散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ある日の迷想 ~ 内蔵助と大海人皇子

2023-02-09 10:49:13 | 日記
2023年2月9日(木)

 ママ友つながりのある日の集まりで、
 「大石内蔵助の名は、ナゼこの字で『くらのすけ』なのか、そもそもどういう意味か?」
 と話題になったそうな。歴史や文学の勉強会ではない、純然たる茶飲み話である。女性たちのおしゃべりが今日もこうして文化を支える。

 「それはわかるかな、なんとなく」
 「なんで?」
 内蔵という字からは、役所なり屋敷なりの財産を収めた「くら」の意味が読み取れる。助は「かみ・すけ・じょう・さかん」の「すけ」だから…
 「財務次官?」
 「それとも納戸の見張り番か、そんな感じだろ、たぶん」

 おさらいすると、「かみ・すけ・じょう・さかん」にあてる漢字は…
  • 神祇官: 伯・副・佑・史
  • 省: 鄕・輔・丞・録
  • 職: 大夫・亮・進・属
  • 寮: 頭・助・允・属
  • 国: 守・介・掾・目
 と、こんな具合。
 一番えらいのが「かみ」、それを助ける「すけ」までは和語で見当がつくが、「じょう」と「さかん」は一見して漢語(丞・佐官)である。四等官も和漢混合か。
 四者は偉い順の序列かと思っていたが、「じょう」は監査役、「さかん」は書記官との解説があり、それなら単純な上下関係ではなく職掌の分担である。
 軍隊の階級は将(かみ)・佐(すけ)・尉(じょう)、これははっきり上下関係だが、現実には佐官級がしばしば突出して事を起こした。満州事変当時の石原莞爾は中佐、ヒトラー暗殺を企てたフォン・シュタウフェンベルクは大佐である。

 話を戻して、赤穂浪士討ち入りの頭目となった大石良雄(万治2/1659~元禄16/1703)は播磨赤穂藩の筆頭家老。官名から大石内蔵助と称されるなどとあるが、こうした場合の「官名」は何のどういう権威に根拠づけられるものか、甚だ疑わしい。
 さかのぼって織田「上総介」や羽柴「筑前守」などは、律令制度の凋落に乗じて武家が好き勝手にハッタリをかました典型例で実体は何もない。江戸時代には勝手の名のりがほとんど制度化していたようである。
 そもそも「内蔵助」と書いて「くらのすけ」と読ませるなど、意味をとって読みをあてる奔放さは、ある種のきらきらネームと発想が変わらない。万葉この方この国の民は、似たような発想で右往左往してきたのに違いない。
 考えるほどに、「名前」というものの意味がよくわからなくなってくる。

***

 家族限定・門外不出の隠語といったものは、どこの家庭にもあるものだろうか。
 古典落語の中で来客に菜をふるまおうとした御亭主に、奥方が「鞍馬山から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官」と伝えると、御亭主が「じゃあ義経にしとけ」と答えるくだりがある。
 九郎判官は「喰ろうてしまって、ございません」、義経は「それならよしておこう」というココロである。
 なかなかそうはきれいに決まらないと思っていたところ、最近それらしい会話が一つできた。
 あきらめていた頃に授かった一人娘を、文字通り目の中に入れても痛くない体で可愛がる御仁が遠縁にある。可愛い娘ならなおのこと、ほどほどにしつけなければと周りが気をもむのだが、誰が見てもあたりまえのことを実行できないのが親バカの本領である。
 噂に聞いていたその溺愛ぶりを実見する機会が正月にあった。「どうだった?」と帰宅後に家人に聞かれて咄嗟に口から出たのが、
 「うむ、ありゃあ立派な天武天皇だな」
 「だれ?」
 「おおあまのおやじ」
 …通じたのかどうだか、よくわからない。

Ω

印泥の色が伝えること

2023-02-08 19:06:36 | 日記
『ザクロとザグロス』(↑)に続けて…

2023年1月10日(火)
 ザクロの名がザグロス山脈に由来するとの説は、確かにこの植物のエキゾチックな魅力を増すのだけれど、実はこの名が少々苦手である。
 「ザ・ク・ロ」という音は日本語として決して穏やかなものではない。「ザ」はどぎつく、「ク」はくるしく、「ロ」はなまなましく、三つ並べば「ざっくり割れたドクロ」といったおどろおどろしい連想さえ浮かんでくる。
 実際、柘榴の実の一粒一粒は赤い宝石のように美しいけれども、果実の断面は鮮血のにじむ創傷面のように見えなくもない。それだから十字架の受難の象徴にも選ばれたのだろうが、「ザクロ」という音はオノマトペの臨場感をもって、酸鼻の印象を突出させてしまう。別の名で呼んでもよいのなら、実を手にとるのがこれほど悩ましくはないだろうに。

