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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

節目の旭川 記念行事続々 市制施行、三浦綾子さん生誕100年 買物公園50年

2022-01-04 | アイヌ民族関連
北海道新聞 01/04 05:00
 今年は旭川市制施行100年をはじめ、市内の施設やゆかりのある人物にとって節目の年となる。平和通買物公園は50周年、旭川生まれの小説家三浦綾子さんは生誕100年を迎える。市をはじめ関係者らはそれぞれが多彩な記念イベントを検討しており、旭川の歩みを振り返りつつ将来を展望する機会が多い1年となりそうだ。
 旭川市制施行は1922年(大正11年)8月1日で、当時の札幌や函館とともに道内初の市となった。同日は「旭川市民の日」と制定する方向で検討中で、市の施設の無料開放などを計画。昨年8月に実行委員会準備会を立ち上げ、記念式典などの準備に着手しており、夏まつりや食べマルシェなどに「100年」を冠するほか、独自イベントも調整している。
 72年6月1日にオープンした買物公園は、商店主らが同公園の歩みをまとめた冊子やネットで発信する準備を昨年から進めており、関連イベントも行う。旭川のシンボルでもある旭橋は11月に90年となり、市民グループ「旭橋を語る会」は旭橋の歴史を学ぶ講演会などを計画している。
 三浦綾子記念文学館はすでに2020年から文庫本カバーなど記念商品を発売し、21年には復刊シリーズの流通を全国の書店で始めた。少女時代を旭川で過ごしたアイヌ文化伝承者の知里幸恵さんは没後100年で、札幌出身の映画監督菅原浩志さんが23年秋の公開を目指して映画製作に取り組む。
 ほかにも、市中心部の衣料品店「丸善三番舘」(3の15)は創業90年、オーストリアの軍人レルヒ中佐が道内で初めて旧日本陸軍第7師団にスキーを指導してから110年、共成製菓の「旭豆(あさひまめ)」の製造から120年などの節目もある。ただ、いずれの関係者も「現時点では例年にない取り組みは予定していない」という。(村田亮)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/629731

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御所の水平社博物館 リニューアルで展示の幅を拡大へ

2022-01-04 | アイヌ民族関連
NHK 01月03日 16時49分
部落差別の歴史などが展示されている奈良県御所市の水平社博物館は、全国水平社が設立100年を迎えることし、リニューアルして、アイヌ民族や性的マイノリティーの問題など展示の幅を広げることになりました。
奈良県御所市の水平社博物館は、全国水平社が、ことし、設立から100年を迎えるのを機に展示内容を一新するリニューアルを行うことになりました。
具体的には、部落差別だけでなく、アイヌ民族が直面する問題や、女性の人権、それにLGBTQといった性的マイノリティーといった様々な人権問題を扱うことにしています。
また、若い世代へのアプローチを強化するため、関連の漫画や絵本などの展示も増やすということです。
水平社博物館の駒井忠之館長は「水平社の理念は人間の尊厳をみんなで実現していこうと設立されました。リニューアルによって、若い人たちに、もっと人権を大切にしていこうという意識を共有していければいいと思っています」と話していました。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/20220103/2050009332.html

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【レビュー】北海道八雲町に入植した旧尾張藩士やその末裔が始めた熊彫を紹介する「木彫り熊展」 名古屋大学博物館

