散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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奄宅曲阜 微旦孰營 ~ 千字文 068 / 「振り返るな」の禁と「覆水盆に返らず」

2014-05-31 10:17:15 | 日記
2014年5月31日(土)

 急に暑くなってきた。
 今日の「千字文」は、あまり実質的な内容がない。

○ 奄宅曲阜 微旦孰營

 奄(エン)は覆うの意もあるが、ここでは「久しいこと」らしい。しかし、李注は「有る、たもつ」という意味を取っている。宅は「居所を定める」「居る」こと。
 曲阜は地名、阜は「おか」のことだ。「岐阜」は信長の命名で、「天下を分ける丘」というほどの野心が込められていた。

 英語の危機 crisis はギリシア語に由来するが、もともと分水嶺といった意味がある。
古い医学用語にクリーゼという言葉があり、これは同じ言葉のドイツ語版で「分利寛解」の意味があった。熱性疾患などが、命が危ぶまれるほどの重い状態から急激に病勢回復するものである。感染症が盛んであった時代には、そうした経過は珍しくなかったのであろう。
 「今夜が峠です」という医者の決まり文句には、坂を左へ落ちて死に至るか、右へ転げて分利寛解に至るか、その分かれ目という意味があったのだ。
 ピンチはチャンス、crisis は転機である。

 微はここでは「乏しい」から進んで「無い」こと。「孰」は「誰」に同じという。
 旦が全体の主語で、周代に魯国に封じられた諸侯の名。魯の首都が曲阜である。

ということで・・・

 周公の旦は長らく曲阜にいた。彼がいなければ、誰が彼の地を経営できただろうか、ということらしい。

***

 魯といえば孔子を思い出す、というのは短絡かな。
 周公旦は文王の子で武王の弟。武王の子の成王(ということは兄の息子、すなわち甥)を助けて周王朝の治世に貢献多大、孔子が聖人として仰ぎ慕ったというから、あながち間違ってもいないか。

 昨日の太公望と伊尹(イイン)の話が、さほどユニークとも言えないが面白いので、転記しておく。

【太公望】
 生まれつき読書好き、素直で質朴だったが、殷末の大乱の時代に前半生は徹底的にツキがなかった。
 町で小麦粉を売れば大風にあって吹き飛ばされ、牛をすれば非常な暑さで肉がダメになる。飲み物を売れば気候涼しく、飯を商えば豊作にあたった。何をしてもうまくいかないので、妻の馬氏はついに見限って去ってしまった。そこで西へ向かい、磻溪(ハンケイ)で魚を釣って生業にしたのである。趣味の釣りではなかったわけだ。
 文王が猟の途次にその姿を見て声をかけ、家族はあるのかと問うと、「妻子はないが、そのことは嘆かない。ただ、国に王がないのを嘆く」と言った。
 文王が「紂王が殷の王位におられるではないか」と問うと、「紂王は無道の王なり」つまり、王無きに等しいと答えたので、文王は彼が賢人であることを知ったという。これがきっかけで文王は太公望を重用し、子の武王は彼を軍師として紂王征討軍の先鋒をゆだねた。
 後年、太公望は斉国の路上で一人の老女が前夫を泣きながら偲ぶ姿を見かけた。変わり果てていたが、それが馬氏であった。相手が太公望と知って「再び夫婦になれましょうか」と問う馬氏に、太公望は一杯の水をもって来させて地に流して見せた。「一度離れた者は、二度と元には戻れない」ことを示したのである。
 「覆水盆に返らず」はこれに由来するという。

【伊尹】
 母が伊尹を身ごもったとき、忽然と空中に神人の声があり、「明日大水が来る。東に向かって走り、振り返るな」と告げた。人々はその言葉を信じなかったが、翌日その通りに大水がきた。伊尹の母は東に走ったが、十里を過ぎたところで振り返って後を見た。その時、身は枯れた桑の木に変わってしまった。木の中で泣く子の声がするので、人々がその子を取り出して養った。
 子は長ずるに及んで賢く徳が備わっていた。湯王が夏の桀王を打つのに功績あり、後に殷の丞相になった。

 夏の桀王を撃ったのが殷の湯王、これを助けたのが伊尹
 殷の紂王を撃ったのが周の武王、これを助けたのが太公望

 災害から逃れる際、「振り返るな」の禁を破って人ならぬものに変えられる話は、旧約聖書「創世記」のロトの妻に酷似している。
 この型の説話が何を意味しているのか、よく分からなくてもどかしい。

