散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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カンタロウが青いのは

2017-07-31 22:40:48 | 日記

2017年7月31日(月)

 名無しさん、カンタロウミミズ御紹介感謝します。これはなかなか、堂々たるものですね。松山周辺では見た覚えがないけれど、愛媛も南部や山中の環境は高知と変わらないから、きっと県内にはたくさんいるに違いありません。

(http://beniwo-to-rintarow.cocolog-nifty.com/blog/images/20041023_030_8.jpg より拝借)

 名無しさんの寮は山道づたいだったんですね。今、次男がサマーキャンプで丹沢に出かけていますが、彼の地では宿舎の庭にアリジゴクが見られるし、別棟に移動して帰ってくるといつの間にかヤマビルに吸い付かれているという具合ですから、町の子たちも自然とのつながりを何ほどか回復していることでしょう。でもカンタロウはいないかな。

 そういえば昨日は、兵庫県で10歳の男児がヤマカガシに噛まれる事件がありましたね。第一報では街中の公園で噛まれたとのことでしたから、何が間違っちゃったんだろうと驚きましたが、どうやら宝塚市のお寺周辺 ~ 六甲山系東端の山道 ~ にヘビを捕まえに行ったもののようです。自分にもちょうど同じ年頃に覚えのあることで、帰宅後に「毒ヘビはこわいんだぞ!」と父に言われて青くなりました。「頭が丸いヘビは安全、頭が三角なのは毒ヘビ」と、マムシを想定した見分け方を伝授してくれたものでしたが。

 元気でやんちゃな男の子の無事を祈りつつ、カンタロウことシーボルトミミズのWiki 情報をコピペしておきます。ふと思ったんですが、通常のミミズが赤っぽい色をしているのは、酸素運搬に鉄系色素(ヘモグロビン?ミオグロビン?)を使うからだそうですね。カンタロウが鮮やかな青なのは、たぶん銅系色素(ヘモシアニン)を使っているからでしょう。ホルマリン固定すると色が抜けてしまうことも、それを裏書きするように思われます。

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 シーボルトミミズ Pheretima sieboldi (Horst) は、日本産の大型ミミズで、日本最大のミミズの一つと言われる。濃紺色のミミズである。

【概説】
 シーボルトミミズは、西日本の山林に生息するミミズで、体が大きく、青紫色の光沢を持つ。また地表にでてくることがよくあるため、人目を引くものである。名前はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが持ち帰った標本によって記載されたことにちなむ。大きくて目立つため、各地で方言名も存在する。ウナギ釣りの餌に使われることもある。

【特徴】
 日本におけるミミズの最大種の一つであり、体長は時に40cmにも達する。通常は247-280mmで体幅14-15mm、体節の数は135-152に及ぶ。生きている時は濃紺色をしており、ホルマリン固定すると鮮灰色になる。受精嚢は第6節から9節までの節間に3対あるが、その開口は小さい。環帯は第14-16節に当たり、14節の腹面中央に雌性生殖孔があるが、小さい。18節腹面両端がやや膨らんで、そこに雄性生殖孔が開く。

【大きさについて】
 本種は日本最大のミミズの一つとされる。原記載では体長27cm、体の周囲3cmとあり、渡辺(2003)は体長30cm、太さ1.5cm、重量は彼の測定した最大値で45gであったとのこと。ただし本種を上回る大きさのミミズは知られており、奈良県十津川村などで体長45-50cm、体重59gというピンク色のミミズが採集記録され、ナラオオミミズとの呼称もある。ほかにも類似の報告があり、本種より大きいかもしれないものが2種はあるという。ただし正式に記載されてはいない様子である。
 ちなみに長さだけなら本種より大きいものははっきりしており、ハッタジュズイミミズは標本による記載では体長24.6cmと本種より小さいが、この種はぶら下げたり引っ張ったりするととてもよく伸びて60cm以上にもなる。

