散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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利根川の水

2018-05-31 07:44:26 | 日記

2018年5月21日(月)

 前橋再訪にあたって一、二訪ねてみたい人があり、そのつもりで旅程を組んでもいたが、やめにした。訪ねるにも、当ても伝手(つて)もないことである。

 その代わり新前橋まで2.5kmほど、住宅街を眺め利根川にかかる橋を歩いて渡ることにした。昔、リューベックの街を城壁沿いに周回したっけ。

 知る人のない街は、思い出の数だけかえってよそよそしいが、人々が気さくでよく挨拶してくれることに心和む。広々した庭が多く、今日も多くのバラを見た。レンガ造りの威容は前橋刑務所、その周囲もバラが取り囲む。すぐ南はのどかな住宅街で、そこにもまたバラと笑顔。

 刑務所前を過ぎれば、もう利根川である。写真に写っている河原に降り、ペットボトルに水を満たして東京にもちかえった。水槽に入れてものの三日も経ってみると、針先ほどのミジンコがたくさん、勢いよくついつい動いている。昨年ボウフラ対策で入れたグッピーがすべて食い尽くした小水槽、利根川の命の福分けにあずかり、めでたく再生である。

Ω

 


上州路狐五月の夕間暮れ

2018-05-30 10:01:01 | 日記

2018年5月20日(日)

 その昔通っていた前橋市立桃井(もものい)小学校、調べてみれば学習センターへの往復路から西へ1kmあまりの近さにある。面接授業二日目を無事に終え、体は疲れているが気分的に解放されたところで、夕暮れまでの時間に寄り道してみた。

 あっさり見つかったその校舎は、当然ながら昔のそれではない、面目を一新し市の施設なども乗り入れている。運動場に松の巨木が一本立つのは記憶通りで、ただ運動場の中央かと思っていたのが、実際にはだいぶ西寄りであった。

      

 敷地の東側、嘗ては朔太郎の生家の一部が置かれていた横を、今も変わらず小川が流れている。それに沿って南側の国道に出て、1ブロック東の信号の東南隅、わずかに南に下って路地を入ると突き当たりの南側に・・・

 あった。あっけなく見つかった。昔、南曲輪町と呼ばれた一角の、この場所に間違いない。しかも同じこの家屋である。すっかり老朽化し、数年を経ずして取り壊されるに違いない。あの頃はここに塀があり、このあたりに子犬をつなぎ、この玄関に友達がやってきたのだ。

 北側、国道との間を占めていたHさんの広いお屋敷は綺麗になくなり、東側の半分は駐車場、西側の角地のしゃれた二階建ては、確かにHの表札がかかっている。Hさん御一家には随分可愛がっていただいたが、もちろん代替わりしているだろう。戸締りされて人気がなく、日曜のお出かけからまだ戻らないらしい。

 路地を出て前の道を南へくだれば、すぐ両毛線の高架である。このあたりが記憶の面白さで、6~7歳の頭では前代田(まえしろた)町の以前の住処まで一旅程あったのだ。雷雨の日に気遣ってくださった隣人のいた、空き地だらけの一帯がどこにあるのか、ここから先はもう分からない。

 高架の手前で東に折れ、宿に戻ることにした。そろそろ夕闇の忍び寄る気配である。駅前に続く通りに、ここにも小学校があるが少々古いようである。その名前を見て驚いた。「前橋市立桃井小学校」、え? だって・・・

 周回して同じ場所に戻ったわけはゼッタイない。事実、眺めがまるきり違うのに、あれも桃井、これも桃井、何でそうなるの? 狐に化かされたとはこのことである。運動場で訓練を終わろうとする消防の一団を見ながら、しばし呆然と立ち尽くしていた。

Ω

 


五月の出張は懐かしの上州路

2018-05-29 16:36:59 | 日記

2018年5月19日(土)

 高知の空は、すぐ近くの南の海とのおおらかな連続性を体感させた。前橋の空は四方の山並みを支柱にして、大天幕のように広がっている。土曜日は青い天幕に一つの雲もなく、むやみに強い風が地上を奔放に吹きなぐった。上州名物の空っ風とは違って、前日関西を吹き荒れた風が東漸したものらしい。学習センターまで徒歩25分とあり、一瞬タクシーも考えたが、歩き出してみれば進めぬほどではない。ただ、なけなしの髪が頭上で乱舞して収拾がつかないと訴えている。

 昔、前橋の駅舎はなかなか風情のあるものだったが、今は個性のない高架に変わっている。駅前がだだっ広くて、清潔だが何もないと教室で嘆いたら、その日のうちに誰かが上の写真をアンケートの束の中に入れてくれていた。高知では見事な土佐ブンタンを匿名で届けてくれた受講者があった。毎度こうして名乗りもせずに支えてくれる学生たちがある。奥ゆかしい誰彼に、せめてお礼を言いたいところ。

