散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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はがき詩信90/蘇芳(すおう)

2013-09-30 22:31:16 | 日記
2013年9月30日(月)

考えもなしに書きちらしているので、書いたか書かないかすぐ忘れてしまうんだが、
Iさんの「ハガキ詩信」のことは確か書いたはずだ。

2日前、90号がメール添付で送られてきた。
ハガキというブツがないのが頼りない感じがするけれど、拡大してじっくり見られるのはありがたい。

 
宛名面、10月1日はこんなに多くの記念日なんだね。
「釜飯の日」「浄化槽の日」など、特に個人的な思いに触れる。

通信面、
「ここは/えらばれた地なんだね」
「きのうより/すこしちいさいきょう/それで/すこしの不自由もない」
詩とは自由なものだ。そして強力だ。
明日、口ずさみながらこう。

関中子のゴキブリの詩が良い。
それから「蘇芳」。
「ぐいっぐいっ」「ぐりぐり」
「ぐ」の音にこもる、肚のすわった力強さよ。

擬音語は日本語の力の源のひとつだ。
特に反復するそれはポリネシア起源と聞いた覚えがある。
複雑で多様なルーツを併せ呑む僕らの文化、日本語の由来は象徴的なものだ。
ウラル・アルタイ語の文法に、ポリネシア系の語彙、そこに中国発の漢字が流れ込む。
何と何と豊かなこと。

日本語も、日本の文化も、ぐりぐり育て!

 
Atsushi Yamamoto さん 『季節の花300』(http://www.hana300.com/hanazu1.html)

マタイの「今日」、ルカの「毎日」

2013-09-30 09:47:07 | 日記
2013年9月29日(日)

午前中は教会、日頃足が遠のいている高齢の兄弟姉妹を招く日として、牧会委員会中心に礼拝を整えた。招きに応えて数組の方々が久しぶりに顔を見せてくださった。天に移された多くの先輩の面影が重なる。
高齢者は教会の宝、社会の宝と実感する。

教会は社会の縮図である。否、青写真だ。
ここで設計したものを、社会へ広げてきたいのだ。

***

新約聖書に四つの福音書があることを、以前は気にも留めなかったが、今になってその価値を痛感する。

四つそれぞれの意図があり、狙いがある。
基本的に同一の事件を伝えていながら、立場によって叙述の内容もスタイルも違ってくることが、ものすごく面白い。思考の訓練になるうえ、ひとつの真実がいくつもの顔をもつことを示して教訓的だ。

素材そのものも核心部分は共通だけれど、いわゆる「特殊資料」が加味されてそれぞれが個性的なものとなっている。事実を最も素朴に伝えるマルコ、旧約との連続性に意を用いるマタイ、世界史的で未来志向的なルカ、他の三者とは異なる霊性に立つヨハネ、これらを比較して読む楽しみは無上のものである。

中でルカ福音書の著者はギリシア人の医師と伝えられ、文の美しさ格調高さは比類がない。
同じ著者による続編にあたる『使徒言行録(使徒行伝)』は、教会形成の観点からは不可欠のもので、およそ何かを新しく作り出すときに文書というものが果たす役割の実証例ともなっている。

しかし、いま書き留めておきたいのは、もっと些細なことだ。

***

主の祈りの文言を、マタイとルカで比較してみる。
ポイントは多々あるが、ここでは一点に絞る。

わたしたちの日ごとの食物をきょうもお与えください。(マタイ 6:11)
わたしたちの日ごとの食物を日々お与えください。(ルカ 11:3)
(口語訳)

念のために別の訳で。

わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
(新共同訳)

見るとおり違いは一点だけ、マタイが「今日(も)」とするところを、ルカは「日々/毎日」としている。マタイは今日この日の一回性に注目し、ルカは日々の反復性に重きを置く。

