散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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5月末、向暑の日曜日

2017-05-28 21:15:11 | 日記

2017年5月28日(日)

 27℃という気温以上に暑さを感じるのは、向暑の途上にあるからか。花々は陽差しの中で生き生きしている。

 

 夜に入って、NHKスペシャルが国連PKO活動の実情を扱った。特にオランダのそれについて、武力を行使して起きた後悔、行使せずに生まれた後悔をこもごも経験し、それをつぶさに国民に開示して今後を問う同国の歩みが貴重である。中近世以来、陽にも陰にも究極の先進国だが、明治政府が医学の範をドイツに求めオランダを捨てて以来、日本との距離がいささか遠くなった。第二次大戦中にはマラッカあたりで相当の遺恨を生じている。僕の記憶にある最初のオランダ人は、東京五輪の柔道無差別級で日本の全階級制覇を阻んだ巨漢アントン・へーシンク、柔よく剛を制し得ぬ現実に落胆したものだが、それでも当時は国際戦でも柔道らしさが保たれていた。何より日本の武道を愛しよくする外国人があることを知って、世界の見え方が変わったものである。

 そういえば白鵬、全勝で38回目の優勝は見事というほかなく、「三日間の断食」を含む厳しい自己鍛錬に頭が下がる。日馬富士との今時珍しい長時間の熱戦を制して「ただいま」とは粋なものだ。それだけに残念なのが立ち会いで、カチアゲという名の肘打ちをやらなくなったと思ったら、今度は連日のように相手の顔を張っている。そんなことしなくても破格に強いのだから、是非ともいま一歩の品位向上を望みたいと素人の願い。

 話が戻って、オランダ軍の大佐がオランダ語で苦衷を語った末、最後を短く英語で締めたのが印象に残った。

 "Peace-keeping, but there's no peace to keep." 「(我々の任務は)平和維持だが、維持すべき平和が存在していない。」

 言葉の切れ味を武の人に教わる図である。

Ω


庭の風景 ~ フジと毛虫の親密な関係 / サクランボをカラスと分け合う

2017-05-26 23:00:47 | 日記

2017年5月25日(木)

 これもGWの写真から。毛虫を見ただけでジンマシンが出ちゃう人は、このままページを閉じてくださいね。ショック死するといけないから。判断する間がもてるよう、美味しい眺めから先に。

 

 ひょっとして昨年も書いたかもしれないが、庭の東南隅に3~4本の桜の木がある。ソメイヨシノとは違う純白に近い花を遠慮がちに咲かせるだけだが、散った後はなかなか立派なサクランボを実らせるのだ。到着時には緑一色だったものが半日単位でどんどん色づいていき、そうなるとカラスやヒヨドリと競争になる。美味しいものも食べ頃も、よくよく御存じの抜け目ない面々だからね。

 ほどよく色づいたものを口に放り込むと、「甘酸っぱい」とはまさにこれなり、明るい野趣が舌の上にさっと広がる。甘いばかりの商業果実に慣れた人なら、「酸っぱい」と顔をしかめて吐き捨ててしまうだろうけれど。

***

 同じ日、奥庭の石灯籠横のツツジの群れに、例年通りフジが絡んで大きく伸びようとしている。どけようと歩み寄って、ホウと唸って目が丸くなった。毛虫、何匹数えられますか?

 一見して明らかな通り、毛虫たちはフジの細蔓にところせましと密集しているのに、その下のツツジの樹冠にはただの一匹も見あたらない。当然ながら厳密に相手を選ぶのである。僕には正確に同定できないが、ドクガの仲間の可能性が高いとものの本ならぬインターネット情報にあり、これだから素手で庭仕事は絶対できない。軍手のない時代はお百姓も庭師も命がけで、慎重さと知識が安危を分けることしばしばだったろう。もっとも、フジによくつくマイマイガはドクガ科ではあるが、一齢以外は毒をもたないとも同じサイトに載っている。フジの何が彼らを引き寄せるのかしらん。

 マイマイガは時としてすさまじい被害をもたらす森林害虫として、世界的に有名なのだと後で知った。こんなことも少しは知っておかないと、田舎に住んで迷惑をかける。「田園生活リテラシー」とか資格化されないかな。真っ先に飛びつくんだけれど。

  ← 雄 / 雌 → 

(Wikipedia よりコピペ、いずれも欧米産とのこと)