 交差点を越えて直進する道が立派なケヤキの並木である。東のケヤキ、西のクスノキ、仙台ばかりではない、まだまだ高く伸びそうな、成長途上の並木である。


 何しろ人が少なく、ほっと嬉しくなる。人が少ないということは人目が乏しいということであり、また車が少ないということでもある。車も通らず人目もないのに、この街の人々は交通信号を実に律儀に遵守する。部活へ出かけるらしい自転車の高校生が、一またぎの小道の赤信号をじっと見つめて待つ姿に、神々しさが漂うようだ。これも教室で話してみたら、「(車が来ようが来まいが信号を守るのは)あたりまえです」と一蹴された。東京からものの100km、清々しくもかけ離れたものである。

 

                 

 道筋に一対のモニュメントあり、向かって左は、現に歩いている道を「シルバートピア道路」と称して解説する。たしかに広くて歩きやすい。キャラクターは「ぐんまちゃん」に「ふーちゃん」、コワイぞ、ふーちゃんは。

 向かって右は敷島公園、確か小学校一年生の遠足で行った。集合がかかったのにボンヤリ池を眺めていて、井田先生に「石丸さん!」と呼ばれたっけ。さん付けで呼んでいらしたな、井田先生は。

 敷島公園はバラの名所らしいが、そもそも前橋市内はとてもバラが多い。公共施設だけでなく、人々が民家にバラを植えているのである。バラといえば福山を思うが、前橋市民のバラを愛すること見事と知った。

            

 おっと、これは残念。大きな交差点に陸橋がかかっていて、左右(東西)方向は写真に見える横断歩道を渡ることができるが、縦(南北)方向の陸橋の下は自転車専用である。北へ進む歩行者は陸橋を上がり降りするしかなく、これでは高齢者や車椅子利用者が困るだろう。もっともこれは前橋だからではない、放送大学から総武線幕張駅へ向かう道にも同じ眺めがあり、むろん多くの歩行者が地上を渡っている。しかし前橋の人々は律儀に指示を守り、大いに困るのではないかしらん。

 一本道と楽観していたらY字の交差点で選択を間違え、赤城山の方向へしばらく進んで気がついた。八百屋のおじさんが、強風で飛ばされかけた発泡スチロールを追いかけて行く。戻ってきたところに声をかけ、放送大学学習センターでは分かりっこない、県立図書館はと聞いたら、広い空の一隅を指差して教えてくれた。とりたてて愛想はないが、簡明かつ実直である。次の角の交通整理の男性に自然で逞しい笑顔あり、以後足かけ三日を通して上州人の素朴といったものを感じ続けた。

 1962年夏から1965年夏までの三年間、ここで受け取ったものはその後にどう浸透定着したのだろう。五輪聖火が国道17号線を駆け抜けていった1964年が、まるで昨日のことのようである。その次に住んだ場所は、良くも悪くもこことは随分違っていた。

Ω

 


地質天文俳句に酒造(承前)

2018-05-28 20:20:34 | 日記

2018年5月28日(月)

 答は、こちら。

http://www.izuzuki.com/Zukan/Fish/utsu/utsubo.html

 美味しかったんですよ、これが!さっぱりホクホクした滋味に高級魚の風格がある。ネット上には「フグより美味い」というコメントがあり、そのあたりの比較は難しいが断然美味しいことは間違いない。他人様から勧められなければこの種の珍味はなかなか手を出すものではなく、Y先生への御礼ごとがまた一つ重なった。

 ウツボは鱓と書く。虫偏なら蟬、木偏なら樿(つげ)、どうもイメージが作り難い。語源については「長い体が矢を入れる容器『靫』(うつぼ)に似ているからという説、あるいは岩穴に潜む習性から空洞を意味する古語『うつほら』が転用され『うつほ』を経て『うつぼ』となったという説」などがあると云い(Wiki)、どちらにしても「うつ(ろ)」の意を背負っている。空虚には主・魔物が住むとしたものか。木の「うろ(空・虚)」も同じで、こちらは梟なんぞが巣を営む。「うろ」は「烏鷺」「迂路」「雨露」などと同音で面白い。

***

 Y先生のお人柄の広がりについて、半分も触れていなかった。タイトルに掲げたもののうち、酒造については僕の手と日本の国法に余るので後日の課題とする。俳句、これはある時あるきっかけで発心なさり、以来一日十句を自らに課したという。3年続ければ1万句だが、これはもう求道(ぐどう)の業である。私は松山出身、などとほざくのではなかった。