磻溪伊尹 佐時阿衡 ~ 千字文 067

2014-05-30 08:02:30 | 日記
2014年5月30日(金)

○ 磻溪伊尹 佐時阿衡
 
 磻溪(ハンケイ)は川の名前、ここでは地名に託して、ここで釣りに興じた太公望を指すそうな。
 伊尹(イイン)は人名で、阿衡(アコウ)は伊尹に対する尊称。

 太公望や伊尹は時(の政治)を佐(たす)けて、阿衡の称号を受けた。

 太公望こと呂尚について、Wiki からパクッておく。

*****

呂尚は、紀元前11世紀ごろに活躍した周の軍師、後に斉の始祖。

 姓は姜、氏は呂、字は子牙もしくは牙、諱は尚とされる。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていたエピソードから、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる。

【生涯】
 歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である。殷代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されていない。
 『史記』斉太公世家では、東方の海岸地方の出身であり、祖先は四岳の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという。元は人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する。
 周の軍師として文王の子武王を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ。殷の王である帝辛(受王、紂)を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる。
 営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した。また、斉は成王から黄河、穆稜(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は没時に100歳を超えていたという。
 春秋初期に強国となった斉は、自国の権威を高めるために始祖である呂尚の神格化を行った。唐の粛宗からは武成王が追贈され、文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。
 しばしば呂尚は部族集団の長とみなされ、周と連合して殷を滅ぼした、もしくは周軍の指揮官として殷を攻撃したと解される。呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある。

【『史記』における仕官の経緯】 
 呂尚が文王に仕えた経緯については、『史記』に3つの逸話が紹介されている。しかし、いずれの逸話も信憑性に疑問がもたれている。
 文王は猟に出る前に占いをしたところ、獣ではなく人材を得ると出た。狩猟に出ると、落魄して渭水で釣りをしていた呂尚に出会った。二人は語り合い、文王は「吾が太公[注 2]が待ち望んでいた人物である」と喜んだ。そして呂尚は文王に軍師として迎えられ、太公望と号した。3つの逸話の中で一般に知られているのは、この説である。陝西省宝鶏には太公望が釣りをしたという釣魚台があり、観光地となっている。
 元々呂尚は殷に仕えていたが、帝辛の悪行に反発して殷を出奔した。諸侯の元を遍歴した後、文王に仕える。
呂尚は東方の海浜に隠棲していたが、周の臣下で旧知の仲である散宜生と閎夭の誘いで羑里で拘禁されていた文王に会おうとした。呂尚は帝辛に美女と財宝を贈ることを提案し、文王を釈放させた後、周に仕官した。

【伝承】
 呂尚は、後世の兵法と周の権謀術数を論じる人間の尊敬の対象とされた。兵法書『六韜』は呂尚の著書とされたが、『六韜』は後代の人間による著作であり、実際に書かれた時期は戦国末期以降と考えられている。また、呂尚は『三略』の著者にも仮託されている。
 後秦の王嘉が編集した『拾遺記』に収録されている有名な説話として、呂尚が斉に封ぜられた時に昔別れた妻がよりを戻そうと来たがこれを拒んだ話がある(「覆水盆に返らず」)。『漢書』に収録された朱買臣の逸話など、中国には類似するエピソードが多く存在する。
 文王は河畔で釣りをしていた太公望に出会ったとき、彼が釣りを終えるのを夕方まで待っていたという伝承がある。後世には、リーダーが優れた人材を得るためには、手間や犠牲を惜しんではならない例として引かれた。
 明代の学者・謝詔が著した「風月夢」第十回には「姜太公釣魚願者上鉤」という句があらわれる。

 
 明初に描かれた渭水での呂尚と文王の邂逅

校正作業の光と影/夢

2014-05-29 06:13:25 | 日記
2014年5月29日(木)

 月曜から水曜まで、コース教員総出で試験問題の校正作業にあたる。
 字句の点検だけではなく、正解指示に誤りがないか確認するため、すべての問題を各科目二人の教員が実際に解いてみるのである。他人の作った問題を解くのはそもそも難儀なうえ、「生活と福祉」がカバーする広い領域の全体を見るとなれば相当しんどい。それだけに勉強にもなる。ほんとうにいろんなことが、世の中にはあるものだ。