この対照はギリシア語原文を見るともっとはっきりする。
日本語訳では違いは副詞一カ所に限定されるが、原文では「与えてください」という動詞からして違うのだ。

τον αρτον ημων τον επιουσιον δος ημιν σημερον.
(マタイ)
τον αρτον ημων τον επιουσιον διδου ημιν το καθ῎ημεραν.
(ルカ)

δος(マタイ)はアオリスト、διδου(ルカ)は未完了、前者はある時点における一回のこと、後者は継続ないし反復を表すものだから、当然ながら副詞σημερον(= today)とκαθ῎ημεραν(= every day)に対応する。
かつ、日本語ではうっかり見逃されかねない微妙な違いが、述語動詞と副詞のセットで明示されることによって原文では到底見逃しえない。
「翻訳は裏切り」という言葉が、ここでも思い出されるだろう。
翻訳担当者の罪ではない、ギリシア語を日本語に訳すとき、言語構造の違いゆえに起きざるを得ない強調点の逸失で、これを補正しようとすればことさら何かを付加しなければならない。

もちろん、マタイとルカと、どちらが正しいかという問題ではない。
マタイの表現からは、「今ここで」の切迫感、今日を生きる者の必死・ひたむきが伝わってくる。山上の説教の中で「明日のことを思い煩うな(=今日に集中せよ)」とイエスに語らせる(マタイ 6:34)のと一貫した姿勢を見てとることができる。
ルカの言葉からは今日も明日も、来る日も来る日も苦悩を背負って生きねばならない人々の、安心への希求が伝わってくる。歴史と未来を指向するルカには、真にふさわしい。
微妙に異なる複数の証言から、ひとつの真理が立体的に浮き彫りになること、四福音書の恵みである。

*****

もう一カ所みておく。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
(ルカ 9:23、新共同訳による。以下同じ)

ここでも「日々」はκαθ῎ημεραν、動詞の時制は注意すべきところで、「自分を捨て αρνησασθω εαυτον」と「自分の十字架を背負って αρατω τον σταυρον αθτου」はアオリスト、「従いなさい ακολουθειτω」は未完了。
つまり「自分を捨て、自分の十字架を背負う」のは一回的な決断、「主に従っていく」のは日々反復の営みということになる。

並行箇所をマタイとマルコで確認する。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
(マタイ 16:24)

日本語訳では同じになっているが、マタイの「捨てる απαρνησασθω」はルカの「捨てる αρνησασθω」に分離の接頭辞「απ」のついた形である。「捨て去る」といった強意形とも見えるが、実際の用例では特に区別もないようだ。
この点を除いて両者の間に動詞の違いはなく、ただルカにおいて「日々 καθ῎ημεραν」の語が付加されている。

ついでながら、これら「捨てる αρνησασθω 、απαρνησασθω」には「(関係を)否認する」といった意味がある。イエスが死刑判決を受けた夜、ペトロが庭でイエスとの関係を疑われ、懸命に「否認した」というところで使われる動詞である。
「自分自身を捨てよ」と命じられた主に対して、土壇場のペトロは自分の命を守るために主を「捨て」た。この反転の蝶番(ちょうつがい)にあたるのが、動詞「αρνησασθω 、απαρνησασθω」である。

次にマルコ

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
(マルコ 8:34)

「わたしについて来たい者」と「わたしの後に従いたい者」は等値できる。
したがってこの箇所は事実上マタイと完全に同文(というよりマタイがマルコを踏襲した)で、「日々」の語はない。
ルカがこれを加えたのだ。

*****

「主の祈り」において、また「十字架を負って従う」ことについて、「日々 καθ῎ημεραν」の語を繰り返し加え用いたルカの意(こころ)に思いを巡らす。
点の輝きが線として伸びていく、歴史の明日のその向こうに神の国を仰ぎ見る、そんなことでもあっただろうか。

何かしら新しいものが、そこに確かに生み出されている。

ローランサン風

2013-09-29 16:25:56 | 日記
清々しい秋、清々しい朝、少しは快いことを語ろう。
うっかり立ち入ったインターネットサイトで見た、胸の悪くなる画像を払拭したいし。

