散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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実は未解決?モンティ・ホール問題

2014-10-31 07:36:54 | 日記

2014年10月30日(木)

 SFジャイアンツが第7戦でロイヤルズを振り切った。井山裕太名人が第6局で河野臨九段を退けた。ソフトバンクが阪神を第5戦で振り切った。この秋は前評判がそのまま通るらしい。結果の予測といえば・・・

***

 三男が確率の問題を持ち帰ってきた。数学得意の友人達が、一様に頭を悩ませているという。訊けば例の「条件付き確率」の問題だというので、嬉しくなった。古来、優秀なる少年少女達の前に立ちはだかってきた難問で、通過儀礼みたいなものだ。ただしこの関門はなかなか通過できない。僕なんかまだそこで引っかかったままである。

 

 A,B,Cと三つのドアがあり、いずれかひとつに賞金が隠されている。いま、君はAを選ぶと宣言した。ただし、まだAのドアは開かれていない。なので正解はまだわからない。

 ここに正解を知っている友人がいて、B,Cのうち賞金の隠されていないドアを開けてみせる。ここでは仮にCを開けたとしよう。Cは空っぽだ。

 さて、このとき君はAの選択を変えない方がいいか、それともBに鞍替えした方が得か、どう思う?

 「どっちだって変わんないじゃん」という答えは、ごく常識的と思われるが実は誤り。Bに変えた方が得なのだ。ナゼかって?そもそも、賞金がAにある確率は3分の1、A以外にある確率は3分の2だよね。ということは、「BまたはCにある」確率が3分の2なのだ。ところで、今「Cにはない」という情報が与えられたことによって、「BまたはC」はすなわち「B」ということになったよね?だから「B」の確率が3分の2に跳ねあがった。ならば君はBに鞍替えすべきなのだ。

 かつてこの問題がアメリカのテレビ番組「モンティ・ホール」で公開された時、いわゆる専門家が軒並み誤答し、視聴者中の専門家からも反論が殺到したんだそうだ。同情する。同情するものの、言われてみれば「鞍替え」が正解・・・か?

 

 「でもさ、俺がAを選んだとするじゃん?そしてカナメがBを選んだとするでしょ?『Cにはない』と分かった瞬間、俺にとってはBに鞍替えするのが正解だけど、カナメにとっては逆にAに鞍替えするのが正解だよね?二人とも喜んでAとBを取り替えて、でも結局同じことをやってるんだから、俺が勝つかカナメが勝つかはイーブンでしょ?おかしくね?」

 う~むむむ・・・君は正しい、としか思えない。

 どこが違うの?


肩の凝るわけ

2014-10-30 07:29:57 | 日記

2014年10月29日(水)

 午後の飛行機に乗り込んで着席したとき、妙に肩が凝っているのに気づいた。

 田舎で庭周りの作業などしていて、なんで肩が凝るかなと考えて、すぐに思いあたった。先日収録したテレビ教材のDVDを、イヤなもんだから先送りしていたがとうとう観念して今朝みたのだ。それでだ。

 「汝自身を知れ」とソクラテスは言う。「そんな辛気くさいことができるか」と一笑に付せるのはゲーテ級の大物だけで、僕ら凡人は自分を知って身を慎むほかない。ただ、その知り方が中途半端に終わるのが凡人の凡人たる所以である。

 それでも、「内省」とか称して観念的なことについては身を振り返るフリもできるんだが、一般に人がいちばん自覚せず、自覚したくもないのは、むしろ外面的な特徴ではないかしらん。要するに「顔」そして「声」だ。録音された自分の声を聞かされて、「こんなの自分の声じゃない」「録音がおかしい」と反応する人間は少なくない。というより、それが標準的な反応のようである。

 顔も同じだ。DVDを見ると、鏡で毎朝お目にかかっている顔とはいささかならず違っており、どっちかというと「誰これ?」「こんな変な人、初めて見た」という感じに近い。fremd などというドイツ語が、突然数十年ぶりに頭の中で弾ける。

