散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

有益な注釈と無用の注釈

2018-11-30 12:15:27 | 日記

2018年11月30日(金)

 どっちからいく?

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 「どちらの絵もトレチャコフ美術館で何度も見ました。商人トレチャコフはクラムスコイを含む「移動派」(当時の美術アカデミーに反旗を翻した画家達)のパトロンだったので、トレチャコフ美術館のコレクションの中心なんです。」

 「『見知らぬ人』の顔は最初は典型的なロシア美人と思っていたのですが、ロシアに住むと、ロシア美人と言ってもスラブ系、北欧系、コーカサス系、モンゴル系と様々なことに気づきます。気づいた後でこの絵を見直すと、これは髪の黒さ、眉の濃さなどからコーカサス系の美人、殊にアルメニア系ではないかと思うのです。もちろん贔屓目です。」

 この羨ましいコメントの発信者E君は、仕事の関係で豊富なロシア滞在経験をもち、その後アルメニアにもしばらく住んだ。「美人大国」アルメニアがすっかりお気に召したようだが、ネットの写真など眺めていると「見知らぬ女=アルメニア人」説もあながち彼の贔屓目ばかりではないように思われる。

⇒ https://world-note.com/armenian-people-characteristics/

 E君は大学の同級生で、後年ロシア通になったぐらいだから当然『忘れえぬ女』の来日を覚えているかと思ったら、これが意外で・・・

 「そうだった?覚えてません。見たかな?」

 「勉強ばっかしてて、気がつかなかったんだろ。この絵で文学部の学生と議論になったもん、来たのはマチガイないよ」

 E君には周りの見えないところが確かにあるが、勉強ばっかりしてるようなツマラナイ御仁ではおよそなかった。人の記憶はさまざまなのだ。

***

 荒野の試練というのは、マタイなら4章1節から11節に記される悪魔の誘惑のことで、共観福音書には「パンの誘惑」以下、有名な三つのテーマが悪魔とのディアローグとして描かれている。

 クラムスコイの絵でイエスが背を丸めて座り、己が内面に沈潜自問する姿であるのはいかにも近代的な表現である。腰から下をとりまく灰色の地面と上半身を覆う青みがかった空の広がりがスクリーンとなって、そこにイエスの、そして絵を見る者の内なる悪魔が投影されるだろう。長くこの絵の前に立ち続けることは、到底できそうもない。

 けれども試練は荒野にだけあるのではなく、日常生活に潜む悪魔の働きこそ恐ろしいのだ。「見知らぬ女」の沁み通るまなざしが、忘れようにも忘れ難い胸底の火種を掻き立てる。荒野に試練 πειρασμος、日常に誘惑 σκανδαλον、躓かないものは幸いである。

 

Ω


長崎についてのコメント

2018-11-30 09:16:25 | 日記

2018年11月29日(木)

・コメントが届いた記事:学恩の方角

・コメントを書いた人:被爆2世

・タイトル:長崎大学医学部、そして医師教育への疑問

・コメント:(字句を少しだけ変えさせていただきました:石丸)

 長崎大学医学部といえば、私の実家は医学部生の下宿でした。

 長崎大学医学部にまつわる映画として、さだまさし原作「風に立つライオン」と山田洋次監督作「母と暮せば」を思い出します。

 どちらの映画も印象的で、「母と暮らせば」は、1945年の原爆投下時の長崎大学医学部生(映画封切り当時、現学長)が主役の映画で山田洋次監督が学長の青春について取材し、喜びも悲しみもリアルに描かれていて、医師を目指す人だけでなく老若男女に見てもらいたいものです。

 終戦から3年後の長崎に暮らす母・伸子(吉永小百合)の前に、原爆で亡くしたはずの息子・浩二(二宮和也)の亡霊が現れたことから始まる、2人の奇妙で特別な時間を描かれています。

 吉永小百合さんは「おじが長崎大学の医学部を1938年に卒業して、長崎でドクターをしていた」そうです。吉永小百合さんの原爆体験の朗読ボランティアの活動もこうしたところから来ているのかもしれません。

