散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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夜回りの拍子木

2019-07-31 13:57:17 | 日記
2019年7月29日(月)
 「夜回りが拍子木を打ちつつ戸外を通る」という記述が、『かもめ』に1回、『ワーニャ伯父さん』に2回表われる。
 どこの社会にもある風景なのが面白いが、「火の用心」を呼びかけたものかどうかは分からない。一般的な安全・防犯が狙いかもしれない。

 レンブラントに『夜警』という絵があったのを思い出し、これも同じテーマならば面白いと思ったが、これ実は市民兵の出動を描いたもので、日中の風景なのだという。
 
 レンブラント(1606-69)1642年の作品。イギリスでは清教徒革命、日本はその前年にオランダ商館が出島に移された。オランダ海上帝国の黄金時代、しかし画家自身はこの年に29歳の愛妻を結核と思われる病で失い、これを境に私生活が暗転していく。
Ω

かもめ/神さまの居候

2019-07-28 18:41:34 | 日記

2019年7月28日(日)

 そういえば『かもめ』、チェーホフの代表的な戯曲を長らく読んでいなかった、試験監督の行き帰りに久しぶりになどと言ってみたいが、実はまるで読んだことがなかったのである。チェーホフの小説が無性に好きで、『退屈な話』だの『グーセフ』だのに夢中になっていたら、嫌みな輩が、
 「チェーホフだったら戯曲を読まないとね」
とか訳知り顔に言うもんだから、
 「戯曲は読むもんじゃなくて芝居で見るもんでしょ」
などとやり返したっきり、あっという間に40年経った。自分が損するバカな性格、今なら「なるほど」とその日のうちに読むだろうけど。

***

 「Я — Чайка ヤー・チャイカ(こちらカモメ)」、人類初の女性宇宙飛行士テレシコワ(当時26歳)が、1963年6月16日に宇宙船内から発信したメッセージである。「わたしはカモメ」はちょっとした流行語になり、当時前橋に住んでいた小学一年生の耳には牧歌的にも詩的にも響いて、宇宙に浮かぶカモメの翼が思い描かれた。

 「日本では、チェーホフの戯曲に登場する台詞「私はカモメ」と結びつけて紹介され、ミッションの代名詞として広く知られた」とWikiにある。続けて下記のスリリングなエピソードが紹介されている。(Wikiの日本語がひどく乱れているので、そこは修正。)
 「私はカモメ(чайка)」が世界的に有名になったのは、飛行ミッション終盤に宇宙船ボストーク6号の操作が困難となり、地上に帰還できない危険が生じた経緯と関係している。テレシコワは地上基地へコールサイン「こちらカモメ(чайка)」を送り問題解決を要請しようと試みたが、連絡が取れなかった。コールサインを送る際に無線バンドを間違えていて地上基地に届かなかったのだが、間違えた無線バンドが当時西側で広く使われていたものだったため、そのバンドに乗って「こちらカモメ(чайка)」が全世界に届いたのである。その後、間違いに気づいた地上基地が、同じ無線バンドを使ってテレシコワと連絡をとり、宇宙船の操作を修正して無事帰還に至った。搭乗すること70時間50分、地球を48周し、その間に宇宙酔いによるパニックを経験したという。後年、テレシコワは「こちらカモメはSOS信号だった」と語っている。」


 『カモメのジョナサン』『カモメに飛ぶことを教えた猫』から釈宗演老師※に至るまで、カモメは飛翔と自由の象徴として肯定的に捉えられている。ただそのリアルな姿はというと、種類によって違いもあろうが概して頑丈なくちばしを備えた猛禽で、極地ではペンギンの不倶戴天の敵である。 カモメの側からは草刈り場のようなもので、親ペンギンの隙を盗んでペンギンの雛をさらい、やすやすと空中を運んでいく。気づいた親ペンギンがヨチヨチと後を追っても、追いつくすべなどない。ふわりと岩場に着地するや、親ペンギンの恐慌を横目に即座に雛をむしって食べ始める。
 むろん、カモメを残忍とか冷酷とか言うのはあたらない。彼らはそのように創られており、そのように生きるほかなく、そのようにして彼ら自身の卵を返し雛を養う。カモメもペンギンも太古の昔からそこにおり、どちらも生きながらえて今日に至る。そうは言っても、その姿にたおやかさ和やかさを投影するのは、そうと知ってはもはや困難な相談である。

