2020年2月26日(水)
マスクはいわゆる咳エチケットに資するもので、被感染の予防にはほとんど役立たない。それなら外気に触れた方がよほど健康によい理屈だから、咳が出ない限りマスクは装用しない派で通してきたが、別の意味で路線修正した方がよさそうである。
マスクをしない人間に対する装用派の視線が日増しに厳しく、うっかり花粉症のクシャミでもしようものなら非常停止ボタンを押されかねない。明日はマスクをして出よう・・・家にまだあったかな?
2.26、今年はこの日が灰の水曜日にあたった。24日(月)に小講演、昨25日(火)で今年度の放送教材の収録を終え、今日はありがたくも代休である。「疲れ」というものの実態だか本質だかは、いったい何なのだろう。疲労物質というものがあるのか、心身の状態とみるほかないのか。粒子説と波動説みたいだが、ここに相補性原理は存在するかしらん。何しろこの数ヶ月、見方によっては一年半近くのツケを、身体が取り立てに来ているらしい。借金取りぐらい怖いものはない。
録画してあった囲碁対局、ついでにその後の講談を見る。神田陽子「応挙の幽霊画」、学ぶところが三つあった。
一、 講談師は今では過半が女性である。
二、 円山応挙は幽霊画を頻りに描いた。
三、 「死後は無であると思っていたが誤りであった。娘御はこのように霊となって死後に孝養を尽くしたのだ」という応挙の言葉。(実際に応挙がこう語ったかどうかはこの際不問)
講談は落語同様「話芸」であって、それ自体が深い思想を伝えるものではないとしても、こうした話芸に親しむことで往時の庶民が歴史や伝承に触れ、楽しんだり考えたりする素材を得たことは間違いない。
ところで応挙の幽霊画は凄いな・・・
円山応挙「返魂香之図(はんごんこうのず)」
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これも久しぶりにゆっくり新聞を眺めていたら、これが案外おもしろい。耕論のページが「「パラサイト」のリアル」と題してホットである。
「格差社会をテーマにしながら「家族」を描いている。その家族像があまりに古いのです」(ハン・トンヒョン氏)と、これは件の映画の話か。
紙面下の別コーナーでは、編集委員氏(いずれも女史と書きたいのだが、ホイッスルが鳴りそう)が現首相の「ウイルスの政治利用」を痛撃している。
決定打がその前のページの投書欄、投書者は14万円の月給で一人暮らししている28歳の男性で、むろん楽ではないがカメラを趣味とし、欲しいレンズを買うためなら節約は全く苦ではないというしっかりした御仁。そのポイントは:
「昇給の見込みは微々たるもの。だから、結婚して家庭を築こうとは思わない。「可哀想な若者だ」と思う人もいるだろう。だが私には家庭も、たばこやお酒同様の嗜好品に思える。金銭に余裕がある人がつくれば良い。私は自由に生き、自立していることに満足している。社会への不満もない。」
「お正月、親戚に「良い仕事に転職を」「結婚はした方がいい」とアドバイスをいただいた。私は間違っているのだろうか?」
「家庭も嗜好品」・・・これには唸った、なるほどねぇ。
僕にとっては家庭は必需品であって嗜好品ではないが、それはまさしく「人それぞれ」の問題で、彼が間違っていると断ずる根拠も資格も僕にはない。もしもこの人が家庭を必需品と感じていながら、金銭的な理由でそれを営めないのだとしたら、援助も改革も必要になるが、そもそも必要を感じないとしたら話は根本的に違ってくる。
などとあっさり感心している僕とは違い、5件のレスポンスのうち4件までは何かしら疑義を ~ 投書者の自立の姿勢には敬意を表しながら、その諦めの良すぎることについて、あるいは人の考えや嗜好は変わり得ることについて、穏当な忠告を返している。これまたなるほどである。読み返してみれば、「昇給の見込みは微々たるものだから結婚しようとは思わない」が主文であって、「家庭は嗜好品」はこれを合理化する副次的な理由のようにも読める。
ここから学んだ/確認したことが、また三つ。
一、 若い人々の地味な貧困が、家庭形成への意欲を著しく殺いでいる。
二、 「家庭は嗜好品」と考えて、人生の選択肢から外すというやり方がある。
三、 一から生じるはずの政治・社会的軋轢を二が緩和しており、そのことから利益を得る者が当事者とは別に存在する。
さしあたりここまでにしておこう。
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