 ついでの余得として、4月に開設したばかりの科目の教科書に恥ずかしい誤字が見つかった。誤字脱字をゼロにするのは本当に難しい。自分自身の書いたものは「こう書いたはず」というイメージで見てしまうから、ありえないようなミスが起きる。ありがちのことだと自分を慰めてみても、やはりどうにも恥ずかしい。

 試験といえば、先日事務方からの手続き的な照会をきっかけに、思いがけないことを知った。
 とある少年刑務所の中に、自分の科目の受講者がいるのである。
 学習センターに試験を受けに来るわけにいかないので所属所内での受験になるが、使用問題は同じでよろしいか云々という照会であった。
 むろん詳細は伏せられており、少年なのか少女なのかもわからないが、それはいい。そういう場所で更生の日々を送りつつ、『メンタルヘルス』や『死生学』を学んでいる若者がいる、そのことである。

 粛然。
 元日礼拝でのN先生との会話を思い出した。

 それだけに誤植がいっそう恥ずかしい。まったく申し訳なくて嫌になる。

***

 『睡眠と健康』の校正作業中、「就寝3時間ぐらい前の夜間帯に30分程度の有酸素運動をすると、睡眠の質が向上する」とあるのを目にした。夕食を早めに済ませて8時から30分速歩すれば、この条件にぴったりだ。夕食後の軽作業はダイエット上も良いはずと、すぐ飛びつくんですが問題は続くかどうかなのですね。
 ともかく昨夜は家から15分ほど歩き、同じ道を軽ジョグで帰ってきた。

 睡眠の質はどうだったかというと、いつになく夢見が多かったようである。

 明け方に、珍しく鮮やかな夢を見た。
 家内と二人でどこか外国を旅行していて外国人の男女と出会い、彼らの車に乗って話などしている。色黒の人々で中年の夫婦に見えるが、南アジアか中東か由来はよくわからない。訊けば女性には名前がないのだという。
 それでは困らないかと夫(?)に言うと、「二人でいる分には名前は要らない」といい、「しかしせっかくの機会だから、あなた方が彼女に名前を付けてやってくれないか」と頼まれる。
 さてそうなると、いい名前がすぐには浮かばないものだ。フローラ、エリス、ミカエラ、どれもぴったりしない。
 名づけのヒントになるかと思い、「あなたがたはどこで出会ったのか」と尋ねたところ、二人が突然表情を硬くした。車を停めて降り、別々の方向に歩き出してしまう。
 妻の方を追っていくと掘立小屋のようなところに着き、小さな可愛らしい子供たちが何人か待っていた。女性は子供たちと僕らを小屋の外へ出し、自分は中でお産を始める。小屋の一隅には火が燃えており、女性はそれで火傷を負って、子供を産み落とすと死んでしまう。
 外で待つ間に、名前を考えた。
 ハナ、あるいはハンナ、それがいい。日本語の「花」に通じ、旧約聖書に源があるからユダヤ・キリスト教徒でもイスラム教徒でも使える。
 そう思いついた時には、彼女は死んでいた。せめて息のある間に、ハナと呼んでやりたかった・・・

***

 何だろう、これは。
 解釈?
 まあ、やめておきましょう。

沖縄補遺の補遺 ~ 久松五勇士

2014-05-27 07:29:04 | 日記
2014月5月27日(火)

 日本海海戦の日、だそうである。1905年5月27-8日だ。

 となると、沖縄シリーズの締めくくりは久松五勇士ということになる。
 こういうのは Wiki が便利なので、ありがたくコピペする。ただし、あらかじめ2点注記。

 「宮古島から石垣島まで、サバニで15時間170キロ漕ぎつづけた」とある。石垣島東岸に上陸後、さらに30キロを夜行して27日早暁の石垣電信局(八重山郵便局)に駆け込んだ。
 命がけの航海の方角に注目したい。石垣島は宮古島からは西にあたる。東ではない、西だ。北上するバルチック艦隊とほぼ逆行、日本本土の方角とは正反対である。最寄りの(!)電信施設に急行するため、彼らは反対向きにひた漕ぎに漕いだのだ。
 なぜかそのことが、この風景に非凡さを付け加える。涙まじりの可笑しみといってもよい、命のかかった可笑しみである。

 

