北海道新聞 01/24 05:00
昨年4月に始めたこの連載では、近世以降の歴史を刻む東胆振・日高の「道」を歩いてきた。道程を振り返り、この地の歩みを俯瞰(ふかん)してみたい。
苫小牧市勇払から石狩へ至る「石狩低地帯」は古来、「人とモノ」が往来する要路だ。江戸期には、水路(川)と陸路で北海道を南北に縦断する「勇払越え」と呼ばれた交通・物流の道があった。実際にカヌーと徒歩でたどり、全行程がほぼ標高20メートル以下という「低さ」を実感した。
■勇払が始終点
勇払は延長約125キロに及ぶこの縦断ルートの始終点。石狩や道北への入り口であり、江戸期は千歳のサケ、苫小牧のイワシ〆粕(しめかす)など蝦夷地(えぞち)の産物を北前船で本州以南へ積み出す拠点だった。幕府は交易・行政施設(会所)を置き、探検家松浦武四郎や仙台藩士玉蟲(たまむし)左太夫らが訪れた。
一方で勇払は、道東や南千島と、道央・道南を東西に結ぶ道の中継点でもあった。蝦夷地移住を試みた八王子千人同心の移住隊も、白老町に「元陣屋」を築き蝦夷地の警衛に当たった仙台藩士も、勇払から道東や南千島に向かった。道東への難所だった様似には「様似山道」が開かれた。
明治初期には英国の紀行作家イザベラ・バードが勇払を経て日高に入り、アイヌ民族の習俗を記録した。南北の道と、東西の道が交わる勇払は「歴史の交差点」と呼ぶにふさわしい。
ただ19世紀以降、南下するロシアの脅威に対抗して蝦夷地の各地で道が開かれるにつれ、勇払の存在感は薄れてゆく。蝦夷地は「水と土の道」から「土の道」の時代に入るのである。
■明治に苫細へ
明治に入ると勇払原野の勇払基線(勇払基点―鵡川基点)から近代的な三角測量が始まり、北海道開拓が本格化する。札幌―室蘭を結ぶ「札幌本道」(現国道36号)が開かれ、交通の要衝は勇払から苫細(とまこまい)(苫小牧市中心部)へ移った。
さらに、北海道炭鉱鉄道が空知の石炭を積み出す鉄道「室蘭線」(現JR室蘭線)を敷設。苫小牧駅前には王子製紙の工場が進出し、道路と鉄路を介して「人とモノ」の往来が活発化した。工業都市・苫小牧の始まりである。詩人・童話作家の宮沢賢治が苫小牧を訪れたのはこの時代だ。
戦後、世界初の大規模人工掘り込み式港湾である苫小牧港が開港して「海路」が加わり、企業進出が加速して人口が激増する。港湾開発論は戦前からあり、苫小牧市美術博物館の武田正哉館長は「苫小牧港の開発を訴えた人々の記憶の中には、『流通港』として栄えた勇払の歴史が強く残っていた」と語る。
苫小牧の北側には空港ができ、「空の道」も加わって人とモノが往来し続けている。この地は一貫して「往来の結節点」であるようだ。同館の佐藤麻莉学芸員は「『土地のDNA』とでも呼ぶべきものがあるなら、苫小牧の場合は人とモノの往来、つまり『流通』でしょう」と語る。
今後も「流通」を軸に、この地は歴史のページを刻むはずだ。気候変動という環境危機を前に、「持続可能」な形で人とモノが往来し、環境を過度に損なわずに人類の生存を可能にする技術や産業が育つよう期待したい。環境破壊の懸念を呼んだ苫小牧東部地区の工業開発の頓挫といった地域史の「影」の部分も忘れるべきではないだろう。(中川大介)
◇
「東胆振・日高 歴史を歩く」はこれで終わります。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/636860
昨年4月に始めたこの連載では、近世以降の歴史を刻む東胆振・日高の「道」を歩いてきた。道程を振り返り、この地の歩みを俯瞰(ふかん)してみたい。
苫小牧市勇払から石狩へ至る「石狩低地帯」は古来、「人とモノ」が往来する要路だ。江戸期には、水路(川)と陸路で北海道を南北に縦断する「勇払越え」と呼ばれた交通・物流の道があった。実際にカヌーと徒歩でたどり、全行程がほぼ標高20メートル以下という「低さ」を実感した。
■勇払が始終点
勇払は延長約125キロに及ぶこの縦断ルートの始終点。石狩や道北への入り口であり、江戸期は千歳のサケ、苫小牧のイワシ〆粕(しめかす)など蝦夷地(えぞち)の産物を北前船で本州以南へ積み出す拠点だった。幕府は交易・行政施設(会所)を置き、探検家松浦武四郎や仙台藩士玉蟲(たまむし)左太夫らが訪れた。
一方で勇払は、道東や南千島と、道央・道南を東西に結ぶ道の中継点でもあった。蝦夷地移住を試みた八王子千人同心の移住隊も、白老町に「元陣屋」を築き蝦夷地の警衛に当たった仙台藩士も、勇払から道東や南千島に向かった。道東への難所だった様似には「様似山道」が開かれた。
明治初期には英国の紀行作家イザベラ・バードが勇払を経て日高に入り、アイヌ民族の習俗を記録した。南北の道と、東西の道が交わる勇払は「歴史の交差点」と呼ぶにふさわしい。
ただ19世紀以降、南下するロシアの脅威に対抗して蝦夷地の各地で道が開かれるにつれ、勇払の存在感は薄れてゆく。蝦夷地は「水と土の道」から「土の道」の時代に入るのである。
■明治に苫細へ
明治に入ると勇払原野の勇払基線(勇払基点―鵡川基点)から近代的な三角測量が始まり、北海道開拓が本格化する。札幌―室蘭を結ぶ「札幌本道」(現国道36号)が開かれ、交通の要衝は勇払から苫細(とまこまい)(苫小牧市中心部)へ移った。
さらに、北海道炭鉱鉄道が空知の石炭を積み出す鉄道「室蘭線」(現JR室蘭線)を敷設。苫小牧駅前には王子製紙の工場が進出し、道路と鉄路を介して「人とモノ」の往来が活発化した。工業都市・苫小牧の始まりである。詩人・童話作家の宮沢賢治が苫小牧を訪れたのはこの時代だ。
戦後、世界初の大規模人工掘り込み式港湾である苫小牧港が開港して「海路」が加わり、企業進出が加速して人口が激増する。港湾開発論は戦前からあり、苫小牧市美術博物館の武田正哉館長は「苫小牧港の開発を訴えた人々の記憶の中には、『流通港』として栄えた勇払の歴史が強く残っていた」と語る。
苫小牧の北側には空港ができ、「空の道」も加わって人とモノが往来し続けている。この地は一貫して「往来の結節点」であるようだ。同館の佐藤麻莉学芸員は「『土地のDNA』とでも呼ぶべきものがあるなら、苫小牧の場合は人とモノの往来、つまり『流通』でしょう」と語る。
今後も「流通」を軸に、この地は歴史のページを刻むはずだ。気候変動という環境危機を前に、「持続可能」な形で人とモノが往来し、環境を過度に損なわずに人類の生存を可能にする技術や産業が育つよう期待したい。環境破壊の懸念を呼んだ苫小牧東部地区の工業開発の頓挫といった地域史の「影」の部分も忘れるべきではないだろう。(中川大介)
◇
「東胆振・日高 歴史を歩く」はこれで終わります。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/636860