろうし、それはそれで良い人生になったのだろう。
実際には予定通り三年後の父の転勤、行先は山形だった。
さらにわずか一年で今度は名古屋へ、このあたりは農林中金の人事がやや不調ではなかったかと思う。
人を有効に使うやり方とは思えないよね。
頻繁な引っ越しも慌ただしく、バイオリン修行は松江を去るとともに終わった。
ただ、名古屋NHKには放送児童管弦楽団というものがあり、そこに属してテレビの端っこに映るようなことはあったっけ。
太田先生は、山形にも名古屋にも訪ねてきてくださった。山形では確か、家に泊まって行かれたかな。
バイオリン指導には拘泥なさらず食事歓談を共にしお酒を召し上がり、トランプ手品を教えてくださったりして懐の深さの片鱗を示された。
名古屋で三年の後、高校進学を機に上京してからは、目黒にお住まいの太田先生とお目にかかる機会はいくらでもあったのに、なぜそうしなかったのかは、よくわからない。この時期、先生の方もバイオリン指導から退いてビジネスを手掛けておられた。何をやっても成功を収める幅の広さには驚かれる。
それだけに器用貧乏に陥りそうなところ、半端仕事では済まないバイオリン指導であれだけの成果を収められたことに、あらためて瞠目するのだ。先生の門下から出てオーケストラなどで活躍しているバイオリニストは、十指や二十指を下らない。
*****
ここまでは前振り、以下が本題である。
太田教室では、毎年夏に門下生一同を松江に集めて発表会を行った。
地元ばかりか、隣県の米子や時には東京から大勢集まり、相当な盛況だった。
僕はそこで三回演奏させてもらっている。曲目もよく覚えている。
1966年(小4) 『庭の千草』変奏曲
1967年(小5) モーツァルト『バイオリン協奏曲第5番』から、第一楽章
1968年(小6) べリオ『バレーの情景』
バイオリンの演奏にはピアノの伴奏が必要で、太田先生が人脈を活用して若いピアニストを集めてこられた。
島根大学の学生さんなどが多かったのだと思うが、ここに思いがけないことが起きて。
太田先生のお嬢さんが当時、桐朋学園のピアノ科で修行中でいらした。K子さんとおっしゃるこの方が、66年の夏には伴奏をお手伝いくださり、そして僕もK子お嬢さんに伴奏していただく幸運に浴したのだ。
僕は満9歳だったが、K子さんのことはよく覚えている。
気さくでおっとりした大柄なお姉さんだったが、いざ演奏が始まると他の伴奏者とは音からして違っていた。
真夏のことでノースリーブのワンピースを着ていらっしゃる、その肩から二の腕、前腕から指先までが、しなやかなハンマーのように強靭かつ自在に躍動する。子ども心に目を見張った。
練習を繰り返して臨んだ当日、『庭の千草』は前奏がないので、アイコンタクトで第一拍を出なければならない。
舞台にあがったら自分が世界の中心だ。胸は早鐘のように鳴っているが、怖いような充実感が同時にある。
プロの卵のK子さんが、今は主役の自分のためにグランドピアノの前で待機している。
思いきって目を合わせ、軽く楽器を振って演奏を始めた。あとは忘我。
演奏後に、K子さんに褒められた。
「本番では、誰でもアガって速くなるものだけど、君はいつもよりゆっくり弾いたね、大したものよ。演奏も本番がいちばん上手かったわね。」
これが自信になるまいことか。
今でも大勢の前に立つことがおよそ苦にならないのは、たぶんこの日に始まったのだ。
*****
これが本題かって?
