北海道新聞 01/01 07:49 更新

登別出身で明治、大正期のアイヌ文化伝承者、知里幸恵(1903~22年)が2022年9月、没後100年を迎える。今年は知里幸恵をテーマにした新作映画の撮影が本格化するほか、「知里幸恵 銀のしずく記念館」(金崎重彌館長)=登別市登別本町2=は記念行事を計画。著作の多言語公開も進み、20言語以上になる見通しだ。近年は関連書籍の出版も多く、幸恵の生き方に触れる機会も増えている。22年は知里幸恵の功績があらためて脚光を浴びる年になりそうだ。
知里幸恵が祖先や同胞への思いをつづった「アイヌ神謡集」の「序」は多言語での翻訳が急ピッチで進み、既に24言語にのぼっている。銀のしずく記念館ホームページではアイヌ語やフランス語など19言語による「序」を掲載。22年はさらに言語を増やして紹介する見通しだ。記念館では9月、ノンフィクションライターの石村博子さんが幸恵に関する講演を行う。
上川管内東川町は、幸恵をモデルにした映画「カムイのなげき(仮)」を企画。札幌出身の映画監督菅原浩志さんが7月から撮影に入り、23年公開を目指す。
近年、知里幸恵に関する書籍の出版も増えている。「知里幸恵物語 アイヌの『物語』を命がけで伝えた人」は生涯を紹介するノンフィクション。銀のしずく記念館監修の学習まんが「知里幸恵とアイヌ」は子供たちも親しみやすい。「銀のしずく降る降る―知里幸恵『アイヌ神謡集』より」は童話にまとめている。(高木乃梨子)
■銀のしずく記念館・金崎金崎重彌(しげや)館長寄稿
知里幸恵は「今を生きる女性」として19歳3カ月の生涯を終えた。登別で1903年(明治36年)に生まれ、今年は没後100年、来年は生誕120年を迎える。北大教授だった知里真志保(09~61年)の姉としても知られる。
アイヌ民族は明治政府の同化政策により、生活の糧を奪われ、貧しかった。差別は日常的でアイヌ語も誇りも奪われた。
幸恵も弟高央(たかなか)が生まれると、貧しさから4歳で両親と別れ、幌別(登別市)で祖母と暮らした。その後、育ての親となる伯母を頼り旭川の近文に移住。尋常小学校に入学するが、すぐに新設されたアイヌ民族の子どもたちだけが通う尋常小学校に移された。卒業後、旭川高等女学校を受験するが不合格。翌年、旭川区立女子職業学校に進学したが友達はできず、「あなたが来るところではない」と言われた。幸恵はそんな時代を生き、切り開いた。
幸恵は「私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサム(和人)のやうなところがある?!(中略)アイヌだからそれで人間ではないという事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ」と日記に書いている。「アイヌ宣言」だ。
22年(大正11年)9月14日、両親にあてた最後の手紙には「私にしか出来ないある大きな使命を与えられていることを痛切に感じました。それは愛する同胞が過去幾千年の間に残し伝えた文芸を書き残すことです」「おひざもとへかえります」と記した。この直後の同月18日、「アイヌ神謡集」の校正を終え、短い生涯を終える。
「アイヌ神謡集」は翌年23年(同12年)に出版され、今も岩波文庫で読めるロングセラーになっている。学校の教材としても取り上げられ、幸恵の生き方は大きな励ましを与えている。英語やフランス語、ロシア語など神謡集の多言語への翻訳も進んでいる。
幸恵が祖先や同胞への思いをつづった神謡集の「序」を声に出して読むと力が湧いてくる。100年前に幸恵が願っていたことは、先住民の権利として現在、世界に認められるようになった。ただ、今なお苦境は続いている。