Ω


奉公袋

2017-05-26 21:54:30 | 日記

2017年5月25日(木)

 田舎の家に幾日か滞在する間には、必ず何かしら発見がある。これもGW中のこと、前庭から前の間へ、三和土を経由しないで直接上がるあたりを整理していたら、壁際の棚の中に無造作につっこまれた埃まみれの雑物の中から、こんなものが出てきた。

 

 奉公袋、である。左が表、右が裏、裏面に以下の注記がある。

 【収容品】

 一 軍隊手帳、勲章、記章

 二 適任証書、軍隊に於ける特業教育に関する証書

 三 召集及び点呼の令状

 四 その他貯金通帳など応召準備及び応召の為必要と認むるもの

(広島市八丁堀古澤製)

 奉公袋が何であるか、見当はつくがもちろん正確に知りはしない。少し調べて書かねばと思ったところ、既に手を付けた人があるようなのでそちらに譲る ⇒ https://ima.goo.ne.jp/column/article/3733.html

 僕が見つけたのは明らかに未使用のもので、それが何を意味するかはよく判らない。父方の祖父は応召して南支派遣軍に属し、多年転戦したから当然この種のものを携行しただろう。予備を支給されるということがあるものかどうか。母に依れば、戦後に応召歴を証明するため奉公袋が役立つことがあったという。

 今となっては貴重な史料である。

Ω


沖縄「返還」? / ミステリアス・トライアングル

2017-05-24 19:39:17 | 日記

2017年5月23日(火)

 5月15日に書き切れなかったこと。沖縄の「返還」という言葉に今では文句も出ないようだが、それが進歩とも思えない。「返還」というからには米国政府が日本政府に「返した」ということで、沖縄の土地と人はやったりとったりされる対象に過ぎず、主体的な存在として扱われていない。あくまで「施政権」の「返還」、県民から見れば「祖国復帰」がスジのはずだ。同僚のO先生が、かつて運動のスローガンとして「沖縄を返せ」と巷で叫ばれた時の違和感を語ってらしたが、同じことである。

  もっともここに微妙なアヤがあって、元々の一体性が明白堅固なものであるなら「返せ」でも一向構わないのかもしれない。そもそも沖縄が日本の領土になったのは1872(明治5)年から1879(明治12)年に至る「琉球処分」の結果であり、500年続いた琉球王朝がここで滅亡したのは歴史の中では最近に属する。この時も琉球は一方的な客体として大日本帝国に編入された(「処分」!)。そのように力づくで取り込んだものを戦争でまた別の悪党に奪われたが、後日めでたく返ってきたという言い条からは、「処分」以来の胡散臭さがぷんぷん臭ってくる、それが問題だというのだ。

  もちろんこれは他人事ではない。日本という国の有り様、この国とそこに住む人々との関係についての鮮やかな例証であって・・・というようなことを、数年前にかなり詳しくブログに書いた・・・ように思う。ブログの良いところは、書き散らしておけば後で検索できることだから、そのうち見直してみることにしよう。実は何も書いてなかったらショックだな。

***

 このGWは松山市北辺の田舎を満喫して過ごしたが、この間ちょっとしたできごとあり。ある朝、表に出ていた父が土間から前の間に上がりながら、「おもしろい人が訪ねてきた」と皆に告げた。遠方からここを目指して来た人があるという。門前で父が誰かと話すような声が聞こえてはいたが、てっきり同じの誰彼かと思っていた。郵便配達や宅急便でもなければ他処の人が訪れることもない、ひたすら静かな田舎である。

  ただ、バイパスのさらに向こうの山裾にある寺は臨済宗でそこそこ知られた名刹、加えて史跡らしきものが一つだけある。「河野塚」というもので、わが家の門前がちょうど登り道に当たっており、数年前に松山市が数ヶ所の曲がり角にわざわざ石の標識を立てた。門前から薪炭林や蜜柑畑の間の急坂をひとしきり登るのである。

  

 僕も連れられて登ったことがあるが、たぶん半世紀も前のことで心許ない。地図上は「河野神社」などとなっているらしいがいいとこ祠ぐらいのもので、洞穴めいたものが山腹に口を開けていたような記憶がある。これがどうも、往時の河野水軍ゆかりの何からしいのである。海に向かって西向きの眺望が開ける高所にあり、昔は海岸線が近かったことを考えれば、物見台でもあったのかもしれない。