【分布】
 日本南部の山間部に生息する。日本固有種である。 中部地方以西の太平洋側に分布し、紀伊半島、四国、九州南部では比較的普通に見られるが、屋久島や沖縄には見られない。

【生態】
 産地の森林に生息する。地中に生息するが、地表に出てくることもよくある。地上での動きは意外に素早い。
 生活史については、寿命は卵の時期を含めて3年であるとされる。産卵は夏期に行われ、卵の状態で1年目の冬を越え、翌年初夏に新しい個体が出現し、成長して2年目の冬を越える。そして3年目に成熟個体が産卵すると、そのまま死亡する。
 ここで興味深いのは、同一地域ではこれが全ての個体で同期しており、その地域の個体は全て同じ世代に属する。つまり産卵が行われるのは毎年でなく、しかもその年の冬から翌年の春には、わずかな例外を除いてはこの種の個体が見られない時期がある。
 これはあまり普通のことではなく、たとえばアブラゼミは6年の寿命があるが、実際には毎年出現する。これは寿命に若干の揺れがあることと、毎年別の世代が出現することによるとされる。他方、ジュウシチネンゼミは成虫が17年おきにしか出現しない。シーボルトミミズでは後者のような形になっているわけである。
 また、季節によって大きく移動することも知られている。夏場には尾根筋から斜面にかけて広く散らばって生活するのに対して、それらの個体全てが越冬時には谷底に集まる。つまり、春には谷から斜面に向けて、秋には斜面から谷底に向けて移動が行われる。
 これに関わってか、本種が身体の前半を持ち上げるようにして斜面を次々に滑り降りる様や、林道の側溝に多数がうじゃうじゃと集まっている様子などがしばしば目撃され、地元の話題になることなどがある。
 このような現象の理由や意義は明らかにされていないが、塚本は天敵によるものであろうとする。食虫類は常時多量の餌を求めることから、このような習性はこの種の現存量が一定しないだけでなく、大きな空白期間を作ることになるので、この種を主要な餌として頼れない状況を作ること、また同じく天敵となるイノシシに対してはその居場所が一定しないことになるので餌採集の場所を学習することを困難にしているのではないかとほのめかしている。
 渡辺(2003)は本種が粘液を噴射する能力のあることを記している。それによると著者は京都大学芦生演習林で本種を見つけた際に素手で掴んだところ、ミルクのような白い液が飛び出し、顔や眼鏡にかかったという。恐らくは背孔から発射されたものと思われ、タオルで拭った後には特に変化はなかったという。国外ではミミズにそのような能力がある例が幾つか知られ、例えばオーストラリアの Didynogaster sylvaticus はフンシャミミズの名で呼ばれ、別名を「水鉄砲ミミズ」と言い、時に粘液を60cmも飛ばすという。本種では他に聞く話ではないので、本種にその能力はあるもののいつも使うわけではないのだと思われる。

【名称】
 和名および学名は江戸時代に来日して多くの資料を持ち帰ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにちなむ。彼がこれをライデン博物館に持ち帰り、それを研究したHorstが彼に献名したものである。ただし正確な採集地は記載されていない。これは日本産のミミズに初めて学名が与えられたものである。
 山ミミズなどの異名も知られる。なお、目立つものであるためか各地に方言名が多く残っている。四国ではカンタロウと言われることがあちこちに記されている。和歌山県でもカンタロウと呼ばれる他、カブラタとの呼称も知られる。

(https://ja.wikipedia.org/wiki/シーボルトミミズ)

Ω


水槽にグッピーが戻ってきた訳

2017-07-30 16:20:18 | 日記

2017年7月30日(日)

 部屋の片隅に、長辺30cmほどの小さな水槽が置いてある。20代の頃に熱帯魚やら、日本の湖沼に住む小魚・小エビ類やらに入れ込んだ名残で、ここ数年はこれといって何も入れずに放ってあった。それでも楽しみ方はあるもので、出張の際などに近くに川や沼があったりすれば、そこの水を汲んできて水槽に足してやる。たいがい何も起きないが、どうかするとしばらく経つうちに思いがけず水草や小動物が出てきたりする。胞子や幼生を拾いあてていたわけで、これはなかなか嬉しいものである。