 面接授業を終えて去り際に句集をいただいた。『四季吟詠句集31』、平成28年1月号から12月号まで、「俳句四季」の〈四季吟詠欄〉で特選を得た作家による合同句集とある。23名の作家の掉尾を飾るのがY先生、開いた途端に目に飛び込んできた句に度肝を抜かれた。

 「かにかくに怒怒怒怒怒怒と過ぎし去年」

 盛られた感慨への共感もさることながら、こういう言葉の使い方があることに感嘆する。劇画などの感覚に近く、自在そのものである。ちなみに「去年(こぞ)」とは平成27(2015)年、戦後70年の節目に安保法案強行採決、原発再稼働など、当方も残り少ない怒髪が天を衝いた時期であった。

 Y先生の作は57句収められており、そのうちの56句は『俳句四季』『俳句』『俳句界』『俳句α(アルファ)』のいずれかに投句し入選・入賞したものだという(!)ただ、Y先生の最も深い思いは唯一の落選句に寄せられる。

 「年の果て遺品整理に父を知る」

 句の巧拙は僕には分からないが、読み手の腹の底に真っ直ぐ落ち、腹の底で響き続けるもののようだ。木は実によって知られ、父は息子によって知られる。この御尊父にしてこの御子息のあることが、いただいたお便りからまざまざと窺われる。

***

 帰京後、諸々の御礼に郷里の甘夏を送ったところ、さっそく句題に使ってくださった。

 「夏蜜柑(夏柑・甘柑)は、結実するのは秋ですが、収穫は翌年の春になるので、歳時記には春の季語として立項されています。せっかくの句材ですのでいくつか俳句を詠んでみました。駄句ですがご笑読ください。

   甘柑の重きに人の心かな

   夏柑に伊予の大地の息吹かな

   一房にかの日かの時夏蜜柑

   夏柑を割りて夫の座ゆるぎなし

   血管を浮かせ夏柑剥きにけり

       ・・・」

 これらが駄句なら駄句も万々歳である。どこまで行っても脱帽の連続だが、妙に触発され臆面もなくお返ししてみたくなった。遥かに遠く及ばずも、せめて一日一句を目指すかや。

   甘夏や一億年の土に生(お)ゆ

   空洞(うつぼら)の主たりしかや旨し君  (・・・季語がない・・・)

   土佐みずきペグマタイトの微光あり

(松山のわが家の庭のトサミズキ・・・五・七・五!)

Ω

 


地質天文俳句に酒造

2018-05-24 21:54:35 | 日記

2018年4月26日(木)に戻りまして

 学習センターで面接授業を行う楽しみの一つは、センター所長に会って話を聞くことである。センターでは本部の専任が来たというので下にも置かず歓待してくれるが、実は所長先生方こそ多士済々、一騎当千のツワモノと呼びたい豪の者が揃っていて、これでどうしてこっちが「先生」なのだろうと混乱をきたすことが珍しくない。これまでにも、岩手・滋賀・香川・徳島・福岡など各地で多くの先生方に教えを請う光栄に浴してきたが、今回また高知で目を見張るような御仁に出逢ったので、あらましを書き留めておく。いただいたメールから随時引用しつつ。

  Y先生は滋賀の御出身、滋賀については「どこをつついても何かが出る、歴史好きの天国」と滋賀学習センターの先の所長から聞いていた。この人は確か高知の出身で滋賀に居着いたのだから、Y先生とトレードみたいなものである。何しろ滋賀という土地が、Y先生の人生をのっけから決めにかかった。以下、早速メールの引用:

「ペグマタイト(pegmatite)という鉱物があり、福島県の石川、岐阜県の苗木、滋賀県の田上が日本三大ペグマタイト産地として知られています。ペグマタイトは巨晶花崗岩ともいい、数センチから数メートルの石英、長石、雲母などからなります。これらの他に水晶、煙水晶、草入り水晶、黒水晶、黄水晶(シトリン)、電気石、トパーズ、緑柱石(エメラルド)、放射性元素を含む鉱物、希土類元素を含む鉱物などが含まれます。この他にも産出の希な珍しいさまざまな鉱物が見つかります。このようなペグマタイトに含まれる鉱物を『ペグマタイト鉱物』と称します。」

「小学生のころは田上周辺のペグマタイト鉱物の採集によく出かけました。色や形が美しいもの、珍しいものが採れると、友人同士で自慢しあったものです。これが、地質学や鉱物学に興味関心を持つきっかけになりました。その後、父の転勤で5年間、栃木県西那須野町(現在は那須塩原市)で過ごしましたが、この間は那須の岩石や塩原の化石の採集に熱中しました。栃木時代は天体望遠鏡の作成と天体観望にも時間を費やしました。那須の空は美しく天体観望にはうってつけでした。また、冬には明けても暮れても田圃のスケートリンクでスケートに興じました。いずれも今は懐かしい思い出です。のんびりした良き時代でした。」