  ともかくこの辺りは往古に水軍を擁して栄えた河野氏の紛れもない根拠地で、松山市に合併される前の北条市からさらに遡る戦前には、一帯を温泉郡河野村といった。わが家の前を流れるのが河野川、500m西には両親も通った河野小学校など、河野の名が土地のそこここに記されている。

   歴史の流行らない昨今ゆえ解説が必要だが、河野氏といえば日本中世史上にキラリと輝く存在、いわゆる元寇とりわけ弘安の役に臨み、河野水軍は得意の海上ゲリラ戦で大いに元軍を苦しめた。神風の僥倖で無手勝流の勝利が転がり込んだと思われがちだが、事実は違う。壮絶な玉砕を遂げた対馬の宗氏はじめ西国の武士らは大いに奮戦敢闘した。殊に小回りの利く小船を操って遠来の大鑑を悩ませた河野氏ら水軍の働きは特筆される。彼ら海の雄は、博多湾に築いた防塁の前面の水域で元軍と直接対峙し、その不退転の意気が「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ九州の猛将らにも賞賛されたという。

  中でも一族を率いた河野通有(みちあり、1250?-1311)は剛勇の誉れ高く、暴れ牛を素手で殴り倒したという大山倍達みたいな逸話の持ち主。執権・北条時宗(ときむね)の信頼厚く、時宗が弘安の役3年後に33歳の若さで他界したときは、墓石にすがって男泣きしたとも伝えられる。河野氏から出た逸材としては、踊り念仏で知られる時宗(じしゅう)の開祖・一遍(1239-89)も特異である。通有の祖父と一遍の父が兄弟という関係かな。時宗の信心は絶対他力の究極形とも言えるユニークなものだが、明治の廃仏毀釈で衰退したらしいのが惜しい。総本山・清浄光寺(通称遊行寺)は、正月の箱根駅伝でランナーを苦しめる坂道の背景として毎年紹介される。

  ← 河野通有(蒙古襲来絵詞より) / 一遍上人像(清浄光寺蔵) → 

 (両画像、Wiki より拝借)

 以上、長い前振り。以下、あらためてその朝の出来事。

***

 父が畑回りを終えて朝食に上がろうとしていると、僕ぐらいの年配の男性が門前を通りかかって声をかけた。前述の通り他郷の人がわざわざ訪ねてくる理由のない土地だが、門前の坂を突き当たって左へ上るとの墓地があり、墓参の人々がときどき往来する。突き当たりを右へ上がると河野塚である。

 この男性は河野姓の人であった。現在は島根県松江市にお住まいとのこと、先祖が伊予の河野氏であると聞き、GWを利用してはるばる訪ねていらしたのである。善応寺に寄ってみたがあいにく住職が留守で、せめて河野神社を訪ねてみようと思った、河野塚の標識に間違いないかと確かめられた由。面白いのは松江市在住とおっしゃることで、同地は1965(昭和40)年から1968(昭和43)年まで父が(ということは母と僕も)住んだ場所であった。さらに仕事先が農協を介して互いに関連ある組織と分かり(父はN中金、河野氏はKS連)、幾重にも世間の狭さを思わされる。高縄山頂に車で行けるか訊かれたので、目の前のバイパスをひたすら上がるよう教えたと父が言う。そんな人なら名刺なりとも交換したいと考え、すぐ表に出てみたが既に姿がなかった。

 GWが明けて東京に帰った後も、どうも気になる。島根KS連の電話番号をインターネットで調べかけてみた。電話に出た男性が親切で、河野姓の人が出向中である旨教えてくれたので、事情を話してこちらの連絡先を託したところ、ものの10分で折り返しかかってきた。間違いなく先日の来訪者とのこと。声が弾む。

 聞けば僕とわずかに一歳違い、お生まれは島根県内でも松江ではなくずっと西のH市である。生家の近くにある某寺に「弘安の役に戦功あって河野通有がこの地に所領を与えられた」との縁起が記されており、御一家がその子孫であることを80歳代に入った御尊父が語られるので、「いずれ連れていってやりたいと思い、今回はその下見に日帰りしました」とおっしゃる。GWの混雑を承知で松江から松山への自動車往還、朝食の時間にこちらに着いていたということは前夜の内に発って来られたものか。孝心の篤さに頭が下がる。
 何かと情報交換するのも楽しいかと考え、教わった御住所宛に手紙を出したら、数日後には返事をいただいた。いずれお目にかかる機会が楽しみである。