 もうひとつ、文中にあるように彼ら五人の行動は、初めは(第一報でなかったために)忘れられ、昭和の大日本帝国膨張期に発掘・顕彰され、戦後にまた忘れられた。一貫して「軍事」の観点から注目されたり忘れられたりしている。それが実際「本土」の平均的感覚であったのだろうが、その了見が笑止だというのだ。
 1879年の「琉球処分」から四半世紀、ロシアの艦艇が中国の漁民と誤認した通り、依然として「本土」とかけ離れた風貌・風情の島の人々が、このときこの行動によって明確に自己を「日本人」と規定したのである。
 国民も国家も自然の実在などではない、その都度の意思表示と行動によって確認され再生産される虚構なのだ。日本人には見えにくいこのカラクリを、琉球人はこの1世紀半いやというほど意識し続けている。それを浮き彫りにするのが久松五勇士の物語で、軍事はことの本質からはるかに遠い。帰属と排除、統合と疎外こそが真のテーマなのだ。
 そうであるなら、その時の雰囲気で思い出したり忘れたりできるはずがない。
 
 これでこの度の沖縄シリーズは本当にオシマイ、見れば最近有名な著述家が「21世紀の『琉球処分』」というフレーズで、沖縄の内在的視点が「本土」側で絶望的に欠落していることを指摘したりしている。
 気がつかないうちに地雷原に近づいていた。

*** Wiki のコピペ ***

 久松五勇士(ひさまつごゆうし)は、日露戦争時に行われた日本海海戦に先立ち、バルチック艦隊発見の知らせを宮古島から石垣島に伝えた5人の漁師の呼び名である。

【概要】
 1905年、ロシア海軍のバルチック艦隊が極東へ向かっていた。5月23日、奥浜牛という那覇の帆船乗りの青年が宮古島付近を北上しているバルチック艦隊に遭遇した。バルチック艦隊も彼を視認していたが、龍の大漁旗と、独特の長髪のために中国人と判断して捕えなかった。奥浜は宮古島の漲水港(現・平良港)に26日午前10時頃に着き、駐在所の警察官とともに役場に駆け込んだ。
 宮古島は大騒ぎとなった。当時の宮古島には通信施設がなかったため、島の重役・長老達の会議の結果、石垣島にこの情報を知らせる使いを出す事となり、松原村の垣花善・垣花清・与那覇松・与那覇蒲と、久貝原の与那覇蒲(松原村の与那覇蒲とは同姓同名の別人)の漁師5人を選抜した。5人は15時間、170キロの距離をサバニを必死に漕ぎ、石垣島の東海岸に着いて、さらに30キロの山道を歩き、27日午前4時頃、八重山郵便局に飛び込んだ。局員は宮古島島司(島長)からの文書を垣花善から受け取って電信を那覇の郵便局本局へ打ち、電信はそこから沖縄県庁を経由して東京の大本営へ伝えられた。
 日本本土への連絡は信濃丸によるものが数時間早かったため、この情報が直接役に立つことはなかった。その後5人の行為は忘れられていたが、昭和時代に入り、この事実が発掘され教科書に掲載されると一躍評価が高まり、5人は沖縄県知事から顕彰され郷土の英雄となった。

【影響】
 たとえ本土から遠く離れた島の漁師でも、国家への忠誠心は本土の国民に負けず劣らないという話は、軍事色が強まる傾向にあった日本国内や拡大を続ける外地などで格好の話題となった。
 軍事色の強い話題だけに、戦後、教科書から姿を消すと本土では瞬く間に忘れ去られていったが、宮古島や石垣島では依然として郷土の英雄という評価は揺るがず、石垣島の上陸地点には「久松五勇士上陸之地」の石碑が、宮古島にはサバニを5本の柱で支えるコンクリート製のモニュメントが建てられた。
 宮古島市久松出身の the Beatle Crusher(ザ・ビートルクラッシャー)というバンドが、『黒潮の闘魂 ~ Go-You-Sea ~』というタイトルで久松五勇士を歌っている。また、宮古島の銘菓の名前にもなっている。
  

沖縄補遺 4 ~ 首里城の美しさ/沖縄の未来

2014-05-26 17:31:32 | 日記
2014年5月26日(月)