 近年それすらもサボっていたが、水を足して水槽を維持する口実は立派にあった。ミジンコである。針先ほどの白いものが、水中をツンツン活発に往来し、季節によってその数が増えたり減ったりする。インターネットで見れば、ミジンコそのものの飼育を楽しむ人々もそこそこあるらしく、これら見知らぬ好事家との連帯感も悪くない。

 この呑気な楽しみを覆す事件が7月中旬に出来(しゅったい)。減った水を数日ぶりに足してやろうと水槽を覗くと、長さ7~8mmの細長い生き物がリズミカルに体を撓ませながら右往左往している。それも一つや二つではない。 瞬時に正体を悟ってげんなりした。ボウフラ、ですよね、どこからどう見ても。ボウフラの湧く溜まり水に落ちぶれちゃったのか、いったん捨てるしかないとため息ついて、待てよと思い直した。グッピーはボウフラをよく食べる、その事実を思い出したのである。そうなんですよ、可憐な装いからは想像しにくい旺盛な食べっぷりで、もぐもぐモクモクよくボウフラを食べるんです。美人の悪食(あくじき)とでも言いたいような。

 グッピー(Guppy, 学名 Poecilia reticulata)はラテンアメリカ原産の卵胎生メダカである。ものの本によれば、以前はニホンメダカなどのメダカ科とグッピー科をあわせてキプリノドン目と称していたが、その後ニホンメダカはダツ目メダカ科、グッピーはカダヤシ目カダヤシ科と分けられたらしい。カダヤシとは「蚊絶やし」のことで、この名からもボウフラの天敵であることがよくわかる。もっとも、今はダツ目となったニホンメダカもやはりボウフラをよく食べるから、日本産のメダカでもよかったのだけれど・・・

 なぜか気が動いて、ずいぶん久しぶりにグッピーを飼ってみることにした。街中の熱帯魚屋も金魚屋もめっきり少なくなったが、調べてみれば隣駅に一軒開いている。水槽にボウフラを確認した翌日、さっそく出かけて水草と共に1ペア購入。ビニール袋ごとしばらく水に浮かせ、落ち着いたところで水槽に放してやると、さっそくパクパクやりはじめた。一晩明けたら、無数と言いたいぐらい水槽一杯に跳梁していたボウフラが、きれいに一掃されていた。この小さい体のどこに入ったのだろうと呆れるばかりである。

 引き出しから、これも長らく放ってあったフレーク状の餌を引っ張り出して、朝少しずつやることにした。家の中に動物がいるのは、小さくても楽しいものである。飼い始めて10日目、朝とりまぎれて餌をやり忘れ、午後出かける前に思い出して覗いたら、水草の蔭で何かが動いた。またボウフラ?いやいや、違う。グッピーの稚魚である。あっぱれ、さっそく一仕事したのだね。ほんとにそんなに大きなお腹には見えなかったけれど。

 僕には2匹しか数えられず、そう言い置いて出かけたら、留守中に家人が根気強く観察して「たぶん6匹、少なくとも5匹」と教えてくれた。
この写真には何匹写っている?

  たぶん丸で囲んだ3匹、お手柄の母グッピーは右端上寄りの四角の中である。雄グッピーも下端に写っているが、タイミングから考えてこの雄がパパかどうかはっきりしない。多数の雄雌が群れ泳ぐ中から、お店のおじさんが適当に2匹選んだのだ、その時ママはもう身重だったはず。まあこれも御縁、仲良くここで暮らそうね。

Ω

 


感謝の追伸

2017-07-30 07:05:41 | 日記

2017年7月30日(日)

