2019年9月25日(水)
三週続けて土日に何かしら企画あり、二週目のピークが9月22・23日の京都行である。 二日間を通して全てを仕切る主役は竹内香さんで、僕はシナリオの中にありがたくも出番をいただいたにすぎない。それにしても、母一周忌の秋の彼岸に超パワースポットの京都に招かれる不思議、そこからしてとてもただ事とは思えない。おまけに、何年、何十年ぶりにバイオリンを弾けだなんて、本当にこの自在な企画力はどこの何に由来するのか。一種、今昔物語に通じるような。
仔細を記せばきりも限りもないこと、ここは「場所」についてだけ書き留めておく。
22日(日)のふらっとのイベントは、この集まりがずっとこだわってきた京都府庁舎で開催。由来等はこちら
⇒ https://www.pref.kyoto.jp/kodomoguide/ken01.html
場所というものがいかに大事であるかを主宰者らはよくよく知っており、そのあたりに観念的な霊性に流れない確かな現実感覚が窺われる。
とりわけ強く惹かれたのは上掲写真の左手にあたるバルコニーである。土地勘がないので間違っていたら御容赦、正面に伸びるのが釜座通りで、ここから数多の歴史的著名人が京都市民に向かって手を振った。
その中にユーリ・ガガーリンの名があるのが、とりわけ興味深い。1962(昭和37)年5月25日(金)午後2時前のことで、その後ガガーリンは16:02の特急で名古屋へ向かい、名古屋駅前では1万人の歓迎を受けたという。
ガガーリンの訪日は日ソ協会の招きによるものとあるが、時あたかも冷戦のまっただ中、わけても宇宙開発競争でスプートニクに続きアメリカの面目を挫いたヴォストークの英雄、それが朝野を挙げての大歓迎に浴した事情は一考にも二考にも値する。そうした興味のそそられ方自体、若い人々には意味不明に違いないが。
こんな場所で弾かせてもらえるなら、半年も前からよくよく準備しておくのだった。喜憂こもごも調弦などするところを、しっかり撮ってくださって。
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その夜の懇親会、烏丸今出川のタイ料理店イーサンの離れも申し分のない場所、明けて23日(月・祝)は塾のために無鄰庵が準備された。
⇒ https://murin-an.jp/
往路に面白いことがあった。
ホテル前で拾ったタクシーに行き先を告げると、はあはあ東山の平安神宮の近くの、わかりましたと愛想良く発車させ、五輪仕様のタクシーの使い勝手などを詳しく語ってくれる。
概ね乗りやすくできますが、トランクルームは小さいですな、おおかたトヨタさんは定年後の御夫婦なんぞを想定して、トランク2個で十分と思わはったんでしょうが、中国人の御家族が一人2個ずつトランクを持ち込まれると往生します、大型の白タクが稼ぐわけですわ。あと、フェンダーがもひとつですな、京都の家は大事な塀に当てられたらかなんというので、角々の出張ったところに漬け物石みたいな大きな石を置きます、はあ「イケズ石」と呼ぶんですが、よう見ずに角を曲がるとこのイケズ石で脇をこすりますんで、それが見えやすい仕様にしてもらわんとね、それ以外は、まあようできてます・・・
楽しく耳学問するうちに、はい着きました、お忘れ物ありませんように。降りて見回すが、肝心の無鄰庵が見あたらない。Uターンして帰ろうとする運転手氏に、「あの、無鄰庵、どれです?」「そこのそれ、目の前の」「・・・和輪庵て書いたるけど」「へ?・・・あ、しもた!」
和輪庵は京セラの迎賓館だそうで同じく洛東、こちらも見事な庭園があるらしい。「わりんあん」と「むりんあん」、まあ間違いも時には起きるかな。
あらためて無鄰庵へ、もちろんメーターは倒したまま移動する間、2分間ほど静かだった運転手氏、すぐまた調子を取り戻して、
政治家いうのは今も昔もええ身分ですな、明治維新は幕府を倒して政府をつくりましたんで、天皇家大事、武家は目のカタキです。幕府というても江戸幕府ではなしに、室町幕府の足利さんが大塔宮(護良親王、運転手氏は正しくも「おおとうのみや」と発音する)という皇族を殺したのがけしからんという、足利の宗旨は臨済宗、なので明治の時代に京都一円の臨済宗の寺はどれもこれも土地を取り上げられて、はあ南禅寺も臨済宗ですから、その南禅寺から取り上げた土地に山県有朋さんが別荘を作られましたのが無鄰庵で、はい、今度こそ着きました。
タクシーの運転手さんというのは、実に勉強させてくれる人々である。定刻すれすれ、十名余の最後にどうやらすべりこんで半日の語らいが始まった。
くちぶえ君が集団精神療法の入門編をやってくれる。竹内さんがお身内と若山牧水の往復書簡、いずれしかるべき博物館に寄贈することになる貴重な品々を回覧してくださる。太秦ロケ弁も準備の賜物、午後は庭を散策、洋館に山県愛用の書見台付き安楽椅子など、見所多々あり。
無鄰庵会議というものが行われたのを、たぶんどこかで聞いたのだろうが初めて認識した。1903(明治36)年の冬頃、伊藤博文・桂太郎・小村寿太郎の面々がここを訪れ、山県有朋と四人で二時間ほども密談した。この席で、対露開戦やむなしとする翌年以降の外交方針が決断されたという。司馬遼太郎作品では山県は「恐露病」と評されるほどロシアを恐れていたとあり、無鄰庵の二時間は主にとっても日本の歴史にとっても巨大な転換点を画したことになる。
庭はそんなことにおかまいなく美しい。佐々木直子さんが送ってくださった写真から、何枚か掲載する。似たような道具を使いながら、腕には違いがあるものだ。
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