2022-01-04 | アイヌ民族関連
美術展ナビ 2022.01.02
這(は)い熊  制作者:八雲農民美術研究会会員 制作年:大正末~昭和初期
モダンなインテリアにも映える置物として、木彫り熊がブームだという。かつて、北海道土産といえば木彫りの熊だった時代がある。サケをくわえた漆黒のヒグマ像を思い出す人も多いだろう。「アイヌの民芸品」とうたわれたことも人気の理由だった。しかし、北海道で最初に木で熊を彫り始めたのは、函館から北へ約70㌔、八雲町の農民たちだった。いつから、どうして、そしてどんな熊を彫ったのか。この展示会にはその答えがある。
展覧会名:企画展「木彫り熊展―木彫り熊 北海道八雲町と尾張徳川家の関わり―」
会場:名古屋大学博物館3階展示室 (名古屋市千種区不老町)
会期:2021年11月30日(火)~2022年2月26日(土)
休館日:毎週日・月曜日
アクセス:地下鉄名城線「名古屋大学」駅下車、2番出口すぐ
入館料:無料
主催:名古屋大学博物館・八雲町教育委員会
詳しくは名古屋大学博物館ホームページ(http://www.num.nagoya-u.ac.jp)
全国へ広がった木彫り熊
会場に入ると、展示台に並べられた木彫り熊が目に入る。「北海道から日本各地に持ち帰られた木彫り熊」だという。サケをくわえた熊もあった。「これだ!」と思わず声が出た。我が家でも一時期、父が北海道で買ったというこの熊が床の間に置かれていた。「アイヌの民芸品」と聞かされた記憶がある。
しかし、今回の企画展を担当した名古屋大学博物館・情報学研究科の新美倫子准教授は「これはメインの展示じゃありません。まずはみなさんの中にある木彫り熊イメージを確かめるためなのです」という。つまり、新美准教授の実家や知人、同僚などから集めた「北海道土産」の熊なのだ。南は沖縄から寄せられた熊もあった。
木彫り熊第1号は八雲町
確かに昭和30年代の北海道観光ブームでもてはやされたのは、旭川を中心とした「アイヌの木彫り熊」で、八雲町の名は出てこない。しかし、記録をさかのぼると、旭川アイヌの木彫り熊の始まりは1926年(大正15年/昭和元年)。これに対し、八雲町ではわずかに先行し、酪農家の伊藤政雄が1924年(大正13年)に開催の農村美術工芸品評会に出品した木彫り熊が、北海道木彫り熊の第1号とされている。
、第1号の展示はないが、つぶらな瞳の「這い熊」は、ほぼ同時期の作品で、10㌢ほどの体長も姿形もそっくりだ。いずれも尾張徳川家19代当主の徳川義親が西欧視察旅行中(1921~22年)にスイスで買い求めた木彫りの熊がモデルとなった。
旧尾張藩士たちの入植
なぜ尾張徳川家が出てくるのか。展示では八雲町誕生物語を紹介し、尾張徳川家とのゆかりを説明している。
神棚の中に納められているのは幕末期に活躍した尾張徳川家第17代当主の徳川慶勝の写真だ。明治天皇の命令で1879年(明治12年)に編集・制作された「人物写真帖」の写真と同じだから、何らかの経緯で貴重な写真を入手し、自宅でまつったのだろう。この時、慶勝は57歳。
実は明治維新や廃藩置県で職を失った旧尾張藩士を救済するため、慶勝は北海道への移住を計画し、太平洋に面するユーラップ川流域の広大な原野の払い下げを受けた。旧藩士やその家族たちの第1陣が現地入りしたのは、「写真帖」制作の前年。古事記にあるスサノオノミコトが詠んだ和歌にちなんで「八雲」という地名を付けたのも慶勝だ。
八雲町には尾張徳川家が経営する徳川農場があった。19代当主の徳川義親はたびたび農場を訪れ、旧藩士やその子孫の農民たちと交流しており、彼らの貧しく、潤いの少ない暮らしぶりを知っていた。このため、農閑期の副業になるとともに趣味を楽しむ豊かな生活を送れるようにと、スイスをモデルに熊の木彫りを勧めたのだ。
八雲ブランドの熊たち
1928年(昭和3年)に「八雲農民美術研究会」が結成され、木彫りの講習会も始まった。徳川農場では檻(おり)に熊を飼って、造形の参考にさせた。八雲独自の木彫り熊を創り出そうと努めたのだ。まさにペザントアート(農村美術運動)だった。
こうして八雲の木彫り熊の特徴として、毛の流れを精密に彫りこんだ毛彫りやカットした面で造形する面彫りが登場し、バット熊、スキー熊など親しみがわく擬人化も目立った。
当初は徳川農場が買い上げ、優れた作品は徳川義親が宮家や著名人への贈り物にした。このようなバックアップもあって、戦前は木彫り熊といえば八雲というイメージが確立されたのだという。
ちなみに柳宗悦が初めて「民藝(みんげい)」の言葉を用いたのは1925年(大正14年)、民藝運動の活動母体となった日本民藝協会の設立は1934年(昭和9年)である。
こちらのスキー熊は戦後に活躍し、木彫り熊講座の講師も務めた上村信光の作品で、擬人化の伝統を引き継いでいる一例だ。
こちらも戦後の擬人化熊の一例。北海道名物のヒグマとサケを組み合わせた時、八雲ではサケを背負う姿にたどりつき、北海道土産の定番となったサケをくわえた熊には向かわなかったことは興味深い。
木取り(丸太の使い方)も八雲と他の地域では違った。八雲はスイス式、他の地域はアイヌが木から儀礼用具を作る際の伝統にならったスタイルという。八雲式では全長の長い熊を彫るには大木が必要になっただろう。
木彫り熊のレジェンドたち
戦争が激しくなると、観光どころではなく、木彫り熊は売れなくなった。それでも彫り続けたのが茂木多喜治だった。「非国民」と非難されたこともあったという。
「熊をモチーフにした芸術家」と呼ばれたのが、戦後、木彫りを再開した柴崎重行だ。手斧で荒々しくはつって(削って)作りあげたフォルムは、次第に抽象性を増していった。まるで江戸時代初期に全国を遍歴し、無数の木仏を刻んだ円空のようでもある。
盟友・柴崎重行とともに木彫り熊の芸術性を高めたのが根本勲。より単純化された面で構成された独特のフォルムが魅力的だ。
うなり声が耳をつんざきそうな迫力がある。引間二郎は交通事故で障害を負い、農業をあきらめて熊彫制作者に転身した。柴崎や根本に続く世代。彼らに学びながら、具象熊、抽象熊ともに手がけた。
3体とも加藤貞夫の作品。面彫りされた中央の座熊には、どことなく知性がにじむところが、博物館のポスターにふさわしかったのだろう。茂木多喜治の工房に通って彫り方を学び、具象も抽象もこなした。
未来につなぐ
右の這い熊も、左の吠え熊も、76歳から独学で彫り始めた鈴木吉次の作品。全体のフォルムも毛彫りのタッチも従来とは異なっていてユニークだ。
2014年、八雲町木彫り熊資料館がオープンした。同町発祥の木彫り熊の歴史を伝えていくことが目的だ。今回、紹介した木彫り熊と神棚は、新美准教授が集めた熊を除けば、同資料館の収蔵品。
ただ、同資料館学芸員の大谷茂之さんによると、現在、木彫り熊を制作し、販売までしているプロはいない。1971年から続く公民館の木彫り熊講座も、現在の講師は87歳。伝統の技を継承し、次の講師を育成することが喫緊の課題だという。
ヒグマとツキノワグマの骨格比較
最後に博物館ならではの展示で、左がヒグマ、右がツキノワグマの後ろ足(左)の骨格。ヒグマのオスは体長約2㍍、体重約400㌔、ツキノワグマのオスは体長約1・4㍍、体重約100㌔というから、骨の長さ、太さも大きく違っていることがわかる。
(読売新聞中部支社編集センター 千田龍彦)
https://artexhibition.jp/topics/news/20220102-AEJ625770/