https://jp.sputniknews.com/entertainment/201708053962525/ 

 チェーホフはカモメを起用するにあたり、どの程度リアルにこれを観察しただろうか。もっともさしあたり観察は必要のないことで、カモメは強烈なシンボルとして全編の主題を紡いでいくが、この鳥の現実のプロフィルは一言も言及されない。主人公トレープレフが第2幕で一羽のかもめを射殺し、そのことがトレープレフ自身と彼の焦がれる美女ニーナの記憶に刻印される。女優を志して家を出たものの、辛酸を舐めた末に帰郷したニーナが第4幕で「私はかもめ、いいえ女優」と繰り返す。絶望したトレープレフは2年前に失敗した自殺企図 ー この時カモメはいわば身代わりになった ー を今度は成功させる。ニーナはカモメを克服し、トレープレフはカモメとなって滅んだ。
 いっぽう、成功した作家でありトレープレフの母の愛人でもあるトリゴーリンは、射殺されたカモメに興を感じる。「あなたみたいな若い娘が、カモメのように湖が好きで、カモメのように幸福で自由であるのを、ふとやって来た男が見て、退屈まぎれに破滅させる、ちょうどこのカモメのように」と短編のアイデアを呟きながら記し、それがニーナの運命の寸分たがわぬ予言となるなる。トリゴーリンはカモメを剥製にするよう指示したらしいのだが、第4幕で館の支配人シャムラーエフからそのことを聞かされても、思い出すことができない。
 まさしくチェーホフの世界、それにしてもたいへんな「喜劇」である。


 懐かしい新潮文庫で『かもめ』とセットになっているのは『ワーニャ伯父』である。『ワーニャ叔父』にあらず、ワーニャことイワン・ペトローヴィチ・ヴォイニーツキイは、ソーニャことソフィヤ・アレクサンドロヴナ・ヴォイニーツカヤの亡母の兄にあたる。

 ワーニャはイワンでつまりヨハネ、ソーニャはソフィヤ、そうか、ペトルーシュカはピョートルでつまりペトロなんだな。

 『ワーニャ伯父さん』から、三カ所だけ抜き書きしておこう。

【その1】 第1幕(P. 143)
 エレーナ いいお天気だこと、きょうは、暑くもなし
 ワーニャ こんな天気に首をくくったら、さぞいいだろうなあ

【その2】 第3幕(P. 204)
 ソーリン 話というのは、ほかでもないが、何分にもわれわれは「マネット・オムネス・ウナ・ノックス」、つまりその、老少不定でありますし、ことにわたしはこのとおりの老人でもあり、病身でもあるしするので・・・
 註: manet omnes una nocs すべての人をたった一つの夜が待ち受ける(ホラティウス)

【その3】 第4幕(P.219)
 テレーギン けさもね、ばあやさん、わたしが村を歩いていると、あの店の亭主がうしろからね、「やあい、居候!」って、はやすじゃないか。つくづく、つらくなったよ。
 マリーナ ほっておおきよ、そんなやつ。わたしたちはみんな、神さまの居候じゃないか。

 そうだ、カモメに戻ってもうひとつ、耳の痛いところを。

『かもめ』第4幕(P. 99)
 ドールン 六十二にもなって人生に文句をつけるなんて、失礼ながら ー 褒めた話じゃないですよ。

※ 先に掲載した釈宗演師自筆の葉書を、僕は昭和3(1928)年に書かれたものと推定したが、師は大正8(1919)年に遷化(他界)しておられる由。消印は大正3(1914)年のものであろうと竹内香さんから御指摘いただいた。まるまる一世紀を遡り、第一次世界大戦が始まった年にあたる。
https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/ecb2857c5fcd2a5cb16e64e7d4f899db

Ω

選挙結果に一筋の光明

2019-07-24 09:07:51 | 日記
2019年7月22日(月)
 参議院選挙から一夜明けて来信あり。許諾を得て抜粋転載する。筆者AMさんは視覚障害のある男性で、堂々たる体躯から朗々と発せられる歌声は伴奏のオルガンを圧倒し、少しボリュームを下げてと注文がつくほどだった。オペラ歌手とか、目ざさなかったのかな。

***
 おはようさん。
 参議院選挙が終わりました。比例区で、私からのお願いを以前メールしていた(かもしれない)会派は、なんとなんと、2名の障碍ある人々を国会に送り出すことに成功いたしました。
 僕より障害の程度は重い人々、体が動かなくなる神経の病の方と、頸椎損傷で車いすの方です。なんとしても1人は当選しないかなと祈っておりましたが、2名当選とは望外の喜びです。
 前内閣府の「障碍者白書」によると、国民の12人に一人になんらかの障碍があるとされる時代に、YT氏の動きは非常に興味深い。次の衆議院選挙で強敵相手に立候補し、当選していただきたいと思っています。この思い、伝わるかな?  