*****

K子さんと47年ぶりに再会のことを書いたが、こちらは40年かけてなお未完。
進行中の想い出話である。

両親とともに現住所に移ったのは、今からちょうど40年前。
オイルショックが日本の経済に急ブレーキをかけた年でもあるが、それは高校生には頭上50㎝、右後方40㎝ぐらいの話で。

目黒に有名人が多いとか、いつから始まったんだろう?
「サンマ」の連想もあり、世田谷あたりと変わらぬ田園地帯で世田谷ほど大きくもなく、だいいち「目黒」という響きが泥臭くて好ましいと思っていた。
引っ越してくる前も目黒区内だったが、「元競馬場前」とか「油面(あぶらめん)」とか、地名がいちいちいわくありげで面白い。もともとこの一帯は将軍家の鷹野の場所だったわけで、「駒繋(こまつなぎ)」「駒場」「鷹番」といった地名がその由来を残している。
「サンマ」の話も鷹狩で空腹になった殿さまが主人公なんだからね。

うちのあたりはK大の広い敷地に隣接するおかげで緑が多く、なんて書くと優雅なようだが、1970年代にはまだそこらにネギ畑が残っていた。
この地域の平地を生み出した呑川が暗渠に封じ込められる直前で、かつての清流は見るかげなく気息奄々の体ながら、まだ水音を聞かせていたっけ。

そんな舞台に、ある日ヒロインが現われる。
残暑の午後、おおかた学期初めの早帰りの途上。
ネギ畑や町工場に挟まれた田舎びた道、家まであと5分ほどのところを歩いていて、ふと目を挙げると50mほど前をゆく花やかなシルエット。
長身の若い女性、ブラウス姿にふうわりとしたスカートの裾を軽くひるがえし、何より幅広の麦わら帽子が涼やかである。
何色かははっきり覚えないが、何しろパステルカラーのくっきりした印象が、シルエットとあわせて洋風の花の印象を残した。

モネの「日傘の女」にかなり近いのだけれど、もう少しだけ輪郭がはっきりしており、堂々たる女性の代わりに少女のうら若さであるところが違っている。
ローランサンの絵のような、と柄にもなく思ったものだ。
ローランサンの絵をまじまじと眺めたことなど、ついぞ覚えがないけれども。

5分の道のり、お嬢さんは先を歩き続けた。
僕は当時から歩くのが速かったから、距離が縮まらないことも驚きだった。
急ぐとも見えないが、長いストライドですいすい進むのだろう、ひょっとして宙に浮いているかと疑ったが、確かに地面を踏んでいる靴の色が、また鮮やかだったのである。

うちのマンションの前を通り過ぎ、僕がマンションに入るとほぼ同時に、50m向こうの一軒家に入って行った。その後、この一軒家に内心のハイライトが向いたことは言うまでもない。

***

ある日このお姉さんと言葉を交わして・・・ということだと面白いんだけどね。
そっち系ではなくて。

「お姉さん」と書いたが、もちろん実年齢などわからないし、実は同い年かもしれないのだ。
自分の周りには、あの日あの時間帯にローランサン風のいでたちで出歩く女性がいなかったから、大学生か家事手伝いと決め込んでいただけで、そうとしたところで何歳も違わない理屈である。目だつ人なので、見かければ必ず「あ、いた」と注意が向く、その装いがいつも印象派的に色合い美しく、ローランサン風におめかし麗しい。長いストライドですいすいと歩み去っていく。

基本的に閑静な住宅街で、こちらは新しく建ったマンションに越してきた新参者だが、この家は昔から居ついていた人々の住む一帯にあり、そのまま今でもそこにある。
その後、改築したものの、不思議に人の出入りがないようだ。
「お姉さん」もお嫁に行ったふうがなく、かといってお婿さんを迎えた様子でもない。
あまり似ていない他の女性家族たちと、静かに暮らしているらしい。