違うんだな、まだあるのだ。
時は流れて2013年のとある午後、ふと・・・文字通りふと思いついたのである。
K子さんは精進の甲斐あって桐朋を卒業なさり、ピアニストになった。
その後、ある有名人の御子息と結婚なさったことを、何かの機会に耳にしていた。
お相手の苗字が、きわめて珍しいものなので記憶に残っている。現在のフルネームでインターネット検索したら、K子さんと太田先生の消息がわかるのではないか。
30秒後、あっけなく目的のサイトに到達した。
今は音楽療法という形でピアノを活かし、思いがけず僕の職域ときわめて近いところで活動していらっしゃる。
記されたアドレス宛に送信し、その日のうちにメールが数往復した。
太田先生はずいぶん前に他界なさり、奥様も今年天寿を全うされたとのことだった。
K子さんはすぐには僕のことを思い出されず、しかし一度お目にかかりましょうと御提案くださった。
こういう時、僕は役に立たない。場所から何からK子さんのアレンジまかせである。
高層ビル最上階のレストラン、診療を終えた足で、少し遅れて到着する。
「B様ですね、奥の席でお待ちです」
ウェイターに案内されて席に近づくと、大柄な女性がゆっくり立ち上がった。
暗い室内のそのあたりだけが、ぼんやり明るんでいる。
「はじめまして、Bです。」
「お久しぶりです、石丸です。」
松江の夏から、ちょうど47年が経っていた。
台風18号に降り込められ、ブログ日和である。
子どもの頃、僕はバイオリンを習っていた。
けっこうな腕前だったんだよ、そうでないと話が面白くないでしょ。
当時まだ珍しかったバイオリンを、習い始めた経緯や最初に出会った先生のことなどは、今は省く。
3歳の時に東京で習い始め、前橋を経て松江まで続けた。
小3の夏から小6の夏まで、ちょうど三年間滞在した松江で忘れられない出会いがあった。
太田定明先生とおっしゃる、これは実名のバイオリン指導者である。
松江は歴史こそ豊かだけれど、当時で人口10万人ほどの地方都市。
バイオリンなんか教えてくれる人があるかどうか、怪しいものだったろう。
母はどこから太田先生のことを知ったものか。
長い話を短くするなら、太田先生はたいへんな名伯楽だったのだ。
詳しい経歴などは存じあげない。当時既に銀髪が目だつ御年輩だったが、松江と東京を往復しながら精力的に子どものバイオリンの指導にあたっていらした。
旧家の離れに手を入れたようなレッスン室を、今でもよく覚えている。
アップライトのピアノの前に座った先生の指導を、次の順番の子どもは長椅子に座って眺めている。
壁に掛かった写真が二枚、いずれもバイオリンをもった女の子が太田先生と並んで写っていた。
初めは気にも留めなかったが、やがてこれが驚きになった。
全日本ジュニアクラシック音楽コンクール、そのバイオリン部門で先生の門下生が過去に二人、第一位を受賞していたのである。
だから、という訳では、無論ない。
何かにひきつけられたのだ。
松江の三年間、ほとんど毎日、2時間は集中してバイオリンを弾いた。
調弦し、まず丁寧にボウイング、次にスケール(音階)を初めはゆっくり徐々に速く、それから練習曲、最後に本式の曲へと進む。野球なら、ランニングからキャッチボールと素振り、ノックやフォーメイションを経て練習試合へ進むだろう。芸事には、種類を問わず通底する原則というものがある。それを身に刷り込んだ気がする。
もちろん、父母の激励と全面的な支えのおかげで続いたことだった。
そして太田先生には、確かにものすごくかわいがっていただいたのである。
1965年から68年まで、松江の三年間はバイオリンの三年間だった。
*****
ただこれだけのことを書きとめようとして、一カ月以上も難渋した。
大きく深い体験ほど、簡単には言葉にならないという例のことを、またまた確認したのだね。
この三年間に何が起きたのか、豊か過ぎてよく分からないのだ。
記憶は溢れるほどたくさんあり、何から手を付けたらいいか迷うほどだけれど、もちろんそういうことではなくて。
たとえば、あのまま松江に住んで太田先生の指導を受け続けたらどうなっただろうか。
自分もコンクールに挑戦するようなことが、あるいはあったかもしれない。
音楽の道へ進んだ可能性もあっただろうし、それはそれで良い人生になったのだろう。
実際には予定通り三年後の父の転勤、行先は山形だった。
さらにわずか一年で今度は名古屋へ、このあたりは農林中金の人事がやや不調ではなかったかと思う。
人を有効に使うやり方とは思えないよね。