 ただ、誰しもアブラハムやヨブくらいに年齢を重ねたら、障碍の1つや2つもちながらの人生となることでしょう。そのときでも、幸せであること。本当はそれには、現実の政治の力ではなく、信仰の力が必要なんだと痛感しています。
 それにしても、投票率48.8%っていったい………。

***

 ALSも頸椎損傷も、ここ数年のうちに親しい知人や親族に繰り返し起きたことだった。苦々しい朝にも気がつけばこんな光明がある。AMさん、メールありがとう。

Ω
 


大器だけに・・・

2019-07-24 07:32:51 | 日記
2019年7月21日(日)
 https://matomame.jp/user/yonepo665/17efaa87296f527f399b
 考え方はいろいろあるが、大器だけにたいへん残念。本人が屈託なく「めっちゃ嬉しい」などと語っているのがもっと残念。取り組み後の館内は拍手皆無、何とも言えないざわめきの波動、客の心に気づいてないのだね。できてないのは、すり足だけではないということか。
 かたや大関から落ちて以後も、愚直に自分の相撲を取り続ける琴奨菊、白鵬を破った14日目の一番は真にお見事。敗者に送る心からの拍手。

上記サイトより

Ω


「持参」のココロ/鎮西山と八郎為朝

2019-07-23 07:55:19 | 日記
2019年7月23日(火)
 「持参」の語義について、辞書には「持って行く/持って来る」ぐらいの簡潔な説明しかない。これを文字通りにとれば、「B29が大量の爆弾を持参し、日本の国土にばらまいていった」式の用い方も可能な理屈である。
 しかし言葉には辞書的な語義とともに、用例の歴史的蓄積というものがある。裁判制度に法律の条文と並んで、判例の蓄積があるのと同じ。そして条文の趣旨は判例によって確認され、確定されていく。
 「弁当持参」
 「持参金」
 「筆記用具を持参してください」
 「持参人払い」
 いくらでも挙げられるそれらの用例は、持ち来たったその物品が何かしら建設的に用いられ、その場の人間関係を促進発展させる方向に働くことを共示している。それを保証するのが「参」の字で、これには「参拝」に示されるへりくだりの意味と、「参加」が表すかかわりの意味がこめられる。「参戦」というきな臭い言葉ですら、意義ある闘いに同志と共に加わるという、価値創出的な意味合いが託される。
 「持参」とは、単に物を運んでくることではない。その物を携えて人間関係に入ることだ。「持って参じる」から「持参」なのだ。
 だから、
 「容疑者、包丁6本持参か」という見出しは、僕には悪い冗談としか思えない。料理教室じゃあるまいし、「携行」とでもしたらいいだろうに。たとえ加害者にどれほど暗い激情があったとしても、何かを持参するような心のありようだったら、こんな結果に至りはしなかった。
 「持参」という言葉が、ベソをかいているように感じられる。俺のこと、こんな使い方しないでくれよ、と。

***
 夏休みのラジオ体操は全国を巡回して行われる。体操の先生も伴奏者も、さぞ大変だろうが羨ましくもある。
 今朝は佐賀県上峰町、佐賀・鳥栖・久留米が作る三角形の中にあり、至近には吉野ヶ里遺跡。古来、住みやすい場所であったに違いない。町の北部に位置する標高202mの鎮西山は、鎮西八郎為朝が九州平定の際、山頂に小城を築いたことからこの名を得たという。わが故郷・伊豫風早の恵良山302mは、南北朝時代に北条の残党が立てこもったことを前に書いた。よく似た構図で、日本各地の小山の多くが同種の来歴をもつのだろう。
  ⇒「太平記に懐かしい地名を見ること」

 為朝という人物は頼朝・義経の叔父にあたる ~ 伯父にあらず。剛勇無双といえば聞こえは良いが、要は生まれながらに手のつけられない暴れん坊で、とりわけその強弓の威力は凡百の矢と比べて小銃と大砲ほどの開きがあった。伊豆で自刃する直前には、300人ほどの兵士を満載した軍船を一矢で沈めたといわれる。
 天衣無縫の暴れ方は素戔嗚尊(スサノオ)を彷彿させ、それが九州平定に役だったことは日本武尊(ヤマトタケル)に重なるが、「鎮西総追捕使」は勝手に自称したもので、朝廷としてはありがた迷惑な存在だった。同じく九州を足場に鬱勃たる野心を抱えて私闘を連ねた、足利尊氏の庶子・直冬、あるいは2世紀前の源氏の祖先に自らを重ねるところがあったか。
 上峰町には「鎮西八郎」という銘酒がある由、さぞかしごっつい酒かと思えば「味わい柔らかく料理の邪魔をしない食中酒」とある。命名の面白さ。

正一位為朝大明神肖像(歌川国芳)東京都立図書館蔵

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