> ちなみに公開している本はこちらから見られます(可能のられるです)。Kindleでも読めるのでぜひ。

> 『不登校を考える  なぜ九十年代に不登校が急増したのか』

http://knowlog.site/topix/etc/muryofuto

 

 こういう発信方法があることは知っていましたが、あらためて認識しました。

 「不登校とトランプ大統領誕生の意外な関係?」

 パッと目に飛び込んできましたよ。何だか分かりませんが、球の出どころがいかにも勝沼さんらしい。楽しみに拝見します。

Ω


旧友の秀句 ~ その2

2017-07-29 21:35:31 | 日記

2017年7月29日(土)

 ・・・それよりも歌ならぬ俳句を、句会で鍛えてもらうというクラシカルなやり方でもじり続ける旧友M女史。登場履歴については下記参照のこと。

・ 旧友の秀句 2015-12-06

・ さくらのこえ 2015-12-31

・ 同窓会の効用(「さくらのこえ」補遺) 2015-12-31

 で、このM女史から今朝ほど、喜びも隠しおおせぬメールあり。「俳誌銀漢をインターネットで開け」と曰う。

 http://1st.geocities.jp/ginkan_haiku/2017-08.html

 さっそく見ればなるほど秀句、これはインターネットで公開されてるんだから、URLを明記すれば転載OKの理屈ですよね?友バカ丸出し、まるまる転載する。

【その1】

 故郷も子には旅先かき氷        

 信州生まれの私は、当然ながら故郷への思いは深く、四十歳の頃、町の古刹の墓地分譲情報を聞き、買った。ところが妻は寒いから嫌だ、というし、子供達も小さな頃の思い出がかすかに記憶に残る土地という位のことで、結局妻が死んだとき、返却し、東京の墓地に替えた。この句はまさにそのような親の心境を詠み留めたものである。東京で育った子には親の故郷も「旅先」の一つでしかない。淋しいけれどそれが現実で、かき氷の冷たさが頭に響くのだ。

 (選評 伊藤伊那男先生)

【その2】

 豆飯を囲み揃はぬ顔のこと      

 鯛飯とか牡蠣飯、松茸飯などではなく、「豆飯」という日常食と変らないものであるところがいい。他人から見たらどうということもない、日常生活の中の微妙な変化や機微などが句の裏に潜んでいるようである。同じように〈果物を包ませてゐる白日傘〉などにも、私小説的な「物語」があるように思われる。味の深い二句であった。

(選評 同上)

 女史の得意や思うべし。「かき氷」「豆飯」そして「果物」・・・喉を通り腹に達する小物の働きをこちらは感じている。

Ω


今週の新聞記事から ~ 白鵬の立ち合い/歌会こわい

2017-07-29 14:45:48 | 日記

2017年7月29日(土)

【白鵬の立ち合いについて】

 誰も何も言わないので、誰も何も感じないのかと思っていたが、そういうわけでもないらしい。

      

 左: 立ち合いで頻繁に見せた張り手について、横審の北村正任委員長が「私はあまり良い印象を持っていない」と発言。(7月25日朝刊)

 右: 同じ日の読者投書(千葉県 89歳男性)、こちらは全文転記する。

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大横綱よ張り手はもうやめて

 香川義煕さん(千葉県 89)

 大相撲名古屋場所はおおかたの予想通り、横綱白鵬が39度目の優勝を果たした。通算勝利数の新記録とあわせて、おめでとうと言いたい。

 だが、気持ちの奥に何か引っかかるものがある。それはあの「張り手」である。あの張り手が出て来るたびに、横綱の風格に欠けると思ってしまい、白鵬の取組になるとチャンネルを変えるようになった。

 確かに、取組相手を考えた毎日の立ち合いや、その研究心と準備には敬服する。張り手も認められた技ではある。しかし、土俵上で張り合いが続く相撲を想像してみよう。これはけんかに等しく、目を背けたくなる。

