散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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鏡に映すようにおぼろに

2014-09-29 09:03:13 | 日記

2014年9月29日(月)

 「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見るであろう。」

(コリントの信徒への手紙一 13:12)

 いわゆる「愛の賛歌」に続く箇所で、文脈が不思議な流れ方をするミステリアスな部分である。それはともかく、最初にここを読んだときは「鏡に映して見るようにおぼろげに」(口語訳)とある意味が分からなかった。「昔の鏡は現在のガラス鏡と異なり、金属表面を磨いた程度のものだから、おぼろにしか映らなかったのだ」と講釈を受けて、そういうことかと、とりあえず呑みこんだ。40年ぐらい前の話。

 

 先週、『愛しの座敷わらし』を見ていて。

 大きな田舎屋の二階の寝室で、少女が寝支度に鏡を覗いている。自分の顔の背後の暗がりに、女の子の顔がすっと浮かぶ。たちまち起きる大騒ぎ・・・

 今時のクリスタル・クリアな鏡でも、おぼろなものはやっぱりおぼろである。そして鏡越しにおぼろに見るほか、見ようのないものがいくらもある。

 妙に納得した瞬間だった。


「こころ」と「たましい」をめぐる自由連想

2014-09-29 07:29:06 | 日記

2014年9月28日(日)

教会では、高齢などのため日頃なかなか出席できないメンバーを覚えて招く礼拝。ほんとうは毎週がそうでありたいのだ。

セントルイス時代に通っていた教会は1943年の創立で、戦時下にアメリカといえども物資が不足高騰し、20kmほども離れた中心部の教会へ車で通うことが困難になったことをきっかけに建てられた。窮すれば変ず、変ずれば通ず。今、何をどう変えたらうまくいくか。

*****

説教を聞きながら、「心」と「魂」のことを考えたりする。

たとえば、「わたしの魂は主をあがめ」と訳されるマリアの賛歌(ルカ1:47上)。

よく歌われるラテン語版(それ自体、ギリシア語からの翻訳)は、

Magnificat anima mea Dominum,

「魂」は anima で、ギリシア語では ψυχη (psyche)、ここからして既に微妙だ。

anima は、さしあたり「可視の実体の背後にある不可視の本質」なのだろう。(⇒ animism)

それと ψυχη が正確に一致するかどうか。こちらは psyche で、psychology や psychiatry の形で現代語の中に生きている。いいのか、とりあえず anima = ψυχη として 。

ただ、マリアの賛歌を素朴に受けとるなら、むしろ「私の全存在は」とでも言い換えたいのである。可視の肉体に対する不可視の精神というよりは、「霊肉あげて私という存在の全てが」ということで、ここに現れる包括性は「魂」という言葉のひとつの特徴である。

これに続く「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1:47下)は、

et exsultavit spiritus meus in Deo salbatore meo,

「霊」と訳されるのは spiritus、ギリシア語では πνευμα (pneuma)、

さあ大変だ、anima(ψυχη) と spiritus(πνευμα) は、どういう関係になるんだろう?

これだけで山ほど議論ができる。さらに・・・

口語訳と新共同訳は 、anima(ψυχη) を「魂」と訳すが、文語訳はこれを「こころ」とした。ひらがなである。

「わがこころ主をあがめ、わが霊はわが救主なる神を喜びまつる」

早くも、ねじれ始めた。

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もう一ヶ所だけ

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

(マタイ 10:28)

ここでは「魂」は「体」の対語で、ラテン語ではそれぞれ anima と corpus、ギリシア語では ψυχη と σωμα だ。

通常、 「体の反対語は何?」と聞かれたら、反射的に「心」と答えるだろうと思う。「身も心も」というのも、これだ。

しかし、マタイのこの箇所を「心を殺すことのできない者を恐れるな」「心も体も地獄で滅ぼすことのできる方を・・・」とは訳せないだろう。

してみるとどうなるのか。

精神というものの存在と消滅、その全体性を言い表すときには「魂」、

身体との対比において、その不可視性や形而上姓に注目するときには「心」、

そんな感じかな。

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また違う角度から。

いわゆる物質の三態(固体、液体、気体)のイメージで考えてみる。それぞれ、どれに似ているか?