***

この八月の蒸し暑い朝、近くのポストまで郵便を出しに行った。
早くも滲んでくる汗を感じながら坂を降り切った時、目の前を若草色が通り過ぎた。
白いスラックスの長い脚がみるみる遠ざかる。朝のテーブルに足りない牛乳かヨーグルトが、揺れるポリ袋の端から覗いている。
サマーセーターと軽くてフラットな靴が、そろいの鮮やかな若草色、はっと頭が目覚めた。
お変わりないようですね。


花まる先生/転移

2013-09-29 06:24:56 | 日記
2013年9月29日(日)

眠い目で開く朝刊37面(教育)、けさの「花まる先生」は

江戸川区新堀小学校、石川大輔さん(35)・・・え?石川先生じゃん!

黒板の前で眼を丸くして児童に語りかける、写真の姿も間違いない。
数年前まで目黒区N小学校にいらした、算数得意の石川先生だ。
遠見にも目立つ190㎝近い長身、長男も次男も優しそうなのっぽ先生が大好きだった。

当時新任でいらしたが、経験を積んで今や少壮、働き盛りだね。
「割った余りで順番ピタリ」
「ネコは4の倍数?じゃ、余りは?」
何だろう、夢中で記事を追っていたらラジオ体操の時間が過ぎてしまった。

偉いぞ、先生ガンバレ!
http://www.asahi.com/edu/student/teacher/ (早く動画がアップされないかな・・・)

*****

>  以前に先生に、相手に自分の家族などを重ねる広義の転移が映画の中で行われている例としてこの「12人の怒れる男」の話をしたと思うのですが、覚えておいででしょうか?

ご、ごめんなさい、勝沼さん。そういえばそういうことがありました。
というか、そんな刺激があったからこの時に見てみたくなったのでしょう。

転移、そうですね、「他に向けるべき感情を別の人間に投げかける」ことが転移だとすれば、最後まで有罪を主張する男性の息子に対するコンプレックス(父に対するコンプレックスでもありました)は、転移の好例でした。自覚されない転移の恐ろしさの好例と言ってもよかったでしょう。

> 裁判を終えて部屋を出た二人の陪審員がお互いの名前を名乗り自己紹介をする。自分をさらけ出して議論を戦わせた人達がお互いの名前さえ知らなかったというラストが印象に残りました。

同感です。
そして自己紹介して握手を交わすと、そのままそれぞれの方角へ歩き去ったのでしたね。

「お互いの名前さえ知らない状況で自分をさらけ出す」という設定は、alcoholics anonymous(匿名断酒会)を想起させます。
そんなことあるのかと言われそうですが、アメリカの社会では日常的にあることでしょう。そして陪審員のひとり、ドイツ系移民と思われる時計修理工が誇らしく語る通り、ここにアメリカの力の源があるように思います。植民者たちは、そのようにしてゼロから社会を作りだしてきたのですから。
アメリカ嫌いの石丸ですけれど、これには素直に脱帽します。
名まえや背景に依らず、言語化された主張そのものをぶつけ合うことの素晴らしさです。

>  実はこの映画のパロディが日本でつくられているのはご存知でしょうか?タイトルは「12人の優しい日本人」。監督はあの三谷幸喜です。原作よりも議論下手で何となくあいまいでフィーリングとか言い出したりと、日本人っぽさが出ていて原作に匹敵するすばらしい映画です(レビューにはネタバレが含まれています)。
http://booklog.jp/users/you321/archives/1/B006OSR4AG
 先生の記事を読んで思ったのですが、「12人の優しい日本人」は原作に比べてタイトルどおり優しくてちょっと暖かい感じになっていて、そこに裁ききれないならば裁ききれなくていいんじゃないかというメッセージもあるように思いました。裁ききれないことを覚悟して裁くということかもしれません。
 裁判員に当選した人はこの二本の映画を見て臨んでほしいです。

