2014年9月28日(日)
教会では、高齢などのため日頃なかなか出席できないメンバーを覚えて招く礼拝。ほんとうは毎週がそうでありたいのだ。
セントルイス時代に通っていた教会は1943年の創立で、戦時下にアメリカといえども物資が不足高騰し、20kmほども離れた中心部の教会へ車で通うことが困難になったことをきっかけに建てられた。窮すれば変ず、変ずれば通ず。今、何をどう変えたらうまくいくか。
*****
説教を聞きながら、「心」と「魂」のことを考えたりする。
たとえば、「わたしの魂は主をあがめ」と訳されるマリアの賛歌(ルカ1:47上)。
よく歌われるラテン語版(それ自体、ギリシア語からの翻訳)は、
Magnificat anima mea Dominum,
「魂」は anima で、ギリシア語では ψυχη (psyche)、ここからして既に微妙だ。
anima は、さしあたり「可視の実体の背後にある不可視の本質」なのだろう。(⇒ animism)
それと ψυχη が正確に一致するかどうか。こちらは psyche で、psychology や psychiatry の形で現代語の中に生きている。いいのか、とりあえず anima = ψυχη として 。
ただ、マリアの賛歌を素朴に受けとるなら、むしろ「私の全存在は」とでも言い換えたいのである。可視の肉体に対する不可視の精神というよりは、「霊肉あげて私という存在の全てが」ということで、ここに現れる包括性は「魂」という言葉のひとつの特徴である。
これに続く「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1:47下)は、
et exsultavit spiritus meus in Deo salbatore meo,
「霊」と訳されるのは spiritus、ギリシア語では πνευμα (pneuma)、
さあ大変だ、anima(ψυχη) と spiritus(πνευμα) は、どういう関係になるんだろう?
これだけで山ほど議論ができる。さらに・・・
口語訳と新共同訳は 、anima(ψυχη) を「魂」と訳すが、文語訳はこれを「こころ」とした。ひらがなである。
「わがこころ主をあがめ、わが霊はわが救主なる神を喜びまつる」
早くも、ねじれ始めた。
**
もう一ヶ所だけ
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
(マタイ 10:28)
ここでは「魂」は「体」の対語で、ラテン語ではそれぞれ anima と corpus、ギリシア語では ψυχη と σωμα だ。
通常、 「体の反対語は何?」と聞かれたら、反射的に「心」と答えるだろうと思う。「身も心も」というのも、これだ。
しかし、マタイのこの箇所を「心を殺すことのできない者を恐れるな」「心も体も地獄で滅ぼすことのできる方を・・・」とは訳せないだろう。
してみるとどうなるのか。
精神というものの存在と消滅、その全体性を言い表すときには「魂」、
身体との対比において、その不可視性や形而上姓に注目するときには「心」、
そんな感じかな。
**
また違う角度から。
いわゆる物質の三態(固体、液体、気体)のイメージで考えてみる。それぞれ、どれに似ているか?
「魂」と「霊」は断然、「気体」的だ。その包容性と至高性、決して指にかからない自由な広がり。
「心」はどうだろう、僕には「液体」的に感じられる。おそらく「心臓/血液」の連想があるのだ。温かい血の通う「心」。
そして身体は、もちろん実際には液体を大量に含むのだけれど、この系列では「固体」である。
人間という存在を固体・液体・気体の三重構造と考える。つまり、体/心/霊魂の三層として。
これは面白いかも。
**
「心」と「こころ」はどう違うか、どう使い分けるか?(「心」は象形文字だよね。)
「魂」と「たましい」はどう違うか、どう使い分けるか?(「魂」は会意文字。云(たちのぼる蒸気)+鬼(霊))
「こころ」「たましい」といったものは大和言葉でも最古層に由来するもので、由来成り立ちを「実証的に」明らかにするのはほぼ不可能である。ネットの語源由来辞典で「こころ」の項を見ると、「こる(凝る)」との関連や、漢字の「心」同様「心臓」を意味する言葉であったかとの推測が記されているが、役には立たない。
夥しい用例から帰納する他はなく、それについては先人の業績が存在するはずである。
**
最後に確認。
「魂」は人間存在の最上層とイメージされる一方、精神の深奥にある淵源として最下層にイメージすることもできる。
「高み」と「深み」、魂の二重性を、何とか生かして使えないかと思ったりする。