頻繁な引っ越しも慌ただしく、バイオリン修行は松江を去るとともに終わった。
ただ、名古屋NHKには放送児童管弦楽団というものがあり、そこに属してテレビの端っこに映るようなことはあったっけ。
太田先生は、山形にも名古屋にも訪ねてきてくださった。山形では確か、家に泊まって行かれたかな。
バイオリン指導には拘泥なさらず食事歓談を共にしお酒を召し上がり、トランプ手品を教えてくださったりして懐の深さの片鱗を示された。
名古屋で三年の後、高校進学を機に上京してからは、目黒にお住まいの太田先生とお目にかかる機会はいくらでもあったのに、なぜそうしなかったのかは、よくわからない。この時期、先生の方もバイオリン指導から退いてビジネスを手掛けておられた。何をやっても成功を収める幅の広さには驚かれる。
それだけに器用貧乏に陥りそうなところ、半端仕事では済まないバイオリン指導であれだけの成果を収められたことに、あらためて瞠目するのだ。先生の門下から出てオーケストラなどで活躍しているバイオリニストは、十指や二十指を下らない。
*****
ここまでは前振り、以下が本題である。
太田教室では、毎年夏に門下生一同を松江に集めて発表会を行った。
地元ばかりか、隣県の米子や時には東京から大勢集まり、相当な盛況だった。
僕はそこで三回演奏させてもらっている。曲目もよく覚えている。
1966年(小4) 『庭の千草』変奏曲
1967年(小5) モーツァルト『バイオリン協奏曲第5番』から、第一楽章
1968年(小6) べリオ『バレーの情景』
バイオリンの演奏にはピアノの伴奏が必要で、太田先生が人脈を活用して若いピアニストを集めてこられた。
島根大学の学生さんなどが多かったのだと思うが、ここに思いがけないことが起きて。
太田先生のお嬢さんが当時、桐朋学園のピアノ科で修行中でいらした。K子さんとおっしゃるこの方が、66年の夏には伴奏をお手伝いくださり、そして僕もK子お嬢さんに伴奏していただく幸運に浴したのだ。
僕は満9歳だったが、K子さんのことはよく覚えている。
気さくでおっとりした大柄なお姉さんだったが、いざ演奏が始まると他の伴奏者とは音からして違っていた。
真夏のことでノースリーブのワンピースを着ていらっしゃる、その肩から二の腕、前腕から指先までが、しなやかなハンマーのように強靭かつ自在に躍動する。子ども心に目を見張った。
練習を繰り返して臨んだ当日、『庭の千草』は前奏がないので、アイコンタクトで第一拍を出なければならない。
舞台にあがったら自分が世界の中心だ。胸は早鐘のように鳴っているが、怖いような充実感が同時にある。
プロの卵のK子さんが、今は主役の自分のためにグランドピアノの前で待機している。
思いきって目を合わせ、軽く楽器を振って演奏を始めた。あとは忘我。
演奏後に、K子さんに褒められた。
「本番では、誰でもアガって速くなるものだけど、君はいつもよりゆっくり弾いたね、大したものよ。演奏も本番がいちばん上手かったわね。」
これが自信になるまいことか。
今でも大勢の前に立つことがおよそ苦にならないのは、たぶんこの日に始まったのだ。
*****
これが本題かって?
違うんだな、まだあるのだ。
時は流れて2013年のとある午後、ふと・・・文字通りふと思いついたのである。
K子さんは精進の甲斐あって桐朋を卒業なさり、ピアニストになった。
その後、ある有名人の御子息と結婚なさったことを、何かの機会に耳にしていた。
お相手の苗字が、きわめて珍しいものなので記憶に残っている。現在のフルネームでインターネット検索したら、K子さんと太田先生の消息がわかるのではないか。
30秒後、あっけなく目的のサイトに到達した。
今は音楽療法という形でピアノを活かし、思いがけず僕の職域ときわめて近いところで活動していらっしゃる。
記されたアドレス宛に送信し、その日のうちにメールが数往復した。
太田先生はずいぶん前に他界なさり、奥様も今年天寿を全うされたとのことだった。
K子さんはすぐには僕のことを思い出されず、しかし一度お目にかかりましょうと御提案くださった。
こういう時、僕は役に立たない。場所から何からK子さんのアレンジまかせである。
高層ビル最上階のレストラン、診療を終えた足で、少し遅れて到着する。
「B様ですね、奥の席でお待ちです」
ウェイターに案内されて席に近づくと、大柄な女性がゆっくり立ち上がった。
暗い室内のそのあたりだけが、ぼんやり明るんでいる。
「はじめまして、Bです。」
「お久しぶりです、石丸です。」
松江の夏から、ちょうど47年が経っていた。