僕ら全員、潜在的には当選の可能性があるわけですからね。
「三谷幸喜?やめときます」とは言いません、近々ぜひ見てみます。

*****

電車内「携帯オフ」再検討も、とYAHOOトピックスの見出し。
再検討って、「あらためてオフを推進する」という意味かと思ったら、「もはやオフにする必要はないだろう」という話だった。
ペースメーカーに悪影響がないというならそれは構わないけれど、スマホの普及で乗客のモラルが顕著に低下してることはどうしたもんだろう。

「使う人間の心がけの問題であって、道具の責任ではない」というのは、銃規制問題で保守的なアメリカ人が言うことと同じだね。
そこにはアメリカの弱点が見事に表れているんだが、反転してこの件には日本人の弱点が鮮やかに露呈する。

昔から日本人は見て見ぬふりだったと、パオロ・マッツァリーノ氏がお怒りだ。
「昔の大人は強かった」というのは、なるほどギリシアなどの「黄金時代」論と通底する願望投影かもしれない。

転移の並行現象ですね、きっと。

読書メモ 015 『人が人を裁くということ』 (付記: 裁判員ASD事件)

2013-09-28 09:40:05 | 日記
2013年9月27日(金)

固い本だって読むんだよ、というところで。

しかしこれも患者さんの推薦にかかる一冊。
某大学で政治学の助教を勤めていた人(Pさんと呼んでおく)が2週間ごとに薬を取りに来て、ついでにいろんな話をしていってくれる。その中で言及されたものである。

小坂井敏晶 『人が人を裁くということ』(岩波新書 2011年)

著者はちょうど僕ぐらいの年回りで、ずっとフランスで社会心理学研究を続けているらしい。
パリ第8大学の准教授とあり、足跡に興味を引かれる。

著作は三部立て、タイトルはそれぞれ、Ⅰ.裁判員制度をめぐる誤解 Ⅱ.秩序維持装置の解剖学 Ⅲ.原罪としての裁き。

Ⅰ、Ⅱは文句なくタメになる。
Ⅰ部は以前にちょっと書いたかな、陪審制や参審制など、司法過程への市民参加が生まれてきた歴史的背景が解説され、あわせて「陪審制では素人の感情論によって極刑が宣告されやすくなる」といった指摘が事実に反すること(実際はどこの国でも極刑が宣告されにくくなる)や、司法における「真実」の意味などが論じられ、勉強になる。
読んでいる途中でふと気になり、『十二人の怒れる男』を借りてきて見た。1954年制作、ヘンリー・フォンダ主演のアメリカ映画。これも見て損はない。
映画の中で innocent と not guilty が微妙に ~ 脚本の立場からは周到に ~ 使い分けられているのが印象的である。前者は「潔白(=容疑者は犯罪を行っていない)」、後者は「無罪(=容疑者が犯罪を行ったとは断定できない」で、意味がはっきり違うことを誰でも頭では理解するが、これほど混乱しやすい理解もないであろう。

Ⅱ部はさらに衝撃的だ。要は冤罪というものがどれほど多く、どれほど起きやすく、またいかに不可避であるかを事実に即して説いたもので、この部分だけでも必読としたい。
目撃証言が根拠薄弱であるのは人の認知から来る生理学的な宿命であることが、実験証拠から雄弁に示される。さらに、警察・検察の取り調べ過程の自白誘導がどれほど強力かつ一般的であるか、決して断じて日本だけではない、著者の居住するフランスなどはヨーロッパでも最悪に近く、人権宣言発祥の地としての栄誉を損なうこと夥しい。そして悪辣な人権侵害は悪意から生じるのでなく、権力をまとった正義の過剰な自負から生まれることが明らかに読みとれる。
冤罪は医学でいえば overdiagnosis(過剰診断)にあたるが、診断の(=犯罪者摘発の)感度を挙げようとする時に必然的に随伴する「副作用」であって、冤罪をゼロにしようと思えば犯罪者の摘発を断念する他はない。そこに「人が人を裁くこと」をめぐる最も根本的なパラドックスがあることも、重々よくわかった。