 ※ ペグマタイト → http://www.msoc.eng.yamaguchi-u.ac.jp/collection/origin_12.php(山口大学工学部学術展示館)

 御父君がケチャップで有名な某社にお勤めだった関係で、トマトの産地をたどる形で転勤がありY少年も転校を経験した。滋賀から移った先が那須である。関西訛りを冷やかされるなどお決まりの苦労はさておき、那須でY少年を魅了したのは降るような星空、地面を見下ろして石を磨いていた少年は、一転して天体観測に夢中になった。

 天体観測などと洒落た言葉を使ってみたが、そこで直ちに障壁となるのは道具の問題。天体望遠鏡は高価なもので、とても子供の手の届くものではない。そこで家にある双眼鏡を持ち出し、お茶を濁したのが僕のレベルである。Y少年は一冊の本を頼りに、天体望遠鏡の自作に取り組んだ。このあたりに凡と非凡の分岐点がある。

 クラスに20人の男子あれば、必ず昆虫少年が一人、天文少年が一人、工作少年が二人は居た、往時のコドモたちの旺盛な好奇心が彷彿されるが、それにしても反射望遠鏡というのが凄い。初めはレンズを磨いて屈折望遠鏡を製作していらしたが、レンズには収差 abberation という現象が付きもので思うに任せない。そこで諦めることなく反射望遠鏡へ踏み込んだのだが、むろん独学で、ここまで付き合う仲間もありはしなかった。ただ、驚くべきことにこうした少年の熱望に応える書籍があったのだ。

「単行本で書名や著者名を記憶しているのは木辺成麿『反射望遠鏡の作り方』(誠文堂新光社)です。他にもいろいろ参考になる本を買い求めました。『天文ガイド』や『天文と気象』などの天文雑誌の記事もおおいに参考になりました。」

 天文ガイドは僕なども何度か買ったが、土星の輪っかの見事な写真に嘆声を漏らして終わる程度のことだった。一方のY少年は、ありあわせの材料を組み合わせ、みごとに一台の反射望遠鏡を完成させたのである。スマートフォンで愛おしそうに見せてくださったその写真、昔ニュートンが水銀中毒の危険を冒して磨き上げた反射鏡に重なって見えた。

***

 天へ向かった少年のまなざしが、いかにして再び地に戻ったかは伺い損ねた。ただ、天文と地質が実は分かちがたく連動しているのは素人にも分かる理屈で、必然的な展開があったこと想像に難くない。地質学者としてのY先生は、学問の命ずるところに従って世界を股にかけるフィールド調査の日々を送った。で・・・

「御出身が松山とおっしゃるのは、詳しくはどのあたりですか?」

「市の北部、平成の合併以前は北条市だった地域です。松山から今治へ向かう途中の」

「北条ならよく知っています。」

 事も無げに言われた。何度も訪れたことがおありだという。なんでまた?

「北条あたりの地質は花崗岩が主体ですね。」

「はい、おかげで砂浜も見事な白、白砂青松は花崗岩のお蔭かと」

「あの一帯の花崗岩は、1億年前のものなんです。」

 絶句した。地質や天文を事とする人々の宇宙人めいたところで、超常的な数字を手の中のビー玉かなにかのように転がして平然としている。とまれ父祖の地が一億年の花崗岩の上に立つと知って、訳もなく誇らしく感じたものだが話の先があった。

「ここ高知の城山ですね、こちらは4億5千万年前のものと考えられています。」

 バンゲアと呼ばれる太古の超大陸が、融合したり再分裂したりする過程のすべてを生き延びた岩塊が、土佐の高知のお城の山を形作っているのである。人に想像力が与えられているのはまことに恩寵というものだ。大学人としての日々の仕事はさしものY先生にも多大の煩悶をもたらさずにはおかないが、いったんフィールド調査に出ると憂さなど全て雲散霧消、Y先生の人生は基本的に「ストレス・フリー」であったという。

 何をやっているのかと、つくづく思う。莫大なエネルギーを消費してわざわざ夜を明るくし、満点の星空という魂の清涼剤を頭上から消し去っておいて、胸元にストレス解消法を探す式の愚かしさである。昼食の帰り道、高知大学キャンパスの一隅に置かれた石の群を見ながら、「その石にも、この石にも、等しく地球の歴史が記されています」とおっしゃった。せめてこれからは石を見る目を少しでも養おう。

***

 天に星、地に石、そして海には何でしょう?夜の部でY先生が御馳走してくださった、この唐揚げの正体は・・・

Ω