2013年12月28日(土)
昨日とは一転、すばらしい好天。
かねての予定通り、神田のG会館で家族の午餐会と洒落こんだ。実は両親、結婚60周年なのである。結婚記念日などと仰々しく語ることはついぞなく、僕は最近までその年月日を把握していなかった。昭和28年春に父が大学を卒業と同時に就職、その年の暮れのことである。
皆が貧しく万事質素な時代のことで、そのような人々でもあった。父の遠縁にあたるW氏が農林官僚として活躍中で、郷党の信頼を集めてもいる。この人が自宅へ若い二人と親しい友人数名を招き、ささやかな宴を催してくれた。その家の幼い娘さんたちが室内に万国旗を飾り、心温まる一場を演出してくれたのがわが家の出発点。
そんな話を聞きながら、年の瀬で人もまばらなG会館のレストランで2時間ほどもくつろいだ。3世代7人の会食、息子達が年長者の話に根気よく耳を傾けるのが、親としては嬉しいところである。ふと見れば、このレストランのこの一画は、過日岳父の叙勲祝いに関東在住の家族が集った同じテーブルである。御縁があるものだ。
散会後、長男と本屋街へ回って医学書などを見る。正月明けに病理学と薬理学の試験があるので気もそぞろなのだ。僕は文学書のコーナーでアリス・マンローの短編集を一冊買う。カナダのこの女流作家の翻訳が、確か先月は一冊も存在しなかった。店頭にないのではなく、検索しても情報が出てこなかったのだ。ノーベル賞受賞となれば現金なもので、今は何種類も平積みである。訳文は以前から存在していたのか、突貫工事で新たに訳したのか、何でもいいや、ともかく読んでみたかったのだから。もうひとつ、ベイズ統計学のマンガ満載の解説書、条件付き確率のどうにも腑に落ちない部分を、これなら解き明かしてくれるかもしれない。
夜に向かい、いささか思い屈するところがあった。クリスマス前に両親が上京し、いつもは次男が広く使っている離れた借間に長男と三人で泊まるのだが、そこに座り込んだきり起つ気力が出ない。出るのはため息ばかりである。遅れてやってきた長男と次男が察して、黙ってつきあってくれた。こんなことは初めてだ。
幼い頃から長男には人の情動に対する鋭敏な直感力があり、次男には底の抜けたような善良さと温かさがあった。それが今夜はこちらに向いた。
助かった。
2013年12月29日(日)
CS合同礼拝の説教があたっている。ルカ福音書2章、「いと高きところでは」の天使の言葉で知られる美しい部分だが、この部分の焦点は羊飼いにある。必ずしも牧歌的な意味合いではない。羊飼いは当時のカナン住民の生活に絶対必要な羊を管理するものであるのに、手ひどく疎外され冷遇されていた。その羊飼いに救い主の降誕が真っ先に知らされる。ベツレヘムの街に新生児が一人であったとは思われない。羊飼いらが救い主を見わけるための「しるし」は、その子が厩の飼い葉桶の中に寝かされているという卑賤のあり様だった。
「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ/
飢えた者を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返す」
(ルカ1:52-3)
ルカはある種の革命的な歴史観をもち、羊飼いはその視点から選ばれている。そのことはさしあたり置き、人の疎外するものが神の中心的な関心事となることを、言葉を尽して伝えてみる。
礼拝後に皆で手分けして窓拭きなどし、青天の下を散歩かたがた帰宅する。冬至が過ぎ、早くも太陽が生気を取り戻し始めている感じだ。
今夜は次男が「倫理と制度」から始まって熱弁を振るう。倫理的なものと政治的なものとの拮抗関係が日本では曖昧になっており、政治の営みの中で倫理的な目的も達成されることが楽観的に予定されている。日本型ファシズムや戦争責任について考えるならば、どうしてもそのことに行き当たるということらしい。もちろん話は宗教に関わり、彼自身の進路選択に関わる。
次男が風呂に入った後、長男が何やらボソボソと呟いている。
「こんなところで躓いているわけにはいかない」とか、「最近まったくものを考えてなかった」とか、そんなことだ。やがて枕をボンとひとつ叩いた。
よく分かる。医学部というところは、熱心に勉強することによって何も考えずに済ます現象が、他のどこにも増して起きやすい。それに気づけば、弟と話した甲斐があったというものだ。
明日はそう、加藤周一と「なだいなだ」の本を、手許にあるだけ渡してやろう。
なださんは今年他界されたのだったな。医者にも偉い人はいるのだ。
