散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

東京のいい人たち/N先生・赦しということ

2013-05-31 06:53:16 | 日記

今日は世界禁煙デー、1989(平成元)年にWHOが決めた。

1859(安政6)年 ビッグ・ベンが動き出す

1891(明治24)年 シベリア鉄道着工

1976(昭和51)年 外務省、戦後の外交機密文書を一部公開

以上、5月31日の来歴。

 

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放送大学への通勤には、りんかい線から京葉線を使うことが多い。このルートはビジネス・パーソンと行楽客(死語だな、ほとんど)が混在するのが面白い。りんかい線沿いのお台場、国際展示場あたりを目指す人々に、京葉線沿いの葛西臨海公園、東京ディズニーランド、さらには幕張メッセの催し物会場までさまざまな層が混じっている。安定して最も多いのはディズニーランド組だ。

 

新木場は、りんかい線のターミナルだから乗客は皆、降車する。

深く眠り込んで起きない客がひとりいるが、若い女性なので男性客たちは気にしながら声もかけない。

ホームで大きな声がした。「誰か、このケータイ忘れてませんかぁ!」

スポーツウェアに野球帽の年配の男性が、銀色の携帯電話をかざしてあたりに呼びかけている。

エスカレーターで途中まで挙がった女性が、ん、と振り返り、果敢に昇りエスカを駆け下りて(けっこう大変だ、ビデオの早回しみたいに手足を動かすのに、身はなかなか進まない)戻ってきたが、「違いました、私のじゃないです。」

「せっかく戻ってきたのにねぇ」と男性は優しい。

 

どうするかと見ていたら、エスカレーターを挙がってまたまわりに呼びかけ、今度はめでたく持ち主にめぐりあった。

二人連れの女性のひとり、ペコペコと頭を下げて受け取った。

「親切なオッチャンで良かった」

「東京にも、ええ人おるんやなー」

と言い交わしている。

「けっこう、いますよ、いい人は」

と追い越しざまに声をかけたが、どうやら二人はディズニーランド組のよう。

眠りこけていた客、エスカレーターを駆け下りてきた客、この二人連れ、申し合わせたように丸っこい体型の女性だったのが、妙におかしい。

 

こういう「いい人」話を聞くといつも思い出すのが、アベベの指輪のことだ。

裸足の王者、アベベ・ビキラは1960年のローマ、64年の東京と、オリンピック男子マラソンで連続優勝を果たした。

68年のメキシコでは途中棄権、実はレース中に腓骨を折っていた。

 

東京は裸足でなく、シューズを履いて無敵の独走で世界記録を樹立。

そのレースの数日前のことだと思うが、彼は指輪を落としている。

ただの指輪ではない。

ローマ大会で優勝を遂げたアベベは、エチオピアの国民的英雄となった。中でも喜んだのが、時の皇帝ハイレ・セラシエであったことは想像に難くない。そしてアベベは、持ち帰った金メダルを皇帝に献上した。

「陛下にさしあげます。私はもうひとつもらいますので。」

そう言ったと伝えられている。

皇帝は金メダルを嘉納し、代わりに高価な指輪をアベベに下した。アベベが東京でなくしたのは、この指輪だった。

 

数日後、指輪が一市民によって発見され無事に戻ってきた時、アベベは喜び世界が驚いた。

日本の市民の公徳心の高さに、である。

 

このことの光についても影についても、考えることはあって複雑だ。

しかし、まずは皇帝とアベベのその後について。

皇帝ハイレ・セラシエは1930年生まれの俊英だったが、国民の窮状を顧みない軍事独裁で内外の強い反発を招いた。1974年9月2日、クーデターにより逮捕・廃位、拘禁中の1975年に死去。廃位直後に射殺されたとも言われる。45歳。

 

皇帝より2歳年下のアベベは、惨劇を見ることがなかった。

メキシコ五輪半年後の1969年3月、自動車運転中に事故が起き、第7頸椎脱臼で下半身不随となる。

ロンドン郊外の病院で「マラソンのトレーニング以上に過酷な」リハビリに励み、1971年にはノルウェーで開催された身障者スポーツ週間の犬ぞりレースで優勝を果たした。1973年、脳出血により急逝。交通事故の後遺症が遠因だったと思われる。41歳。

 

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出勤前にメールをチェックし、久しぶりにN先生からの来信を見て心楽しむ。

いつも、大切なことをそっと打ち明けてくださるのだ。

本文と添付の文書二つを打ち出し、舞浜を過ぎて空いた京葉線の中で一読、再読。

赦しがたい者を赦すことについて、身をやすりで研ぐようにして記された言葉だ。

もちろんここには書けないから、代わりに自分の返信の一部を書き留めておく。

 