***

 書き始めたついでに書ききってしまおう。
 昨年の誕生日にS姉の配慮で、蔵書印など印章のセットを贈られた。篆刻家として活躍中のYM姉が手ずから彫ってくださったもので、わが身には不相応な逸品である。御尊父は書の達人で、礼拝の説教題を掲出してくださったものだった。まことに血は争えない。
 
    

 これがその印影である。篆刻の素晴らしさは十分伝わるかと思われるが、写真撮影の難しいところで実は少し不満がある。色合いが違うのである。上掲の画像ではザクロの実に近い鮮紅色に見えるが、実際はもっと黒っぽいのだ。くすんで底深い迫力を感じさせる色である。
 印鑑とあわせていただいた印泥が下記のもので、繰返すが実際はもう少し黒っぽい。そしてこの黒っぽいところに大事な意味があると思うのである。


 なぜかというに…
 何度か押印して紙上の色あいを見さだめ確信した。この色は、血の色を模したものに違いない。
 血液は鮮紅色との思い込みは広く浸透しており、TVドラマで人が刺される場面などでは、橙に近いほどの明るい朱色がぶちまけられたりする。確かに動脈血は鮮紅色だが、人体内でも静脈血は暗赤色である。そして体外に流れ出した血液は、固まるにつれ茶色に近い暗褐色に変わっていく。とりわけ紙の上に定着した血液の色合いを、印泥は模したのであろう。
 その昔、血判というものが存在した。本朝では武家の興隆と共によく行われ、大坂冬の陣の和睦にあたって家康の押した血判を、豊臣方の木村重成が「薄い」と抗議して押し直させたのは、作り話にしてもよくできている。
 中国ではどんな歴史があるか寡聞にして知らないが、誓いなり盟約なりを命にかけて守る証しとして、血で印を施すのは原初の自然な発想であろう。こうした行為における血液の代用物として印泥が誕生したと考えるのは、これまたいかにも自然である。
 印泥が朱という色のめでたさと華やかさに傾ききることなく、鮮紅色よりも暗褐色に近い不吉な色あいを含んでいるのは、血の誓約という本来の意味への忠義立てによるものだ。偽誓は血で購うという暗黙の了解が、押印という行為に深い意味を与えてきたのである。
 その意味が、いま見失われつつある。

***

 押印は近現代のわが国において、社会人としての誠意と責任を象徴する役割を担ってきた。成人し、あるいは社会に出る祝いとして印章を贈られた者は、我々の世代にはまだ多かったはずである。(わが家の息子たちは、怠慢な親の代わりにS姉によってこの配慮を与えられた。)
 書類を確認して印を押す、その瞬間には背筋の伸びる独特の感覚がある。発出しようとする情報に責任がもてるかどうか、自身に問いかける厳粛な瞬間である。その心理の奥底には太古に遡る血の盟約があり、祖霊に対する面目もまたひそかに意識されたに違いない。朱肉の色はその見える証しであった。
 ペーパーレスにハンコレス、事務作業の合理化は歴史的必然であり、押印そのものの実態的意義は既にほとんど失われた。必然の流れに棹さす気は毛頭ないが、かつてハンコが担保していた責任の感覚もまた、ハンコと共に消え去りつつあることが憂慮される。
 虚偽の記載、改竄、隠蔽、保存すべきものの廃棄など、およそ文書というものに対する敬意を欠いた行為が横行して止まないのは、ハンコレスの原因なのか結果なのか。
 公文書から押印が消え去るとしても、私的な世界では変わらず楽しみたいものと、力をこめて印泥をこねている。

Ω
 
 