 ポンぺ先生の遺訓を守る患者さん思いの先生がおられる一方で、正直なところ、自己愛的な医者も結構な割合おられるのではないかと思っています。

 医師の人格の問題は、医学部の教育以前の問題の様にも感じます。

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 コメントをありがとうございました。映画はどちらも見ておらず、今後の楽しみです。

 私が入局した時、東京医科歯科大学の精神科を主宰していらしたのは故・高橋良(たかはし・りょう)先生で、長崎大学の教授から医科歯科に移っていらしたのでした。お人柄の高邁と学識の広さ深さで皆から慕われていましたが、残念なことに在任中に病没なさいました。直接御指導いただく機会がほとんどありませんでしたが、カルテの誤字を笑顔で指摘してくださったことは懐かしく思い出します。(どんな誤字であったかも、よく覚えています。)確かクリスチャンでいらしたはず、長崎の印象などぜひ伺ってみたかったことでした。

 長崎に特別の関りと思いをもった人として、作家の吉村昭を挙げることができそうです。被爆二世さんは何か愛読書がおありですか?

 医師と医師教育に対する疑問については、また具体的に聞かせてください。私自身も思うところが多々ありますので。

Ω


忘れえぬ、見知らぬ女

2018-11-29 11:18:11 | 日記

2018年11月24日(土)に戻って・・・

 知人の見舞いに出かけようとして、なまなかではない相手の病状のことなど考えながら身支度していたら、ん・・・?

 靴下を履いた足に、手袋をかぶせようとしていた。家人が目を丸くして見つめている。

 ドイツ語では、手袋を "Handschuh" という。英語なら hand shoe 、つまり「手靴」である。学生がそのように訳してドイツ語の先生が天を仰いだという話を書いていたのは、なだいなださん・・・だったかな。ドイツ人用のでっかい「手靴」なら、僕の足ぐらい入るかもしれないが。

***

 最寄り駅で電車を待つ間、反対側のホームに懐かしい絵のポスターが見えた。

 クラムスコイ『忘れえぬ女(ひと)』、その名の通り一度見たら忘れられない「北のモナ・リザ」である。1977年頃、モスクワ・エルミタージュ美術館の所蔵品展で来日して、一躍人気を博した云々・・・得々と昔話を吹聴して聞かせたが、ウソばっかり。

 エルミタージュ美術館の所在はモスクワではなくサンクトペテルブルク(当時のレニングラード)、いっぽうこの絵の所蔵はモスクワのトレチャコフ美術館だ。かてて加えて本当のタイトルは Неизвестная(неизвестную)、これは英語の unknown つまり『見知らぬ女』の意味だそうである。ああ、ボロボロ・・・

 しかし、タイトルの件は僕の責任ではない。1977年(たぶん)の初来日当時、誰かが仕掛けたのだ。外国映画にテキトーな邦題をつける要領でインパクトのあるタイトルをひねり出したんだね。不誠実とはいえ良くできたネーミングで、こちらはそれをずっと覚えていた次第。

 

 それにしても実に不思議な表情、高貴と淫靡がこもごも匂いたつ、謎めいて多義的な居ずまいである。クラムスコイ(Иван Николаевич Крамской, 1837-87)が1883年に発表して以来、この作品は常にある種のスキャンダルとして物議を醸したとある。スキャンダルという語はもともとギリシア語の σκανδαλον に由来し、これは「わな、躓き」、転じて「人を罪へと誘う、人や物」を意味する。なるほど画家は一個のスキャンダルをここに現出させた。これを讃仰しあるいは論難するその分だけ、当人の罪が「語って落ちる」仕掛けである。

 このカラクリを含め、女性の正体についておそらく最も気の利いた答えは「アンナ・カレニーナ」(トルストイ、1873-5)ではないだろうか。

 クラムスコイのもう一つの代表作を Wiki から拝借する。

 これが描かれた直後に『アンナ・カレーニナ』が発表され、やがて『見知らぬ女』が誕生した。画家が小説を読んだかどうかはどうでも良いことである。

曠野のイイスス・ハリストス(1872、トレチャコフ美術館蔵)

Ω


学恩の方角

2018-11-28 09:10:06 | 日記

2018年11月28日(水)

 今朝配信の医療・医学クイズから。著作権を気にして表現は自前で。

 「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。」

 来日したある外国人医師が弟子たちに伝えた言葉である。この医師は誰か?