 首里城の美しさにはエキゾチックなものがあり、つまり「本土」の城とは根本的に異質の合理性や美的感覚が大きな魅力になっている。要するに「違い」があるということだが、その違いの由来を問えば中国の影響を認めないわけにはいかない。
 たとえば石垣。城の石垣といえば、大小さまざまな石をその形のままに用い、その不規則さや偶然性が全体として堅牢な一塊にまとめられているところに面白さがある。ところが首里城の石垣は、四角形の切り石が緻密に整然と配列され、紙一枚の隙間もなくぴったり仕上げられている。これはこれで大変美しく、遠目にはっとするような印象があるのだが、いわゆる日本の城郭の石垣とはまったく違う。中国方式なのであろう。
 この種のことが首里城の全体を覆っており、先に記したような「上に伸びずゆったりと平面的に広がる」作りをはじめ、赤と金の多用、王権のシンボルとしての龍、中庭を囲む建物の配置、椅子式の玉座、王冠など、基本的に中国風の印象が強いのだ。同じく中国を正面としていた、李氏朝鮮のそれとも近いのではないかと思われる。実際、首里城はたぶんに紫禁城を意識して築かれたとも資料にある。

  

 そうした中国風の優勢な中に、時として日本の風味を見出すのがこれまた面白い。
 象徴的なのが畳で、こればかりは日本由来であろう。もっとも、琉球畳は独自の特徴をもっている。沖縄産の強度の高いイグサを用い、畳の目が細かいのが身上で、あわせて縁なし・正方形という独特の外形をもつ。床を敷き詰めていくパーツとしては長方形より汎用性が高く、フローリング上の部分使用などモダンな使い方にも適している。
 それはともかく、畳は琉球と日本だけに見られるものだから、琉球から日本に入ったのでないなら、日本から琉球に伝わったのである。日本畳は奈良・平安時代に起源があるというが、床一面に敷き詰める現代の形に成熟したのは鎌倉から室町の頃だというから、ちょうど尚氏王統が成立・興隆した時期に一致する。
 個人的には、それが伝わったのが島津侵攻以前か以後かを知りたく思う。こだわるようだが、平和な時代に和やかに伝わったものかどうかが、少々気になるのである。

 
((有)西田畳店のサイトより拝借)

 もうひとつ、これは日本風と思われたのは、扇子である。
 首里城内には、琉球服に身を包んだ係員が観光客の誘導にあたっている。男性は例外なく、帯に扇子を指しているのが面白く、頼んで開いて見せてもらった。厚手の障子紙のように、白の無地である。作りは日本の扇子とほとんど変わらない。無地は少々殺風景だが、簡素さは中国風より和風を連想させる。係員は「本土のものと同じでしょう」と、さらりと言った。

 七、八分の中国風に、ところどころ和風が混じる面白さ。それが琉球の歴史的位置をよく反映していると感じる。もちろん琉球は中国と日本の七・三のキメラなどではない。両者に加えて広大な南の海の彼方から、あるいは朝鮮半島から伝わってきたものを吸収し、ここに住む人々が独自の歴史と伝統を練りあげたのだ。
 琉球が日本の一部であったのは、わずかにここ1世紀半のことでしかない。そしてそれは、日本の側からの暴力的な介入の結果としてそうなったのである。くどいようだが、日本人としてそのことを忘れるわけにはいかない。首里城はそのことを雄弁に語っている。

*****

 展示スペースの資料を見ると、琉球の交易圏は昔から東南アジアの方向に向けて、遠く広く開けていたのが分かる。まさに一衣帯水、海は繋ぐのだ。西は中国大陸、北は朝鮮半島、日本本土は北東のどん詰まりで、実はいちばん発展性に欠ける方角である(丑寅の鬼門!)。焼酎の製法はこのネットワークに乗り、シャムから琉球を経て薩摩へ伝わった。ポルトガル人はその頭越しに直接ヨーロッパを持ち込んだ。
 何しろ歴史が示す通り、沖縄の島々は東アジアのハブたるべく至適絶好の位置にある。韓国は済州島をそのような場所として発展させたがっているが、立地の良さでは沖縄に到底およばない。加えてこの観光資源がある。国際通りを散歩すれば、北京語に広東語、韓国語に英語が入り乱れて賑やかなことこの上ない。人々はそうした状況に慣れ親しんでいる。
 いつか東シナ海に恒久的な平和が訪れ、米軍の重荷と中国の野心から解放されるとき、この地域は大発展を遂げる可能性をもっている。「本土」は沖縄を必要とするが、沖縄は「本土」を必要としない、そんな構図さえ想像に浮かぶのだ。 
 独立?
 もしも琉球の人々が望んだなら、それはけっして夢物語などではない。
 O先生、私もそう思いますよ。