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少数民族ウイルタの歴史伝える学芸員 貴重な言語研究も 北海道

2022-01-08 | 先住民族関連
毎日新聞 2022/1/7 13:30(最終更新 1/7 22:44)

池上二良氏が残したノートやトナカイの皮で作った防寒帽など貴重なウイルタの資料=北海道網走市の道立北方民族博物館で2021年11月26日、本多竹志撮影
 第二次世界大戦後、樺太(現ロシア・サハリン)から北海道内に移住した少数先住民族ウイルタ。一時、10人程度が暮らしたとされる網走市にはその文化が今も残り、道立北方民族博物館は国内最多の関連資料を有する。同博物館学芸員の山田祥子さん(39)は、ウイルタの人々もほとんど話さなくなったというウイルタ語を専門に研究し、網走市民と暮らした歴史を今に伝え続ける。
 ウイルタ民族は、サハリンの北部と南部にそれぞれ拠点があり、夏は漁業を中心に生活し、冬はトナカイで移動しながら狩猟をして暮らしていた。かつては日本や欧州との交易も盛んだった。南部のウイルタ民族は日本の領有下で日本語教育を強要され、スパイ活動などで戦争に協力させられた。戦後、「引き揚げ」という形で道内に移り住んだ。
 同博物館には、ウイルタ語がびっしりと書き込まれたB5判のノート54冊が残る。2011年に91歳で亡くなった言語学者の池上二良・北海道大名誉教授が、移住してきたウイルタ民族から聞き取った内容を記したもので、ここにしかない貴重な資料だ。
 酷寒の地で欠かせないトナカイの毛皮で作られた防寒帽など、暮らしぶりを伝える資料もある。それらは、サハリンから移住したダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(日本名・北川源太郎)さん(1984年、60歳で死去)が網走市に開設し、2012年に閉館した北方民族資料館「ジャッカ・ドフニ(ウイルタ語で「宝の家」の意味)」に残っていたものだ。
 ロシア極東サハリン州ポロナイスク市(旧樺太)から10人ほどが移住したとされる網走市には、博物館の外にも影響が色濃く残る。市民サークル「フレップ会」は移住者の女性から学んだイルガ(文様)を伝承し続け、同市の観光大使「流氷パタラ」の衣装にその文様を刺しゅうしている。また、市内で催されるイベント「オロチョンの火祭り」は、移住した先住民族の伝統を再現したものだ。
 「日本社会の中で生きてきたウイルタの人々。網走市や北海道と縁が深いウイルタという民族の事実をぶれずに伝えて、少しでも知ってもらいたい」。学芸員になって約10年、山田さんは今も変わらぬ思いを抱き続ける。
 山田さんは北海道大で言語学を専攻し、ウイルタ語に出合った。教員から「卒業論文をウイルタ語で書いてみないか」と勧められ、発音しやすく、日本語と語順が似ていることなどから興味を持った。同大大学院に進むと、サハリン北部ノグリキでウイルタの人々と約1年を過ごし、「隣の友人」との感覚が強まったという。
 現在、ウイルタ民族の人口は300人程度で、ウイルタ語を使えるのは10人程度しかいないとされる。そんな中、ウイルタ語を専門に研究を続ける山田さんは、4年ぶりの企画展となる「ウイルタのモノとコトバ」の2月の開催に向け、準備に奔走している。
【本多竹志】
https://mainichi.jp/articles/20220107/k00/00m/040/055000c

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9日からアイヌ刺しゅう教室

2022-01-08 | アイヌ民族関連
十勝毎日新聞 2022/01/07 10:49
 帯広市は9日から5回にわたり、市生活館(柏林台東町2)で「アイヌ刺しゅう教室」を開く。参加無料。参加者を募集している。
 アイヌ文様の刺しゅうを施した布マスクを製作する。対象は小学5年生以上で、定員は各日先着10人。開催日は9、10、16、18、23日。時間はいずれも午前10時~午後4時。正午~午後1時は昼休憩。
 各開催日の直近の平日までに申し込む。申し込み、問...
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https://kachimai.jp/article/index.php?no=551271

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難読駅ランキングトップ10!東日本編1位は千葉県の「飯給駅」