 ① シーボルト

 ② モーニッケ

 ③ ポンぺ

 ④ ボードイン

 ⑤ ベルツ

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Wikipedia 

 正解は、③ ポンぺ。これは知らなかった。ポンぺで検索してもなかなか出てこない。Wikipedia の見出しは「ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト」、正式のお名前は下記のようにさらに長い。

 オランダ海軍医ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)、安政4年(1857)に来日し、同年11月12日に長崎奉行所西役所において、幕府医師松本良順らに西洋医学の講義を開始。長崎大学医学部はこの日を創立の日としている。

 ポンペは解剖学・病理学のみならず、物理学・化学など関連する学問全般を教授した。文久元年(1861)に、本格的な西洋式病院として長崎養生所を設立。牛痘による種痘も実施したほか自身で多くの患者を診察し、門人61人に卒業証書を出した。相手の身分に関わりなく診療したことで知られ、上記の言葉とよく呼応する。

 文久2年(1862)離日。後年、森鴎外が渡欧してポンぺに会った際、日本時代を回想して「夢のようだった」と答えたという。司馬遼太郎『胡蝶の夢』の主人公が松本良順らだが、「夢」つながりのタイトルという訳でもなさそうか。荘子原典のパラドックスを踏まえ、あえて関係づけるのも面白そうだけれど。

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 他の選択肢について。

 シーボルトはオランダ商館医として文政6(1823)年来日。日本と日本研究に入れ込み過ぎ、禁を破って日本国の地図を持ち出そうとして、文政12(1829)年に国外追放となった(シーボルト事件)。⇒『ふぉん・しいほるとの娘』(吉村昭)

 モーニッケ(Otto Gottlieb Johann Mohnike, 1814-87)は、わが国に牛痘や聴診器をもたらしたオランダ商館医。嘉永元(1848)年から同4(1851)年まで出島に滞在。

 ボードイン(Anthonius Franciscus Bauduin, 1820-85)は、ポンペのあとに来日したオランダ商館医、文久2(1862)年から慶応2(1866)年にかけて西洋医学の定着のため尽力。大政奉還後に再来日し、慶応3(1867)年から明治3(1870)年にかけて大阪陸軍病院や大学東校などに勤めた。

 この4人のオランダ商館医を年代順に並べると、設問通りシーボルト、モーニッケ、ポンぺ、ボードインの順になる。その出自が面白く、シーボルト(独)、モーニッケ(独)、ポンぺ(蘭)、ボードイン(仏系蘭)と、必ずしもオランダ人ばかりではない。イネが父の言語と信じてオランダ語を学び続けたのに、長じて再会した父の話すのは品下れる(?)ドイツ語で、驚き落胆する場面が大河ドラマ版の『花神』の中にあった(イネ役は浅丘ルリ子)。

 ボードイン(ボードワン)が上野公園の生みの親として顕彰されていることなどは以前触れた。もう何年も前かと思ったが、昨年の同月である。

 『上野公園の樹木伐りすぎ他』https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/dc029516399c173bde36a4b3575c1f2b

 そこでも書いたように、それまでのオランダ頼みを「御一新」とともにあっさり切り捨て、英仏独などに範を求めていく変わり身の早さが、見事でもあり浮薄とも感じられる。医学に関してその後ドイツ一辺倒になるのは周知の通りで、ベルツ(Erwin von Bälz, 1849-1913, 日本滞在 1876-1905)は象徴的存在だった。ただ、これに先駆けオランダ商館医として「蘭方医学」を伝えた人々がドイツ人やフランス系であったあたりに、ヨーロッパの複雑さと文化伝播のアヤを見るようである。

Ω


アッパレな風景

2018-11-27 16:38:15 | 日記

2018年11月27日(火)

 通りすがりのあっぱれな風景から。

 あっぱれなサボテン

あっぱれな解体
(ショベルカーはこの状態で静止している。日曜日!)

 

あっぱれな葡萄
(写真右端の幹に注目。地上から壁沿いに屋上まで伸び、そこで葡萄棚を作っている。)

 ・・・オマケ

あっぱれな乗客
(行き倒れではない、熟睡していらせられる。)

Ω