「人は罪を犯さずには生きていけない」という命題は、「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きない」という人の性(さが)についてのみ正しいのではなくて、潔白の人間に罪を着せるというとんでもない副作用をもった司法制度を捨てては生きていけない、哀れな人間の限界についてこそ考えるべきことなのだ。

一カ所だけ抜き書きしておく。(よく見ると、日本語がちょっとヘンだ。)

 自白とともに、目撃証言は決定的影響を判決に与える。次の実験を参考にしよう。食料品店に強盗が入り、店主と娘が殺されたという物語を被験者に示す。三つの実験条件を比較した。
① 状況証拠だけの場合は、被験者の18%が有罪を認めた。
② 状況証拠に加えて、他の店員が殺害現場を目撃したと伝えると、72%が有罪を認めた。
③ 状況証拠と目撃証言を伝えた後に、しかし目撃者は近視であり、犯行時に眼鏡をしていなかったため、よく見えなかったはずだと補足説明した場合でも、被験者の68%は有罪だと判断した。
 目撃証言の影響力はとても強い。②と③にほとんど違いがないように、目撃者があるといったん信じると、その後に証言の信憑性が否定されても、判断は容易に変わらない。
(P.112)

*****

ところが、ですね。
筆者の明快な書きっぷりが、Ⅲ部に入ると豹変するのだ。

要約すれば、「人は自由な意志によって自らの行動を決定する」という基本的なモデルに対する疑問を、最新の大脳生理学の成果を紹介しつつ展開している。
人は自身の意志で選びとった決断に関して責任をとるわけで、責任のないところに刑罰も成立しない。知的障害や精神障害のために自分の行動に責任をもつ能力を欠くと判断される場合、その程度に応じて刑が減免されるのは周知の通り。
しかし筆者は「健常人であれば自分の行動を自ら主体的に決定しているというのは、迷妄にすぎない」と主張しているようで、これを敷衍すれば「人は人を裁きえない」ということにもつながる。

これ自体は考えるべき主張だし、それにさほど新しくない問題のはずである。
落ちこぼれ法学部生であった僕にも、刑法総論の中でこのテーマが紹介された記憶の痕跡が残っている。いっぽうでマルクス主義、他方で精神分析理論は、「意志の自律・自由」に疑いの刃を突きつける強力な論拠だった。
いま、大脳生理学を援用してこれを再論するのはちっとも構わないのだが、問題は筆者がこの古くて新しい問題に対してどういう考えを持ち、どういう判断をしてるかが、読んでもまったくわからないことなんですよ。
んじゃ結局、どうしろというわけですか?
「そこは自分で考えてください」と潔くオープンに終える風でもないんだな。

こっちの読み方が悪いのかと首をひねるのだが、どうもよくわからない。
「原罪としての裁き」という小見出しも意味不明で、このタイトルを見るまでもなく上述のように「人の罪」について考えさせられたⅡ部までの明晰さが、Ⅲ部ではまるっきりの混沌に場を譲ってうやむやに消えている。
問題を出し散らかしたままで、お片づけをしていないのだ。

昨日またPさんがやってきたので印象を正直に話したら、彼ニヤリと笑って満足そうに頷いた。

「犯罪をおかすのも自由意志ではなく、脳の生理過程の後追いだというなら、『この本は誰が書いたの?あなたはどこにいるの?』ってことなんですよね。」

おっしゃる通り。
そうと知っててこの本を勧めたわけ?
悪い患者だな~

*****

9月26日(木)のニュースで、裁判員をつとめた福島県の女性が、資料として残酷な画像(?)を見せられたために急性ストレス障害に陥ったとして、国を提訴していることが報じられた。

情報不足でさしあたり何も言うことができないが、重要な問題と思われるので記録に留めておく。