散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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「記憶にございません」元祖はこの人

2021-02-22 21:53:49 | 日記
2021年2月22日(月)

 「またなんとか理屈をつけたのかね」と鈴木君があいの手を入れる。
 「うん、実にずうずうしい男だ。吾輩はほかに能はないが意志だけは決して君がたに負けはせんと強情をはるのさ」
 「一枚も書かんのにか」と今度は迷亭君自身が質問をする。
 「無論さ、その時君はこう言ったぜ。吾輩は意志の一点においてはあえて何人(なんびと)にも一歩も譲らん。しかし残念なことには記憶が人一倍無い。美学原論を著わそうとする意志は十分あったのだが、その意志を君に発表した翌日から忘れてしまった。それだから百日紅の散るまでに著書ができなかったのは記憶の罪で、意志の罪ではない。意志の罪でない以上は西洋料理などをおごる理由がないといばっているのさ」
『吾輩は猫である』旺文社文庫版 P.150

 大著のどこかにあったはずとパッと開けば、ずばりその頁、こんなことは生涯に何度もない。
 記憶に罪をなすりつけて意志の罪を逃れる言い抜けは、わが迷亭君をもって嚆矢とする。漱石一流の諧謔の味だが、一世紀も後の国権の最高機関で大真面目に同じ主張が繰り返されようとは、「滅びるね」の文豪も予見しなかったに違いない。
Ω
 

メタファーの功罪

2021-02-19 05:57:00 | 日記
2021年2月19日(金)

 「新型コロナは、現代社会がいかにもろいかを示したと思います。私たちが戦うべきは、ウイルスではなく我々の社会自体の問題ではないでしょうか。コロナ対策に『戦争』のメタファーを安易に使うことは、この真の課題を見えにくくするように思います。」
 (山内一也氏、朝日新聞2021年2月19日「交論」から)


今朝の出題から

2021-02-16 08:13:43 | 日記
2021年2月16日(火)
 広く共有されることが望ましい情報だが、まるまる転載しては著作権の侵害になるだろうから、要旨だけ書き留めておく。

 題意は「ファイザー社製およびモデルナ社製のmRNAワクチンは、発症予防に関する臨床試験でどの程度の有効性を示したか」というものである。30%から95%までの数字と「まだ有効性は示されていない」という選択肢付きである。

 正解の根拠とされたデータのみ記す。
● ファイザー社製mRNAワクチンの臨床試験における発症数:
  ワクチン接種群 9/18,559 vs プラセボ群 169/18,708
N Engl J Med. 383(27):2603-2615,(2020) PMID:33301246
● モデルナ社製mRNAワクチンの臨床試験における発症数:
  ワクチン接種群 11/14,134 vs プラセボ群 185/14,073
N Engl J Med. 2020 Dec 30;NEJMoa2035389. Online ahead of print.PMID:33378609
 
 いずれも両群のサンプル数がよく揃っているから、有効率はそれぞれ 160/169 と174/185 で近似できる。この数字をまずは踏まえ、それからめいめい考えることになる。
 良問に感謝。
 
Ω

黄水仙

2021-02-13 17:49:27 | 日記
2021年2月13日(土)
 以前、別のところでしばらく診ていた若い女性から連絡があり、また通いたいという。半休とってやってきた彼女は、顔を合わせるなり堰が切れたように泣き出した。備え付けのティッシュを箱ごと手渡すと、膝の上に置いて一枚取って涙を拭いては鼻をかみ、また取っては鼻をかむこと限りもなく、しかも紙くずを捨てるたびに持参の小瓶のアルコールで指先を拭いている。何をやってるのかと訊けば、
 「鼻をかんだ指がティッシュボックスを汚しちゃいけないから」
 自分が汚れるのではなく、周りを汚すことを心配しているのである。この二年というもの彼女が何を恐れて生きてきたか、痛いように伝わった。しばらく通うの?そうしたいんですけど。毎週仕事を休めないよね?月一ぐらい。理由を訊かれない?病院行くといったら、何の病気か訊かれました。うるさいって言ってやりなよ。そうもいかないんで、
 「フニンショウ治療、って言っときました」
 「え?だって君まだ・・・」
 「よくあるじゃないですか」
 「よくあるったって、ここ婦人科じゃないからさ」
 「婦人科?フミンショウで?」
 言い間違いか聞き間違いか、泣き顔が笑い崩れた。