2022-01-08 | アイヌ民族関連
CanCam.jp 1/7(金) 18:12配信
あなたの地元にもある? 難読駅ランキングトップ10! 東日本編1位は千葉県の「飯給駅」
地元や住んでいる街に「難読駅」ありますか? 普段何気なく読んでいても、よく見てみるとこの漢字でどうしてこう読むんだろう…? と疑問に思うことも。また、旅行先で読み方がわからなかったり、漢字は難しくないけれど読みかたが特殊でずっと言い間違えていた…なんてこともありますよね。
そこで株式会社ウェイブダッシュが東日本にある駅の難読駅を、クイズ形式(読めるor読めない)にし、生活ガイド.com会員で回答を募集。読めなかった場合には、その駅に1票が入れられ、読めなかった票が一番多い駅を1位とした「難読駅ランキング」をご紹介します!
「難読駅ランキング東日本編」トップ10
第5位:北海道(愛別町)「安足間駅」
読み方は「あんたろま」で、北海道旅客鉄道石北本線の駅です。アイヌ語の「アンタル・オマ・プ(淵のある場所)」が由来とされていて、石狩川の沢も近くにあります。
第4位:北海道(深川市)「北一已駅」
北海道旅客鉄道(JR北海道)の留萌本線の駅で、読み方は「きたいちやん」です。1955年に開業した「北一已駅」は、サケやマスが産卵する川底を意味するアイヌ語が由来とされており、以前は「きたいちゃん」駅という読み方だったそうです。
第3位:山形県(真室川町)「及位駅」
山形県真室川町にある東日本旅客鉄道(JR東日本)奥羽本線の駅です。読み方は「のぞき」で、1904年10月に開業しており、山形県と秋田県の県境付近に位置します。及位駅の名前の由来は所説ありますが、付近で行われていた山岳修行があり、険しい断崖で宙づりになって崖の横穴をのぞき込む修行に由来するというのが有力な説とされています。
第2位:岐阜県(飛騨市)「打保駅」
読み方は「うつぼ」で、東海旅客鉄道(JR東海)高山本線の駅です。高山駅管理の無人駅で、丸形の屋根の駅舎が特徴的です。また、高山本線で唯一構内の分岐器がスノーシェルターで覆われています。
1位:千葉県(市原市)「飯給駅」
飯給駅は小湊鐡道の駅で、「いたぶ」と読みます。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の蝦夷を鎮圧するためにこの地を通ったとき、住民から飯を献上されたところから名付けられたとされています。
飯給駅は、構内にある藤本壮介氏が設計した「世界一広いトイレ」が有名です。
このトイレは、柵に囲われた広い敷地の中に、ガラス張りのトイレがポツンとあるもの。正式名称は『Toilet in Nature』といい、自然を感じながら用を足せるようにデザインされたアート作品となっています。残念ながら女性用トイレのため男性は使用できないそうです。
東日本の難読駅、いくつ読めましたか?
東日本の難読駅TOP10、読めた駅や知っている駅はありましたか? 駅名や地名には知らないと読めないものも多いですが、その駅名になった由来も知ってみると面白いことがわかりましたね。気になる駅やお気に入りの駅があったら、ぜひその駅名の由来も調べてみてくださいね!
情報提供元/株式会社ウェイブダッシュ
https://news.yahoo.co.jp/articles/6bd10fd3ef348a1203ef4a4b07a2785724d9ce02

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江戸時代に由来する浅草・蔵前・両国・根津・吉原の地名

2022-01-08 | アイヌ民族関連
歴史人1/7(金) 11:00配信
今も江戸の香りを残す東京の浅草・蔵前・両国・根津・吉原。これらの地名にもちろん由来があり、長き歴史をもつその起源を本記事では紹介していく。
隅田川右岸から寛永寺・根津へ至る下町
 浅草・下谷(したや)エリアは現在では下町のイメージが強いが、当初は下町でも山の手でもない地域だった。江戸の拡大に伴い、新たに下町化したエリアと表現した方が正確だろう。主に平坦な地勢で、江戸湾や隅田川にも近いため低地が多かった。現在の行政単位では主に台東区となる。
 まずは現在の浅草にあたるエリアから見ていこう。
 隅田川右岸に拡がる浅草の地名は、草深い武蔵野のなかでは草深くなかったエリアだったことを語源とする説が有力ともいう。草深くない、つまり草が浅いということである。隅田川に近いため、もともと低湿地だったからだろう。そのほか、海を越すという意味を持つアイヌ語の「アツアクサ」、聖者のいる場所を意味するチベット語の「アーシャ・クシャ」に由来するなどの説がある。
 隅田川左岸に拡がる両国の地名は隅田川に架かる両国橋に由来する。明暦の大火後に隅田川右岸にあたる下町と、隅田川左岸の本所を結ぶ橋が架けられたが、当時本所は武蔵国ではなく下総国に含まれていた。武蔵・下総両国を結ぶ橋であったため、その名も両国橋となり、界隈のエリアが両国と呼ばれるようになった。その後、隅田川右岸側の両国は消え、左岸側の両国が地名として残り現在に至る。
 浅草の南にあたる蔵前(くらまえ)は隅田川右岸に拡がる町だが、江戸時代には幕府が全国から徴収した年貢米を納める蔵が川沿いに立ち並んでいた。幕府の米蔵の前には多くの米問屋などが店舗を構えたが、その様子を指して、このエリアが蔵前と総称されるようになり、町名にもなった。
 浅草の北にある吉原の名前の由来は遊郭が置かれていたからだが、もともとは日本橋にあった。市中に散在していた遊女屋を集めた場所が低湿地で葭(よし。イネ科の草)が一面に生い茂っていたことから葭原と呼ばれたが、やがて吉原と改められる。その後、幕府の命により遊郭は浅草の北に移転したのである。
 山の手にあたる湯島は武蔵野台地の一角を占めるが、すでに平安時代には豊島郡湯島郷(としまぐんゆしまごう)という地名が『和名抄(わみょうしょう)』という記録で確認できる。その由来だが、江戸湾から島のように見えたからという説。温泉が湧いたことが語源などの説がある。
 湯島の北にあたる根津(ねづ)の由来についてはふたつの説がある。一つは根津神社が鎮座しているため、そのエリアが根津と名付けられた説で、もう一つは地形に由来する説だ。このエリアが丘陵の根元にあたるとともに、港を意味する津があったため、合わせて根津になったというもの。かつては、このエリアまで海が迫っていたからである。
監修・文/安藤優一郎
(『歴史人』1月号「地名の歴史をたどる」より)
https://news.yahoo.co.jp/articles/8eec660e296795c74970a8b421409d78509750a5

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