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傑出した「外国籍高級専業人材」6人が中華民国に帰化、16年12月から計217人に

2022-01-04 | アイヌ民族関連
TAIWAN TODAY 2022/01/03
内政部(日本の省レベル)が12月30日午前、「外国高級専業人材」の帰化申請に関する審査会を開き、ブロックチェーン、仮想現実(VR)、通信科学技術などの分野に通じる米国籍の史さん(詳しい氏名は公表されていない)など「高級専業人材」6人の帰化を認めた。2016年12月21日の改正「国籍法」の施行からこれまでに、台湾のため長期間貢献し、台湾を愛し、台湾を認める「外国高級専業人材」217人が従来の国籍を放棄することなく、中華民国に帰化したことになる。「外国高級専業人材」とは、「出入国及び移民法」の定める、「台湾が必要とするハイレベルな専門人材」のこと。
内政部によると、今回の審査に合格した「外国高級専業人材」は6人で、専門分野別では教育が3人、科学技術が2人、経済が1人。そのうち米国籍の史さんは33歳、台湾が推進する「六大核心戦略産業」の対象であるブロックチェーン、VR、プログラミング、その他各種の新興デジタル通信などの分野における経験と技術を身に着けている。内政部は、史さんの経歴と専門能力は台湾の未来のICT産業の発展を助けると期待している。
()、その他の「おおびき」は、米国の「おおびき」を「おおびき」を、その他の「おおびき」を使用
します。台湾ですでに19件の特許を取得しており、所属企業は技術的に他をリードする地位を手にしている。また経済部(日本の経済産業省に相当)の第一回「卓越中堅企業奨(賞)」に輝くなど、台湾の光産業(オプトエレクトロニクス)技術の向上に大きく貢献した。
・・こうした役職を外国人が務めるケースは少ない。専門は言語学で、とりわけ台湾の先住民族の一つ、ブヌン族の言語を深く研究してきた。戴さんはまた、学校の国際化に積極的に取り組んでおり、台湾の先住民族文化の保存と国際化のための重要な学者である。
https://jp.taiwantoday.tw/news.php?unit=148,149,150,151,152&post=213021

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学芸員とっておき秘話/1 松前町郷土資料館 「メードイン京都」今に /北海道

2022-01-04 | アイヌ民族関連
毎日新聞 2022/1/4 地方版 有料記事 1469文字
上方文化伝える水引幕、薙刀
 春にはソメイヨシノが開花し、道内で最も早く桜前線が到達する道南の松前町。かつては日本最北端の城下町で松前藩の政治・経済・文化の中心地だった。その街並みは繁栄を極めた江戸時代の薫りを漂わせる。
 松前藩は1604(慶長9)年、戦国大名の松前慶広が将軍徳川家康から「黒印状」を交付され、蝦夷(えぞ)地の領地権や交易の独占権を得て成立した。寒冷地のため当時はコメが収穫できず、石高のない唯一の藩だったが、財政はアイヌとの交易で得た品々やニシン漁による水産物などの商取引に支えられた。そして、本州との交易で活躍したのが、大阪を起点に瀬戸内海から日本海を経て松前を目指した「北前船」だった。
 郷土資料館(同町神明)には北前船が運んだ華やかな上方の“お宝”が詰まっている。「メードイン京都です」。学芸員の佐藤雄生さん(37)がガラスケースに展示された人形を指し示す。道有形民俗文化財に指定されている求福(ぐふく)山山車の尉(じょう)・姥(うば)人形と付属品だ。
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https://mainichi.jp/articles/20220104/ddl/k01/040/028000c

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