 親と神様からもらった造作に不平を言っているのではない。それらの使い方、自分に責任のあることが問題なのだ。むやみに首をかしげるクセとか、決め言葉に限って滑舌の悪いこととか、背中を丸めて前のめりになることとか、ひらひら掌を動かすこととか、それやこれやが全体として醸し出す小物(こもの)感にうんざりするし、見ているだけで肩が凝る。このいけすかないおっさんが僕なわけ?何だか無性に申し訳ない。

 あ~あ、ぜんぶ自分の責任だ。べてるの家の「あきらめ力」に頼るしかないだろうな、うん。

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 「景色が良く見えるといいね」

 「別にそんなのどうでもいいよ」

 減らず口をたたいて乗り込んだが、眺めのおかげで復路は退屈しなかった。薄曇りなのでクリスタルクリアとはいわないが、志摩あたりのリアス式海岸から伊勢湾、遠州灘、駿河湾、伊豆半島を越えて相模湾から東京湾と、太平洋岸の輪郭をなぞって東上する。頂きがわずかに雪をかぶった富士山に挨拶し、伊豆大島を過ぎるときは火口の中まで覗けそうだった。

 空港から京浜急行が便利だが、品川駅の混雑がいつもひどく煩わしい。東京の嫌いな部分にいきなり直面するからかも知れない。天気が好く荷物が少ないのを幸い、京急蒲田から東急蒲田まで15分ほど歩く。蒲田行進曲、今は昔である。

 10時頃にさっさと休み、8時間余も熟睡したのは久しぶりだ。TV収録が年内にあと5回、腹を決めていくとしよう。


ふるさとの海はよきかな

2014-10-29 11:43:03 | 日記

2014年10月28日(火)

 田舎へ来て庭へも出ず、週末の面接授業の資料をこしらえ、大急ぎで送る。これができるのを便利というか、これを強いられるのを不便と見るか。

 「FAX導入は事実上の労働強化ですね。昔なら、本社から書類催促の電話がかかってきたら、『今朝送りました』と答えておいてから書類を作ったもんです。今は『できてるなら、すぐFAXで送れ』と言われちゃいますから。」

 1981年頃の家庭教師先で、某一流企業に勤めるその家のお父さんから聞いた話である。電話がプロペラ機、FAXがジェット機なら、メールやネットは人工衛星、いっそ「どこでもドア」に相当するか。その分、労働のイメージは減速させないと、生身の人間が壊れるに決まっている。サイボーグじゃないんだからね。

 

 午後、屋敷の西北隅の竹林に挑み、10本ばかりも伐ったところで「もう行くぞ」と父から声。帰郷前の恒例の湯治に権現温泉へ。名前の由来は判然としない。全国に知られた道後・奥道後にあやかって、前道後などと呼んだりする地元の小温泉である。やや硬い弱アルカリ泉で、石鹸の泡立ちが悪いが体には優しい、ほどよい加減である。

 そこから、これも恒例の海沿いの海鮮料理屋へ。料理はどうということもないけれど、窓の下には浜辺、その向こうに世界一穏やかな瀬戸の海と島山を望んで、眺めは天下一品である。駐車場に降り立った瞬間、橙の飴玉が島の端すれすれまで降りてきた。ドアをくぐって席に案内された時には、既にすっかり沈み、紫がかった残照が空を染めている。

 海はゆっくりとうねり、鳥が一羽、二羽、視野を横切って滑空する。

 

 ふるさとの海に向かひて言ふことなし

 ふるさとの海はよきかな


目覚めた力

2014-10-28 08:22:06 | 日記

2014年10月27日(月)

 午後から大日の草刈り。草は刈れるんだが・・・

 「どうにもならんなあ」と父が頭上を仰いだ。

 「空を仰ぐ」と言いたいところだが、その空がすっかり小さくなっている。

 

 小さな水路をはさんで、北側が山の斜面の雑木林、南側が細長い草地、この草地に何本かの柑橘類を植えている。そこは少し前まで格好の陽だまりだった。ところが年々、雑木林の樹冠が南へ大きくせり出してきて、水路を越えて草地を屋根のように覆い、柑橘類は陽を奪われて縮こまるばかりである。

 それでも一昨年あたりは息子達と樹々を見上げ、命綱で斜面にとりついて枝を払ったらどうか、次の休暇にやってみようかなどと語らうゆとりがあった。今やそんな陽気ではない。シイを主体の樹林全体がを背にして、今にも覆いかぶさってくる勢いである。もう僕らの手に負えない。

 

 よく分からないのは、ナゼ今このタイミングでということだ。雑木林が薪炭林として用いられなくなってから、もう半世紀も経っている。この間、人の手が一定のペースで枝葉を取り除くことは、ずっと起きていなかったのだ。それでもこの一帯はいちおう安定した景観を呈し、陽だまりの草地は陽だまりの草地であり続けた。それがここ一二年、やおら目覚めたように山と森が押し出してきている。

 なぜ、何が起きたんだろう?