***

 これはまた別の人からどこで目にとまったものか、庭の黄色い水仙の写真を御所望あり。昨年の正月に撮ったものを送るとすぐに感謝が返ってきた。

 「佇まいの可愛さに心が躍ったのはもちろんのこと、他にも理由がございます。「黄色の水仙」を手許に、「南瓜」の煮物を作る行為が、本当に好きなのです。そこには「水仙の黄色」と「南瓜の配色」を照応させる行為がございます。
 あれこれと探して見比べてましたけれど、お庭にあるお花のお色が濃くて、好きでしたのでとっても嬉しく・・・」

 黄色といってもレンギョウ、ヤマブキ、フリージアからビヨウヤナギまで、全て微妙に違うのはさすがに心得ている。しかし同じ黄水仙の間であれこれ探して見比べる繊細は、既に神仙の趣に属するもののようだ。


 仕事に飽いて中学校のグラウンドを眺めると鳥が一対、これはムクドリだろうか。写真の腕は少しもあがらず、大わらわでやっとこの一枚撮るのを尻目に、春めいた空へおっとり飛び立っていった。


Ω


死生観の由来

2021-02-09 07:19:44 | 日記
2021年2月9日(火)
 韓流ドラマの中で、養い娘の不運を母親が嘆く場面がある。例によって言葉も感情表出も激しいのだが、それより驚くのはその言い条である。
 ~ 何て倖の薄い子、いったい前世で何をしたの?親を殺したの?国を売ったの?どんな悪事の報いで、今こんな目に遭わなければいけないの?ああ可哀想な子・・・

 この養母は食堂を経営しながら女手一つで娘三人を育て上げた苦労人で、気っぷがよく心温かい反面、敵役の義妹から「無教養」と嘲られるようなつらさがある。裏返せばその言葉は、韓国の庶民の中にある通俗的な信念をよく映すものとして、脚本に織り込まれているのだろう。
 もっとも、いかにも迷信じみて聞こえるものの、この反応自体は決して「無教養」なものではない。前世と今生が因果応報で連結するという考え方は、本朝では『平家物語』や『太平記』を貫く根本思想、その登場人物の口に入れるならぴったりの、素性も由緒も正しい伝統的見識である。
 ただ、この思想は仏教由来のもののはずだ。少し丁寧に言えば、仏教が克服の対象とするインド古来の世界観であり、キリスト教と抱き合わせに旧約思想が伝わったのと同じく、解脱の福音の前提として仏教とともに伝来したものと理解している。仏教もまた中国から半島を経て本朝に伝わったが、当地で仏教が大いに栄え浸透したのと対照的に、半島では儒教の影響が圧倒的に強いと聞く、そのことが驚きの背景なのだった。怪力乱神を語らず、知り得ぬ彼岸に関して沈黙するのが儒教の面目のはずである。
 
 実際、儒教道徳を象徴する長幼のけじめはドラマでも至る所に顔を出し、幅をきかしている。子の親に対する、弟妹の兄姉に対する、義弟妹の義兄姉に対する、後輩の先輩に対する崇敬は、内心はともかく礼節の規範として圧倒的な力をもつようだ。そういえばセントルイス時代、僕という日本人を通じて知り合った二人の韓国人男性が、当初はタメ口をきいていたのに実はソウルの高校で一年違いの先輩後輩とわかった瞬間、双方の挙措動作も語り口も一変して驚かされたことがあった。
 近くて遠いというのはこういうことで、儒教的伝統の浸透度もこれに対する忠誠度も天地雲泥の差と実感したのだが、どんな文化も一つの尺度で一元的に説明できるほど単純でありはしない。
 韓国版肝っ玉母さんの輪廻転生型死生観の由来、一方、中世文学ではあれほど確固として見える本朝のそれが、その後どんな経緯をたどって今はどうなっているのだか等々、まことに興味津々。

Ω