「魂」と「霊」は断然、「気体」的だ。その包容性と至高性、決して指にかからない自由な広がり。

「心」はどうだろう、僕には「液体」的に感じられる。おそらく「心臓/血液」の連想があるのだ。温かい血の通う「心」。

そして身体は、もちろん実際には液体を大量に含むのだけれど、この系列では「固体」である。

人間という存在を固体・液体・気体の三重構造と考える。つまり、体/心/霊魂の三層として。

これは面白いかも。

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「心」と「こころ」はどう違うか、どう使い分けるか?(「心」は象形文字だよね。)

「魂」と「たましい」はどう違うか、どう使い分けるか?(「魂」は会意文字。云(たちのぼる蒸気)+鬼(霊))

「こころ」「たましい」といったものは大和言葉でも最古層に由来するもので、由来成り立ちを「実証的に」明らかにするのはほぼ不可能である。ネットの語源由来辞典で「こころ」の項を見ると、「こる(凝る)」との関連や、漢字の「心」同様「心臓」を意味する言葉であったかとの推測が記されているが、役には立たない。

夥しい用例から帰納する他はなく、それについては先人の業績が存在するはずである。

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最後に確認。

「魂」は人間存在の最上層とイメージされる一方、精神の深奥にある淵源として最下層にイメージすることもできる。

「高み」と「深み」、魂の二重性を、何とか生かして使えないかと思ったりする。


心(こころ)と魂(たましい)

2014-09-28 09:44:56 | 日記
2014年9月27日(土)
 埼玉のK教会、特別伝道礼拝の講師にお招きいただいた。
 『心の健康と魂の健康』といういつものテーマで気持ちよく話をさせていただき、切実な現実を抱えた人たちから、ずしんと来る質問をいただいて答えに四苦八苦するのも、いつもと同じ。
 閉会後、大学で日本文学を講じているという女性から、違った角度の質問をもらった。
 「こころ」と「たましい」、「心」と「魂」の使い分けについてである。
 さすがは言葉の専門家、聞き逃さない。彼女自身が日頃考えあぐねているということが、僕自身の据え置き課題とぴったり重なる。

 そろそろ棚から下ろして取り組まなければ。
 ありがとう、恐れ入りました。

白鹿

2014-09-27 07:25:06 | 日記
2014年9月27日(土)
 古事記と日本書紀では、例によって少々叙述が異なっている。
 弟橘媛に対する哀惜が遅れて表現される点は同じで、難敵を一通り平らげて後に初めて、抑えていた悲しみが噴き出してくる。
 違うというのは白鹿のことで、書記では古事記よりもずっと遅れて関東平定の後、信濃路で難渋するところで現れる。その意味も明確で、「山の神、王(みこ)を苦しびしめむとて、白き鹿(かせき)と化(な)りて王の前に立」ったのだ。「吾妻はや」の絶唱は既に経過している。
 それでこそ日本武尊の反応も理解しやすく、
 「王、異(あやし)びたまひて、一つの蒜(ひる)をもて白き鹿に弾(はじきか)けつ。すなわち眼(まなこ)に中りて殺しつ。」
 という次第である。
 これで話は終わらず、白鹿が息絶えるが早いか「王たちまちに道を失ひて、出づるところを知らず。時に白き狗、自づからに来(まうき)て、王を導きまつる状(かたち)あり」云々と続く。

 何しろ古事記の簡潔な叙述を読んで、白鹿を弟橘媛の化身と思ったのは僕の浅知恵だったらしい。純白は神々の標徴で、鹿と狗との対照は、まさしく捨てる神あれば拾う神ありというところ。鹿はたおやかな印象があるが、なかなか逞しく危険でもある大型獣なのだ。浦河あたりでは、ときどきエゾシカが道に出てきて車と衝突する。本州の鹿よりも一回り大きく強いので、しばしば車の方が壊れると聞いたけれど、むろん鹿も無傷ではすまないのだろう。
 日本書紀は続けて、「この後はこの山をこゆる者、蒜を噛みて人および牛馬に塗る。自づからに神の気(いき)に当たらず」と記す。
 折しも御嶽山噴火、死者が出たうえ、なお40名余の登山者が山上に孤立している。神の気を逃れる、蒜の霊力あれかしと願う。
 

言った私がバカでした

2014-09-26 21:21:37 | 日記
2014年9月26日(金)
 診察室の窓に青空が広がる気持ちの良い一日、さほど忙しくもなく淡々たる診療が続いた。
 うつの遷延をきっかけに転職を決意した40代男性のKさん、一日も早く休養に入りたい気持ちを抑え、今日もこの足で残務整理に出かけるという。
 Yシャツの背中に、
 「行ってらっしゃい」
 を声をかけると、嬉しそうに振り向いた。
 「いいですね、それ、元気出して行ってきます。」
 「ははは、来週来たときは、『お帰りなさい』ってとこですか。」
 「いやあ嬉しいな、メードカフェみたい。」
 め、めーどかふぇ・・・

 頬を引きつらせる僕を残して、K氏はさっさと出かけていく。
 行ってるわけ?そういう場所に。道理でこの人のフェミニンな感じ、何だか鳥肌が立ってきたよ。
 言いつけてやろうかな、奥さんに。
 着ている白衣が不意にコスプレの衣装みたいに感じられ、何とも落ち着かないのだった。