平仄の由来

2023-02-07 08:37:45 | 日記
2023年2月6日(月)
 土日に医師国家試験が行われ、息子が久しぶりに帰宅している。
 夕食後の団欒の中でちょっとしたできごとがあり、そこから中国系の人々に関するステレオタイプが話題になった。自分にも家族にもそれぞれの定型的なイメージがあり、一方では当然ながらステレオタイプから外れる個人に出会うことがあって、その兼ね合いが面白くもあり教訓的でもあるという話。まことに古くて新しいテーマである。
 自分自身のステレオタイプの源は、医学部で知り合ったタイやマレーシアからの留学生たちで、彼らの大半が実際にはこれらの国々に在住する中国系住民だった。福建など中国南部から移住したいわゆる華僑の子女が多く、そもそも御先祖は故地で何かしら不遇であったため、困難を承知で移住したのである。その第一世代は身を低くして商売に励み、こつこつと財を蓄える。蓄えた財で子どもたちは教育を身につけ、実業や学問の領域で世に認められていく。そのような第二・第三世代が留学生として日本に来ていた。
 当然ながら彼らの勉学意欲も能力も総じて高く、多言語をあたりまえに使いこなす力は驚くべきものがあり、それにもまして逆風にへこたれない忍耐力と、周囲の政治・社会状況への関心の強さが記憶に残った。おとなびていて逞しく、長期展望を備えた侮るべからざる人々という印象がステレオタイプの核となった。
 ただしこれは1980年代におけるタイやマレーシアの中国系移民から受けた印象であり、2020年代の中国本土からの来朝者にそのままあてはまるはずのものではない。分っていてもついつい色眼鏡をかけそうになり、それでは百害あるばかりだから、知ったかぶりのステレオタイプなどはいっそ捨ててかかった方が良いのである。
 その中間の時期に息子たちが学んだ中高の教室には、少なからぬ中国名のクラスメートがあった。彼らの多くは日本語を第一言語としていたが、ここでも総じて本人の能力と家庭の教育意識の高さが際立っていた。しかしこれとても中国系の人々の中に多様な家庭と個人がある中で、特定の傾向をもった人々と出会うべくして出会ったにすぎない。
 「海外に住む中国系の人々」と「中国に住む中国人」を一まとめにできないのも、当然ながら大事な要点である。

 以上つまらない前置き、以下トリビアルな本題。
 息子の元クラスメートの一人が「ルアン」君と言い、「阮」と書くのだという。
 『水滸伝』の登場人物に「阮小二」「阮小七」という兄弟があった。それにそうそう、嫌いな客が来ると白眼を向いたという竹林七賢の阮籍先生(210-263)がいたのだっけ。
 「「阮」で「ルアン」と読むんだね」
 「どういう意味の字だろう?」
 関心がそちらへ流れ、漢和辞典を書棚から引っ張り出した。濃紺の表紙を半世紀愛用しており、それというのが山形市立第六中学校に入学した時、若い女性の国語の先生が「国語辞典は岩波、漢和辞典は小学館」ときっぱり断言したので、さっそくねだって買ってもらったのである。奥付に「昭和四十四年二月十日 改訂新版十五版発行」とあるから記憶に間違いない。
 で「阮」を引いてみると、特に字義の解説もこれを用いた熟語もなく、「国の名」「人の名」とだけあって阮籍を含む四人の名が記されている。
 呉音は「ガン(グワン)」、漢音は「ゲン」、現代中国語では ruan、なるほど。
 「この記号は何?」
 と息子が指さしたのは、ruan の横に「上」の字をマルで囲んだ略号である。問いに促され、辞書購入から54年にして初めて凡例を確認し、目を見張った。
 「上」は「上声(じょうしょう)」、いわゆる四声の第二声である。
 今日ではもっぱら一声から四声と呼ぶが、これが確定するにも長い歴史があったようだ。経緯を考えると対応も単純ではなかろうが、標準的には第一声(平声・ひょうしょう)、第二声(上声・じょうしょう)、第三声(去声・きょしょう)、第四声(入声・にっしょう)とされ、漢和辞典はこの「平・上・去・入」で発声を示しているのである。
 平声を除く他の三者をまとめて仄(そく)声と呼び、平声と仄声で平仄(ひょうそく)である。漢詩では脚韻を合わせねばならないから、平仄は是非とも必要な情報。「平仄を整える」といった表現がここから生まれ、転じて「つじつまを合わせる」意で用いられるようになったと、恥ずかしながら初めて由来を知りました。
 
 「「ルアン君」ってシッポを下げてたけど、上げなきゃいけなかったのか…」
 と息子の慨嘆。
 こちらは手許の辞書をあらためてしげしげと眺める。掌に載るこの一冊の中に、どれほどの情報が充ち満ちていることか。
 国語辞典、古語辞典、漢和辞典、三冊あればおよそ退屈することはあり得ない。おっともう一つ、語源辞典も加えておこう。
 とりわけ「ひらがな言葉」の来歴を知るのに、古語辞典だけではどうも足りないようなのである。
Ω