   「竜ヶ城の由来」 T 河野氏撮影

***

 さて、本項のタイトルに「ミステリアス・トライアングル」と謳った意味が通じるだろうか?西日本の地図を広げ、松江・松山・博多を結ぶ三角形を描いてみる。松山(A)を鈍角の頂とする二等辺三角形で、松山・松江間(AB)と松山・博多間(AC)はそれぞれ200km、松江・博多間(BC)は300km余りの直線距離である。ここに不思議な因縁があるのだ。13世紀末、A地出身の河野氏がC地で祖国防衛のために奮戦し、B地近傍に領地を与えられて一部がそこに移り住んだ。20世紀に至って、先祖代々A地に住み着いてきた石丸の夫婦がC地に滞在し、そこで息子(=僕)をもうけた。親子はその後B地にも住み、今はA地に戻っている。そこへ13世紀末以降B地にあった河野氏の当代が、父祖の地を求めてやってきた。双方の親子はそれぞれほぼ同世代に属する・・・

 何を面白がっているかって?そうだね、大したことではないかもしれない。しかし河野氏の松山訪問から2週間後に、かねて予定の講演のため、60年前に自分の生まれた博多の地を踏んだ僕としては、けっこう不思議な感じがしたのだ。古の河野氏が松山・博多・松江(島根)の間に結んだ三角形の縁に沿って、末裔らが往来邂逅している。誰のどういういたずら心が仕組んだものか。

 どうも不思議である。

Ω

 


別解あり

2017-05-16 19:18:14 | 日記

2017年5月16日(火)

> 私はへびが中に入ったところで、立ててしまえば(手前側はふさいでおいて)、中でUターンはできずにお縄かと思いました。

 これ、有力な別法ですよね。御指摘のようにヘビの体積と竹筒の容積にミスマッチがあり、箪笥の後ろ側で「立てる」のは難しいでしょうが、別の場面で違う道具を使えば行けそうです。実際「ハブの捕獲法」の検索結果中に「ハブ捕獲器」というのがいくつもあり、おおむね箱型のもので入るに易く、入ったら出られないしかけになっているらしい。ヘビは何しろヘビですから、狭苦しいところでもUターンはへいちゃらだと思いますよ。

  http://snakehabu.web.fc2.com/maketrap.htm

 沖縄県公衆衛生協会のサイトに詳しい紹介がありました。最新のページ(http://koeikyo.ti-da.net/c179361.html)が詳しく解説しているのは、このように捕まえた箱からハブを安全に取り出す方法についてです。ゲタを履くまで油断はできません。 

 私が初めて沖縄を訪れたのは1977年の夏のことで、復帰後5年を経てまだ自動車が右側を走っていました。旅行前に沖縄県の観光事務所(?)に電話をかけ、ハブ咬傷には予防対策が必要か、予防接種があるなら事前に受けていくべきか尋ねました。物見遊山のよそ者が、事情も分からず迷惑をかけてはいけないという殊勝な気もちからでしたが、電話の向こうの担当者は苦笑していたかもしれません。むやみに草むらに分け入ったりしなければ、通常の旅行者がそうそうハブに出会ったり咬まれたりするものではない、どうぞ御安心をという内容だったと記憶します。もう40年前なんですね。

 この時は、本島から石垣島、さらに西表島まで足を伸ばしました。「ハブの住む島が一つおきに並んでいる」(たとえば竹富島にいなくて西表島にいる)といった話や、「台風に強い島にはハブが出る」との説など、いろいろ聞きました。後者にはちゃんと理由があり、風害に強い二重の石垣はハブにとって絶好の住処なんだそうです。ハブ対策に天敵とされるマングースを輸入して放したところ、マングースは難敵のハブには見向きもせず他の小動物を狩るので、かえって困ったとの逸話も聞きました。外来種を導入することの危険が一般に知られるようになるのは、もう少し後だったかと思います。

 5月15日は五・一五事件(1932/昭和7年)の日であるとともに、沖縄の「祖国復帰(施政権返還)」(1972/昭和47年)の日でもあるのでした。

Ω