2017年4月24日(月)
おまけ、珍しく翼がきれいに撮れました。
Ω
2017年4月21日(金)~23日(日)
みかりんさん、正解!
良く見ると夜景の写真でも駅名が見えましたね、徳島でした。
僕は本籍が愛媛、同じ四国だから徳島なら周知だろうというのは当たらない。四国という小さな島の交通の不便さは首都圏の人々の想像を超える。徳島の人々にとって、「うずしお」と「いしづち」を乗り継いで4時間半近くの松山より、飛行機で1時間あまりの東京の方がはるかに近い。豫州人にとっても同様だが、これをマイナスとばかり見るかどうかは見識次第である。
交通が便利になれば国土はその分だけ狭くなる。所与の空間を広く使いたいと思えば、交通を不便に留めるがよいと賢くも述べたのは誰だったか。未来永劫、新幹線が走ることのないであろう 18,800㎢ の四国島は、土地の文化の多彩さもあって余人が考えるよりよほど広い。そのゆとりを、島の東西で阿波と伊豫が共有している・・・と思いたい。
実際よく似た感じがあるが、徳島の人々の方が開放的で明朗な印象あり、空と海の広さと呼応しているようである。空港から徳島駅まで送っていただく間、O先生に「広々して良いところですね」と本心を述べたら、「ありがとうございます、ただ一つだけ欠点があります」と言われた。「津波」だそうである。
なるほど、内海に囲い込まれた松山などに比べ、徳島の海は外洋に直接している。傾斜に乏しく山裾まで海抜の低い徳島平野を津波が襲ったら、一瀉千里で逃げ場がない。O先生によれば、事実それが起きたらしいという。さらに踏み込み、それまで阿波にあった国都が、津波の害を避けて奈良盆地に移されたとする推測があるんだと。
「調べてみると白鳳地震(南海トラフ地震)が684年にあったようです。奈良の平城京が710年ですから、被害を受けたそれまでの 阿波の地から津波の心配の無い都を奈良に移したのではないか?津波の不安がなく、全国に影響を及ぼしやすい奈良の地に、中国長安をモデルに新都を造営した・・・無理のないストーリーと思われます。」
帰京後にメールでそのように御教示くださった。魅力的な筋立てだが、たとえば672年の壬申の乱を考えても白鳳地震以前から政治の中心は近畿にあり、平城京に先立って藤原京(694~710)、さらに飛鳥浄御原宮(672~694)が存在するから、にわかに採るわけにもいかない説である。
とはいえ、眉山の頂から広々とした徳島平野を眺めてみれば、畿内・淡路の要地の南に開けるこの豊かな土地が放っておかれたはずはないとも思われる。奈良は良いところに違いないが、内陸の盆地にわざわざ土地を求めた古代人の発想に首を傾げるところもある。淡路から紀伊水道へ広い海原に視線をめぐらすにつれ、棄却したはずの幻が頭をもたげてくるのだった。
↑ 眉山のいただきから市内を望む。正面が北、淡路島の方向。
← 上の立ち位置のすぐ足下。
↑ 市内の高層レストランから吉野川河口を見下ろす。
↓ 逆に市内から眉山を見上げる。白い建物は、ビルマで戦没した県人の慰霊碑。
蜂須賀氏の居城であった徳島城は、1875(明治8)年に新政府の命で破却された。唯一残された鷲ノ門は1945年7月4日の空襲で焼亡したが、1989(平成元)年に復元されている。上の写真は太鼓櫓跡。良い散歩道だ。
Ω
2017年4月28日(金)
21日(金)の夕方に移動し、22・23の土日に面接授業。飛行機内で出会ったセンター所長のO先生が、空港から車で送ってくださった。降り立ったホテルの玄関はJRの駅の真ん前である。さあ、ここはどこでしょう?