白老にアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」が誕生し、アイヌ民族への関心が高まった。「ウポポイの後、『知里幸恵 銀のしずく記念館』(登別)にも来て良かった」という感想も多い。記念館ができた時、「民間の力で何年持つのか」と心配されたが、幸恵を大切に思う人たちの支援で13年目を迎える。これまでの取り組みに対し、室蘭民報社の「室民まち・ひと活力大賞」、北海道新聞社などと共同通信社の「地域再生大賞」優秀賞を受け、励みに感じている。若い人への継承が今後の課題だ。
多くの人に記念館に足を運んでもらい、幸恵について学んでもらいたい。(知里幸恵 銀のしずく記念館館長・金崎重彌)
※「シサム」の「ム」は小さい字
■アイヌ神謡を初めて文字に 知里幸恵とは
知里幸恵は、1903年(明治36年)に登別本町2の登別川沿いで父高吉と母ナミの長女として生まれた。4歳で幌別に住む祖母モナシノウクと同居し、6歳で旭川に移り住むまでを登別市内で過ごした。この登別時代にアイヌ語の基礎を身に付けたとされる。
旭川では日本聖公会の布教活動をしていた伯母でユーカラ記録者の金成マツと3人で生活。14歳から旭川区立女子職業学校に通うが、アイヌ民族であるがゆえに孤独に苦しんだ。15歳の時、アイヌ語を研究していた言語学者金田一京助(1882~1971年)と出会う。金田一に文才を見いだされ、神謡の筆記を始めた。独自のローマ字で表記、日本語訳をつけた「アイヌ神謡集」はアイヌ民族自身による初の神謡の文字記録となった。
22年(大正11年)5月、アイヌ神謡集の出版作業のため上京するが、心臓病のため、同年9月18日に19年の短い生涯を閉じた。死去の直前に書いた手紙には、一生を登別で暮らし、先祖の語り伝えた文芸を書き残すことを決意した内容が盛り込まれている。
幸恵は当初、金田一氏により東京都内の雑司ケ谷霊園に葬られたが、75年に故郷・登別に墓が移され、現在は登別市の富浦墓地に埋葬されている。登別市内にはほかに幸恵の弟でアイヌ語言語学者の知里真志保の碑もある。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/629243

登別出身で明治、大正期のアイヌ文化伝承者、知里幸恵(1903~22年)が2022年9月、没後100年を迎える。今年は知里幸恵をテーマにした新作映画の撮影が本格化するほか、「知里幸恵 銀のしずく記念館」(金崎重彌館長)=登別市登別本町2=は記念行事を計画。著作の多言語公開も進み、20言語以上になる見通しだ。近年は関連書籍の出版も多く、幸恵の生き方に触れる機会も増えている。22年は知里幸恵の功績があらためて脚光を浴びる年になりそうだ。
知里幸恵が祖先や同胞への思いをつづった「アイヌ神謡集」の「序」は多言語での翻訳が急ピッチで進み、既に24言語にのぼっている。銀のしずく記念館ホームページではアイヌ語やフランス語など19言語による「序」を掲載。22年はさらに言語を増やして紹介する見通しだ。記念館では9月、ノンフィクションライターの石村博子さんが幸恵に関する講演を行う。
上川管内東川町は、幸恵をモデルにした映画「カムイのなげき(仮)」を企画。札幌出身の映画監督菅原浩志さんが7月から撮影に入り、23年公開を目指す。
近年、知里幸恵に関する書籍の出版も増えている。「知里幸恵物語 アイヌの『物語』を命がけで伝えた人」は生涯を紹介するノンフィクション。銀のしずく記念館監修の学習まんが「知里幸恵とアイヌ」は子供たちも親しみやすい。「銀のしずく降る降る―知里幸恵『アイヌ神謡集』より」は童話にまとめている。(高木乃梨子)
■銀のしずく記念館・金崎金崎重彌(しげや)館長寄稿
知里幸恵は「今を生きる女性」として19歳3カ月の生涯を終えた。登別で1903年(明治36年)に生まれ、今年は没後100年、来年は生誕120年を迎える。北大教授だった知里真志保(09~61年)の姉としても知られる。
アイヌ民族は明治政府の同化政策により、生活の糧を奪われ、貧しかった。差別は日常的でアイヌ語も誇りも奪われた。