「私という人間を今でも赦せずにいる人が、この世の中に何人か存在することを私は知っています。

その人々が赦せない気持ちをぎりぎり抑えていてくれるから、私は生きていられるのだと思います。」

 


足かけ三日

2013-05-30 09:07:33 | 日記

5月28日(水)

1980年の今日、ロッテ・オリオンズの張本勲が前人未踏の通算3000本安打をホームランで達成。

ところは川崎球場、相手は阪急ブレーブス、マウンドには小さな大投手と呼ばれた剛腕の山口高志がいた。

79年末の読売納会で、それまでフロントに口を出したことのなかった王さんが、「張本に巨人で3000本を打たせてやってくれ」と強く訴え、張本が泣きながら止める場面があったのだと。直訴叶わずロッテに移籍しての記録達成、張さんにはこのほうが似つかわしい。僕らには、「東映の張本」のイメージがいまでも強いもんな。ヤクルトへ移って日本一に貢献した大杉勝男(故人)や、張本と同じく在日で同じようにいかつい肩と顎をもっていた白仁天、浪商出身の怪童尾崎など、野武士集団の東映フライヤーズは魅力的なチームだった。

 

先週末から何だか忙しくしている。

金曜の診療の後、土日は大宮で面接授業。

面接授業は力仕事なので月曜は虚脱状態だったが、大学のちょっと大事な事務仕事に、来週のダブル講演の資料作りなどがあって気ぜわしい。

火・水は試験問題の校正作業、コースを挙げてとりくむ年中行事になっていて、今年はその段取り担当などなど・・・

 

忙しいということは、書き留めておきたいできごとがいろいろ起きるということでもあるから、本当は忙しいときほどブログ(=日記)を書きたいわけなので、ここに矛盾というか葛藤が生じる。いつだって、これがきっかけで日記が続かなくなる。してみると、繁忙のさなかに丁寧に日記を残していた歴史上の人物たちは、それだけでも大したものだ。

 

マルクス・アウレリウス・アントニヌス、いわゆる五賢帝の掉尾を飾る哲人皇帝は、それこそ寸暇も与えられない公務のさなかに、内省に富んだ日記をギリシア語で書き留めることを怠らなかった。それがいま『自省録』として僕らの手にある。

 

趣はだいぶ違うが、岩波新書『ピープス氏の秘められた日記』も面白い。御本人はまさかこれが500年の後に伝わって日本で出版されるとは思わなかっただろう。海軍大臣まで務めた人物とあるから庶民とは言い難いが、その内心のありようや素行はきわめて庶民的で、当時のその地の人間について知るには非常に価値が高いものだ。

イギリスの海軍大臣と行っても、この時期はオランダ海軍がテームズ川を遡航してロンドンを脅かすような時代だったから、ピープス氏も必ずしも順風の公的生活ではなかったはず。実際、かなり「いかがわしい」ことも日記には書かれている。

 

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などと書いてから、もう三日経ってしまった。

この間、Fさんたちは拙い原稿をパンフレットにまとめる作業を手際よく進めてくださった。

高尾九段は本因坊戦挑戦手合いの第2局で、白番中押し勝ちをおさめた。コウの連続からリズムをつかんで会心の一局。

自分はその間、何をしていた?

 

梅雨の曇天、焦る気持ちそっくりに低く垂れ込めている。

 

 


ヴォーリズ・古本屋・靖国神社

2013-05-24 07:10:19 | 日記

遅筆なのだ・・・

 

二日間こもって、ようやく6000字ほど。

CMCCのFさんにメールで送り、あとはお任せして木曜日の仕事に出かける。

 

場所が御茶ノ水なのが嬉しいところで、ここは東京の中でもいちばんなじみが深く、思い出も多い。

息子達三人とも、御茶ノ水のS病院で生まれた。仕事先はその100m手前である。

 

仕事の後は、坂を下って三省堂へ。

途中、通り沿いに近江兄弟社のビルがあるのに初めて気づいた。

入り口に創業者ヴォーリズの人と業績が紹介されており、この人物のことをあらためて思った。

「お雇い外国人」とは少々違った系列の「伝道し啓発するアメリカ人」、ヘップバーン(ヘボン)などとあわせて一つの類型を為すかも知れない。ヘボンもヴォーリズも牧師ではなく、平信徒である。医師・ヘボン式ローマ字の考案者・明治学院の創立者であるヘボン、やや時代下って建築家・実業家のヴォーリズ、19世紀プロテスタントの世界伝道の潮に乗ってとはいえ、大した人々だ。

突飛なようだが、精神においてはリビングストンなどとも通じている(はずだ)。

 