 


日曜日 ~ 山、小カブ、悪習、草刈りと銀杏、などなど

2014-10-27 06:43:58 | 日記

2014年10月26日(日)

 いつもながら東京よりは日の出が遅く、6時過ぎはまだ薄暗い。経度の効果に加え、東側に標高1000m弱の高縄山を控えていることによる。前にも書いたが30歳前後に別府で過ごした一年間は、早朝に海から陽が昇り、夕は早々に山に陽が落ちる逆転状態を経験した。別府は西側に1,300mを超える鶴見岳があり、しかも急峻なので夜が早く来る。

 そうそう、最近会ったT君とO君が、申し合わせたように山歩きに精を出している。T君は「百名山」の何割かを踏破し、近く御嶽山行きを計画していた。O君は行き先は少ないが、富士だの屋久島だの大どころを押さえている。日本は山国だから、山を楽しまない法はないのだが、二人ともとりたてて山好きではなかったはずだ。あるいは残り時間を計算しているかなと、ちらと考えた。富士や屋久島を知らずに死ぬわけにはいかないと僕も思う。膝の調子が気になるが、両君も膝の問題は抱えているらしいから、工夫のしようはあるのだろう。

 

 朝の食卓に小さなカブが並んでいて、これがめっぽう旨い。シャキシャキと歯ごたえ良く、酢と塩胡椒で箸が止まらない。一汁一菜などと言うが、美味しい旬の一菜があれば十分な御馳走である。これが前の畑から何気なくあがってくるのが、田舎の豊かさである。

 

 B教会はこのところ御無沙汰していて、午前中は土間の机まわりで過ごす。新しい習慣を新たに加えるのは難しいが、身に染みついた悪習(悪臭?)を払拭する難しさは、レベルが一桁あるいは二桁上である。アルコール依存症などはそのことを教えてくれているが、それが教訓になるとすれば断酒会の効果も教訓になるわけだ。べてるの手法(「三度の飯よりミーティング」)は断酒会に学んだものだと感じたが、先週は埼玉の癌患者の集いがやはり同じ「無批判・語りっぱなしのミーティング」を実践しているのをテレビで見た。金曜日の診療の際にKさんに話してみたら先刻承知で、「あれはとても良いのだけれど、いろんな背景の人が出席していて、私などはつい聞き手になってしまうからダメです」と苦笑した。Kさんは別の友人と、一対一の交わりの中で支えられたという。

 場の力、絆の力は否みがたいが、その表現型は多様なのだ。中には現実の対人関係を好まない人もあるが、その場合は内面化された架空の「場」や「絆」に支えられているような気がする。自分自身は、どこに属するのだろう?どうしたら悪習/悪臭を払拭できるだろう?

 

 午後、M先生にCS通信の原稿を送っておいて柿田の草刈りに行く。夏と違って楽ちん。すぐ下の畑でタマルの奥さんが手入れをしているので帰り際に挨拶したら、きれいなナスを5~6本にカボチャを1個もたせてくれた。いつも銀杏(ギンナン)を分けているので、その返礼だろうと父が笑う。内でギンナンがなるのは当家だけだそうだ。門前に一対&一本、僕らの結婚記念に植えてくれた銀杏(イチョウ)である。東京の街路樹のように直線的に天を衝くのでなく、幹が分かれながら5mほどの手頃な高さに育っている。登りやすくギンナンが取りやすい、木肌が明るくて美しい、はなはだ気立て(木立て?)の良い樹々である。夏の緑陰など、すばらしく快適だ。

 

 さういふものに、私はなりたい・・・