幸恵も弟高央(たかなか)が生まれると、貧しさから4歳で両親と別れ、幌別(登別市)で祖母と暮らした。その後、育ての親となる伯母を頼り旭川の近文に移住。尋常小学校に入学するが、すぐに新設されたアイヌ民族の子どもたちだけが通う尋常小学校に移された。卒業後、旭川高等女学校を受験するが不合格。翌年、旭川区立女子職業学校に進学したが友達はできず、「あなたが来るところではない」と言われた。幸恵はそんな時代を生き、切り開いた。
幸恵は「私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサム(和人)のやうなところがある?!(中略)アイヌだからそれで人間ではないという事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ」と日記に書いている。「アイヌ宣言」だ。
22年(大正11年)9月14日、両親にあてた最後の手紙には「私にしか出来ないある大きな使命を与えられていることを痛切に感じました。それは愛する同胞が過去幾千年の間に残し伝えた文芸を書き残すことです」「おひざもとへかえります」と記した。この直後の同月18日、「アイヌ神謡集」の校正を終え、短い生涯を終える。
「アイヌ神謡集」は翌年23年(同12年)に出版され、今も岩波文庫で読めるロングセラーになっている。学校の教材としても取り上げられ、幸恵の生き方は大きな励ましを与えている。英語やフランス語、ロシア語など神謡集の多言語への翻訳も進んでいる。
幸恵が祖先や同胞への思いをつづった神謡集の「序」を声に出して読むと力が湧いてくる。100年前に幸恵が願っていたことは、先住民の権利として現在、世界に認められるようになった。ただ、今なお苦境は続いている。
白老にアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」が誕生し、アイヌ民族への関心が高まった。「ウポポイの後、『知里幸恵 銀のしずく記念館』(登別)にも来て良かった」という感想も多い。記念館ができた時、「民間の力で何年持つのか」と心配されたが、幸恵を大切に思う人たちの支援で13年目を迎える。これまでの取り組みに対し、室蘭民報社の「室民まち・ひと活力大賞」、北海道新聞社などと共同通信社の「地域再生大賞」優秀賞を受け、励みに感じている。若い人への継承が今後の課題だ。
多くの人に記念館に足を運んでもらい、幸恵について学んでもらいたい。(知里幸恵 銀のしずく記念館館長・金崎重彌)
※「シサム」の「ム」は小さい字
■アイヌ神謡を初めて文字に 知里幸恵とは
知里幸恵は、1903年(明治36年)に登別本町2の登別川沿いで父高吉と母ナミの長女として生まれた。4歳で幌別に住む祖母モナシノウクと同居し、6歳で旭川に移り住むまでを登別市内で過ごした。この登別時代にアイヌ語の基礎を身に付けたとされる。
旭川では日本聖公会の布教活動をしていた伯母でユーカラ記録者の金成マツと3人で生活。14歳から旭川区立女子職業学校に通うが、アイヌ民族であるがゆえに孤独に苦しんだ。15歳の時、アイヌ語を研究していた言語学者金田一京助(1882~1971年)と出会う。金田一に文才を見いだされ、神謡の筆記を始めた。独自のローマ字で表記、日本語訳をつけた「アイヌ神謡集」はアイヌ民族自身による初の神謡の文字記録となった。
22年(大正11年)5月、アイヌ神謡集の出版作業のため上京するが、心臓病のため、同年9月18日に19年の短い生涯を閉じた。死去の直前に書いた手紙には、一生を登別で暮らし、先祖の語り伝えた文芸を書き残すことを決意した内容が盛り込まれている。
幸恵は当初、金田一氏により東京都内の雑司ケ谷霊園に葬られたが、75年に故郷・登別に墓が移され、現在は登別市の富浦墓地に埋葬されている。登別市内にはほかに幸恵の弟でアイヌ語言語学者の知里真志保の碑もある。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/629243