ヴォーリズが日本に帰化し、一柳米来留と名乗ったのは1941年、日米開戦の年である。

一柳は子爵令嬢だった夫人の姓、米来留(メレル)は彼の本名への当て字だが、「アメリカより来て留まる」の意を託す諧謔の味が良いだろう。よくもあの時期に留まったものだ。敗戦時にはマッカーサーと近衛文麿の仲介にあたり、「天皇を守ったアメリカ人」とも称されるとは、例によって Wiki の情報。

日本が国際社会に復帰した象徴的なできごとである東京五輪開催を目前に、84歳で没している。

 

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三省堂で、城山三郎の『男子の本懐』を買うつもりだったが、紙ベースのものは品切れ、代わりに電子版が検索機から吐き出されてくる。

電子版って、どうやって買うの?時代だなぁ・・・

この本はタイトルが示すとおり浜口雄幸、そしてその盟友ともいえる蔵相・井上準之助を扱ったものだそうだ。

アベノミクスが厚かましくも礼賛する高橋是清(彼自身は偉大な人物だ)と対置して、城山三郎が注目したと数日前のラジオで聞いたのだ。

電子版、読めるようにしよう。

 

三省堂から靖国通りを渡って路地に入り、A古書店で一瞬の買い物。

「激闘の七番勝負」

これだ、目をつけていたのだ。

1973(昭和48)年の8月~10月、若き名人・林海峰が、さらに若く日の出の勢いの石田秀芳本因坊を迎えて、まさに死闘の連続。

三連敗四連勝の離れ業で防衛を果たした熱い棋譜だ。

林の師匠である呉清源のコメントも貴重。

 

ほくほくと嬉しい気分で靖国通りを市ヶ谷まで。

膝の調子が怪しいのでジョギングを封印している分、基本に戻ってせいぜい歩く。

ふと思い立って靖国神社の境内に入り、大鳥居から大村益次郎の銅像横を抜け、本殿の前で通りに戻る。

上京した母方の祖母がをここに連れてきたのは、確か73年ではなかったか。

高校二年、当時は囲碁にさほどの興味をもっていなかった。

祖母の思いも、わかるようでわかっていなかった。

 

市ヶ谷の日本棋院購買部で、碁石や碁笥を眺めて目の保養。

実に美しいものだ。

 

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明ければ朝刊は株価暴落を告げる。

あたりまえだ、素人が考えたって。

スタンドプレーの裏は、早めに明らかになった方が良い。

傷が深くなりすぎないうちに。

 

 

 


吸って吐いて/溜めて吐いて/漢字かな交じり文

2013-05-22 09:07:28 | 日記

月曜日は雨の赤坂でH先生とお目にかかり、御教示をいただく

充実の90分

 

火曜日は家にこもり、少しばかり原稿を書いた

もどかしい一日

 

ウン、と溜めて

アッ、と吐く

 

要するにその繰り返しだ

今日は吐く日か、溜める日か

22日の水曜日

 

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「吐く」という言葉は語感が悪くて損をする。吐瀉のイメージが強いのだ。

吐血は胃から、喀血は肺から、といって「喀(は)く」でもなかろう。

いっそ、呼吸の呼の字を使って「呼(は)く」とでも読ませたいところ。

 

これはひょっとして、漢字の訓読を開発した祖先の作業の再演だろうか?

何しろ天才的な発明だ。

「漢字かな交じり文」こそ、僕ら固有の文化だよ。

これは大事にしていかなければ。

 

ラカンは漢字かな交じり文のことを知って、「日本人に精神分析は不要かもしれない」と語っている。

もちろん、彼一流の冗談だろうけれど。

 

仕事だ!

来たれ聖霊

 

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テングザルと信心と

2013-05-21 09:33:50 | 日記

 

すごいよね。

テングザルの親子、ボルネオ(マレーシア領)で撮影されたとある。

写真家は Tim Laman、名前の感じはマレー人かしらん。

カメラメーカーの今年のカレンダーがちょっとした breathtaking な写真集になっていて、その三月の分だ。

 

あ、見えない?

高木から高木へ、空中ジャンプするテングザルのお腹に、赤ちゃんザルがしっかりしがみついているんだよ。

すごいなあ。

 

ところで、信心には「サル型」と「ネコ型」があるんだそうな。

サル型は人間が神様につかまって運ばれる

ネコ型は神様が人間をくわえて運ぶ

 

プロテスタントはネコ型が筋目だというんだが、本当にそうか、現にそうなっているか。

しがみつきもするし、運んでももらうのだ。そんなのジョーシキだ。

 

今日もそんな一日、来ませ聖霊よ