昨日とは一転、すばらしい好天。
かねての予定通り、神田のG会館で家族の午餐会と洒落こんだ。実は両親、結婚60周年なのである。結婚記念日などと仰々しく語ることはついぞなく、僕は最近までその年月日を把握していなかった。昭和28年春に父が大学を卒業と同時に就職、その年の暮れのことである。
皆が貧しく万事質素な時代のことで、そのような人々でもあった。父の遠縁にあたるW氏が農林官僚として活躍中で、郷党の信頼を集めてもいる。この人が自宅へ若い二人と親しい友人数名を招き、ささやかな宴を催してくれた。その家の幼い娘さんたちが室内に万国旗を飾り、心温まる一場を演出してくれたのがわが家の出発点。
そんな話を聞きながら、年の瀬で人もまばらなG会館のレストランで2時間ほどもくつろいだ。3世代7人の会食、息子達が年長者の話に根気よく耳を傾けるのが、親としては嬉しいところである。ふと見れば、このレストランのこの一画は、過日岳父の叙勲祝いに関東在住の家族が集った同じテーブルである。御縁があるものだ。
散会後、長男と本屋街へ回って医学書などを見る。正月明けに病理学と薬理学の試験があるので気もそぞろなのだ。僕は文学書のコーナーでアリス・マンローの短編集を一冊買う。カナダのこの女流作家の翻訳が、確か先月は一冊も存在しなかった。店頭にないのではなく、検索しても情報が出てこなかったのだ。ノーベル賞受賞となれば現金なもので、今は何種類も平積みである。訳文は以前から存在していたのか、突貫工事で新たに訳したのか、何でもいいや、ともかく読んでみたかったのだから。もうひとつ、ベイズ統計学のマンガ満載の解説書、条件付き確率のどうにも腑に落ちない部分を、これなら解き明かしてくれるかもしれない。
夜に向かい、いささか思い屈するところがあった。クリスマス前に両親が上京し、いつもは次男が広く使っている離れた借間に長男と三人で泊まるのだが、そこに座り込んだきり起つ気力が出ない。出るのはため息ばかりである。遅れてやってきた長男と次男が察して、黙ってつきあってくれた。こんなことは初めてだ。
幼い頃から長男には人の情動に対する鋭敏な直感力があり、次男には底の抜けたような善良さと温かさがあった。それが今夜はこちらに向いた。
助かった。
2013年12月29日(日)
CS合同礼拝の説教があたっている。ルカ福音書2章、「いと高きところでは」の天使の言葉で知られる美しい部分だが、この部分の焦点は羊飼いにある。必ずしも牧歌的な意味合いではない。羊飼いは当時のカナン住民の生活に絶対必要な羊を管理するものであるのに、手ひどく疎外され冷遇されていた。その羊飼いに救い主の降誕が真っ先に知らされる。ベツレヘムの街に新生児が一人であったとは思われない。羊飼いらが救い主を見わけるための「しるし」は、その子が厩の飼い葉桶の中に寝かされているという卑賤のあり様だった。
「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ/
飢えた者を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返す」
(ルカ1:52-3)
ルカはある種の革命的な歴史観をもち、羊飼いはその視点から選ばれている。そのことはさしあたり置き、人の疎外するものが神の中心的な関心事となることを、言葉を尽して伝えてみる。
礼拝後に皆で手分けして窓拭きなどし、青天の下を散歩かたがた帰宅する。冬至が過ぎ、早くも太陽が生気を取り戻し始めている感じだ。
今夜は次男が「倫理と制度」から始まって熱弁を振るう。倫理的なものと政治的なものとの拮抗関係が日本では曖昧になっており、政治の営みの中で倫理的な目的も達成されることが楽観的に予定されている。日本型ファシズムや戦争責任について考えるならば、どうしてもそのことに行き当たるということらしい。もちろん話は宗教に関わり、彼自身の進路選択に関わる。
次男が風呂に入った後、長男が何やらボソボソと呟いている。
「こんなところで躓いているわけにはいかない」とか、「最近まったくものを考えてなかった」とか、そんなことだ。やがて枕をボンとひとつ叩いた。
よく分かる。医学部というところは、熱心に勉強することによって何も考えずに済ます現象が、他のどこにも増して起きやすい。それに気づけば、弟と話した甲斐があったというものだ。
明日はそう、加藤周一と「なだいなだ」の本を、手許にあるだけ渡してやろう。
なださんは今年他界されたのだったな。医者にも偉い人はいるのだ。