 大横綱と呼ばれる大鵬や北の湖、千代の富士らは、相撲内容も堂々としていた。白鵬の相撲には張り手だけでなく、変化も多い。優勝回数でも勝ち星でも大横綱なのだから、他の力士の挑戦を真っ正面から受ける相撲をしてほしい。

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 まったく同感、自分の相撲観が親の年代の男性と同質であることが僕としては嬉しい。万古不易の相撲道に、30年やそこらの年齢の違いがどれほどの影響を及ぼすものでもない。

 相撲に対する白鵬の真摯と努力は見事の一語に尽きる。不動の第一人者となってからも、誰より稽古熱心で出稽古も欠かさない。土俵に上がる前に相撲の基本である四股・すり足・鉄砲に相当の時間を割き、愚直な汗をたっぷりかく。「苦しいけれど、これをやらないと勝てないことが体に染み込んでいる」との言葉通り。千秋楽では二場所続けて日馬富士と力相撲、がっぷり四つから息詰まるような引きつけ合いなど、何年ぶりに見ただろうか。熱戦とはいえ、この形になっては日馬富士の勝ち味が薄い。型と力を鍛えあげた白鵬の偉大さに頭が下がる。

 これほど強いその人が、先々場所までのカチアゲという名の肘打ちを控えたと思ったら、先場所からはむやみに顔を張る。そうしなければ勝てないような半端な強さではないのに、なぜこんな見苦しいことを続けるのか、師匠はじめ相撲道の大先輩たちがどうして誰も意見しないのか。「白鵬の取組になるとチャンネルを変えるようになった」とは先の投書者、僕の方は「今日はどんな立ち合いをしてくれるか」とそればかり注視していた。心は同じである。今の段階で大鵬・北の湖・千代の富士と彼を並べる気に僕はなれない。相撲は数字では語れない。ひたすら今後を期待するのみである。

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【歌会こわい事件】

 これはまた別の話題で、相当大事な問題を含んでいるように思われる。これも全文転記する。(7月25日(月)の朝刊から)

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短歌時評 歌会こわい

大辻隆弘(歌人)

 先月、ツイッター上で「リアルな歌会はこわい」という意見が、数多く書き込まれる事態が起こった。「歌会こわい事件」とも呼ぶべき異常事態だった。

 この事態は「歌会は真剣な批評の場であるべきだ」という主張がツイッター上に載せられたことから始まった。この意見に対して、すぐに多くの反論が寄せられた。ネット上で短歌を始め、リアルな歌会に参加したことが少ない若者にとって、この意見は、短歌界の権威主義的な体質を感じさせるものだったのだろう。 結果「歌会は批評の場である」という発言をした個人は沈黙せざるを得なくなってしまった。私はこの「事件」の背景 に、短歌界の大きな地殻変動を感じた。

 自分の歌を歌会に出し、他人の意見を聞く。それによって自分では気づかなかった自作の長所と短所が見えて来る。歌会は、最も効果的な批評の場であったはずだ。が、今、その常識が通じない。

 現在、短歌は、口語で作られるのが普通になった。先生から文語を学ぶ必要はもうない。また、ネットが発達した現在、歌人は結社に入らなくとも自作の短歌を自由に発表することができる。

 ツイッターに自分の歌を載せる。それを見た人々が「いいね」を押してくれる。何も、リアルな歌会に出て、他人の批評を受けて傷つく必要はない。「歌会こわい」という声の背景には、短歌をコミュニケーションの手段だと考える人々の増大がある。そこではもはや他者の批評は不要だ。自己満足さえあればいい。

 批評は怖い。が、作品をそこにさらすことでしか文学は成立しない。 (歌人)

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 僕は歌会について論じる素養をもたず、「短歌の流れが二分されていくのではないか」ぐらいのテキトーな感想しか出ないが、何だか引っかかるのは「いいね」の件である。それから「コミュニケーション」のこと、歌会だってコミュニケーションには違いないが、筆者が言うのはまた別のことなのだ。この件、まだ言葉にできるほど熟していない。

 それよりも・・・

Ω