Ω
2017年4月28日(金)
19日の水曜日、一日続いた会議の後で会食あり、その場所が総武線で一駅離れた幕張本郷なので、晴天を幸い歩いてみた。3kmあまりで散歩には格好だが、強い西風、つまり向かい風にときどき体が浮きそうになるほどで、結構な運動になった。
途中、浜田川という小さな川を渡る。川面が風で波立っており、マガモの一群が頭を低くし、首をすくめて風をやり過ごしているのが分かるかな。説明しないといけないようでは、写真も合格点とは言えないね。
Ω
2017年4月17日(月)
川北稔 『砂糖の世界史』 (岩波ジュニア新書)
昨年あたり、息子の誰かへのプレゼント用に買ったと記憶する。自分自身はある程度知っていることと思っていたからだが、読んでみて大いに反省、ページごとに新しい学びがあった。
特定の品目に注目し、これを軸に地理的広がりや歴史的推移を展望するというのは有力な手法で、精神疾患や治療薬剤などを「軸」に置くことはよく頭の中でシミュレートするところでもある。書架の既刊書にも『ジャガイモの世界史』(伊藤章治・中公新書)といった快作があるが、「砂糖」は「ジャガイモ」以上にこうした手法に適している、というのも、文中で活写される通り「砂糖」はその生産・流通・販売のプロセスとシステムを巡って、人類世界のあり方が根本的に変わるほどの「世界商品」だったからである。
「砂糖のあるところ奴隷あり」という言葉は象徴的で、サトウキビ栽培 → プランテーション → 奴隷貿易という命題一つだけでも、このテーマの広さと深刻さが分かるというものだ。
もう一つ面白かったのは、『ロビンソン・クルーソー』の背景との関連である。中公文庫版で『ロビンソン・クルーソー』を読み直し、訳者・増田義郎氏の詳しい解説(大塚久雄氏への批判を含む)に触発されたことは以前書いた。その仔細をあらためて丁寧に教わった感じがする。
ロビンソンは一攫千金を夢見てイギリスを発つが、最初のギニア行でなまじ成功を収めたことがあだになる。二度目の航海ではトルコの海賊につかまって奴隷にされた。二年後に逃げ出し、アフリカ沿岸を原住民の情けにすがって小舟で彷徨するうちに、ポルトガル船に救われる。「ポルトガル船に」というのがいろいろと含みのあるところで、ロビンソンは寛大公正なポルトガル船長の厚意で無事ブラジルに到達し、そこでサトウキビの農園主になる。首尾良くブラジルのプランターに収まったわけで、そこで満足しておけば良かったのだが。
「(多少でも自分の本当の利益に思いを致し、正しい判断をしていたならば)このようにうまくいっている仕事から手を引き、将来の反映の見こみをないがしろにして、あらゆる危険が待ちかまえている海に出かけるようなことはしなかったはずである。(中略)しかし、わたしはせかされていた。そして、わけもわからず理性よりもむら気の命ずるがままに動いていた。」(P.64)
要するにロビンソンは、プランテーションの労働力たるべき奴隷を買いつけるために再度ギニアへ向けて出発し、そして難船するのである。その後の孤島での生活記録が世界の読者を魅了してきたのだが、以上に述べたそもそもの動機を振り返るなら、彼が舐めた辛酸への同情もあらかた消し飛ぶというものである。
著者の執筆動機にしても似たようなもので、増田氏によれば、「そこには著者デフォーの、きわめて政治的な野望が、シンボリックに投影されていた。(中略)デフォーは、オリノコ河口とその奥の「ギアナ帝国」に、イギリスの植民地を作れ、と言っているのである。」(P.467-8)
「イギリス帝国は金の窃盗からはじまり、砂糖栽培で栄えた。」(P.469)
これらの下りは、『砂糖の世界史』のある章への引用文としてぴったりハマる。僕の読み落としでなければ、残念ながら川北氏は『ロビンソン・クルーソー』に言及していないようだけれど。
『砂糖の世界史』という本の狙いからは逸れるが、ひとつ面白かったこと。砂糖の相方である茶の貿易をめぐっての軋轢が、アメリカ独立のきっかけになったことはよく知られている。世に言う「Boston Tea Party」事件であるが、僕の幼年期にはこれはまだ「ボストン茶会事件」と呼ばれていた。 誰かが "tea party" を「茶会」と訳したわけだが、この "party" は「政党」などと言う時の "party" で、グループや党派を表すものとするほうが自然だろう。川北氏が「「ボストン茶党事件」あるいは「茶隊事件」」と書いておられるのを見て、生まれて初めて気がついた。
もっとも、「イギリス当局は犯人を捕らえようとしたが、植民地人は『ボストンで茶会(ティーパーティー)を開いただけだ』と冗談を言ってごまかし、真犯人は検挙できなかった」とする説も一方にあり、あながち誤訳とも言いきれないのかも知れない。(http://www.y-history.net/appendix/wh1102-014.html)
「お前たちは茶党 tea party のメンバーではないのか?」
「めっそうもない、ただお茶会 tea party を開いてただけなんで」
そういった会話を想定すれば、どちらでもよくなるかな。
最後にもうひとつ、『砂糖の世界史』の Amazon の書評は61件の平均が4.7という高得点だが、中に一人だけ☆1つを付けた読者がある。その言いようというのが、ふるっている。
「思いつくままに書いているのか、同じような話が何度もでてきたり、いつのまにか別の話に変わっていたりして、文章の構成がみえません。途中で読むのをやめました。」
人それぞれというほか、ないのでしょうね。
Ω