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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

世界文化遺産登録から半年 縄文遺跡、発信着々 デジタル活用、ガイド育成

2022-01-31 | アイヌ民族関連
北海道新聞01/31 05:00
道内6遺跡を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」が昨年7月27日に世界文化遺産に登録されてから半年が過ぎた。新型コロナウイルス流行により関連施設が一時閉鎖となる影響もあったが、登録効果で来訪者が例年の倍以上に増えた地域もある。新たな展示施設をつくる動きもあり、関係者はコロナ収束後を見据え、遺跡の価値を国内外に発信する取り組みを続ける。
 今月27日、函館市南茅部地区の市縄文文化交流センターには、市立大船小学校の全児童16人の姿があった。子どもたちは石皿や土器、道内唯一の国宝「中空土偶」に興味津々。坪谷正樹教頭は「世界遺産のある地元に愛着や誇りを持つきっかけにつながれば」と話した。
 縄文遺跡群は4道県の17遺跡で構成され、道内には函館、千歳、伊達の3市と胆振管内洞爺湖町に計6遺跡がある。世界文化遺産登録前後から、各地には修学旅行生や家族連れなどが続々と訪れるようになった。
 垣ノ島遺跡と大船遺跡がある函館市によると、両遺跡と市縄文文化交流センターの来訪者は例年3万人ほどだが、昨年4~12月は9カ月間で約7万7千人と倍以上に増加。伊達市の北黄金貝塚には、昨年4~11月で2020年度の倍近い約1万4千人が訪れた。洞爺湖町の入江・高砂貝塚、千歳市のキウス周堤墓群も同様の傾向という。
 遺跡の魅力を発信する活動は、コロナの流行に翻弄(ほんろう)もされた。道内は昨年以降も、まん延防止等重点措置や緊急事態宣言が出され、キウス周堤墓群はそのたびに案内所を閉鎖し、ガイド活動を中止。函館市が海外客向けに20年につくった通訳ガイドの人材バンクはコロナ禍で活動を開始できず、28人の登録者は研修を受けながら活躍の機会を待っている。伊達市も今月予定していた縄文関連のシンポジウムの開催を中止した。
 各地域は手をこまぬいているだけではない。函館市は今夏、垣ノ島遺跡でVR(仮想現実)やAR(拡張現実)といったデジタル技術を使った解説を始める。3千万円をかけ、遺跡でスマートフォンをかざすと、縄文人の暮らしをコンピューターグラフィックスで再現することを想定している。伊達市は遺跡周辺に駐車場を増設する工事費を新年度予算案に計上する方針。千歳市は出土品や模型、説明パネルを展示する案内施設の新設を検討している。
 道もガイド向け教材を本年度中に作り、地元市町に配布予定。道縄文世界遺産推進室の阿部千春特別研究員は「コロナ禍を準備期間と捉え、専門的なガイドを育成したい」と語る。
 札幌国際大の越田賢一郎教授(考古学)は「一過性のブームとしないためにも、アイヌ民族、開拓など他の歴史や北海道の自然と合わせた情報発信が大事だ」と指摘した。(磯田直希、今井彩乃、伊藤友佳子)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/639609

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星野リゾート「界」 白老・ウポポイ隣に開業  アイヌ文化と自然に浸る宿

2022-01-31 | アイヌ民族関連
北海道新聞01/31 05:00
<ラウンジ>ポロト湖や樽前山を眺めることができるラウンジ。アイヌ民族の生活の中心にあったいろりの火を囲みながら、くつろぐことができる。アイヌ民族の魔よけとされる野草イケマやカレンデュラなどの道内産ハーブを使ってオリジナルのお守りを作る体験プログラム「イケマと花香の魔よけづくり」を行う。所要時間は約30分で、毎日5回実施。宿泊者は当日に申し込み、無料体験できる
 【白老】星野リゾート(長野県軽井沢町)が全国に展開する温泉旅館ブランド「界」の19施設目となる「星野リゾート 界 ポロト」がアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」隣接地に開業した。アイヌ文化や白老の自然に触れることができる旅館で、遠藤美里総支配人(27)は「白老ならではの魅力を伝えていきたい」と話す。
 14日に開業し、道内で「界」は初進出。鉄筋コンクリート4階建て、延べ4951平方メートル、全42室。「ポロト湖の懐にひたる、とんがり湯小屋の宿」をコンセプトとする。アイヌ民族の伝統的な家屋「チセ」をモチーフにデザインした全客室からは、ポロト湖を見渡すことができる。
 温泉は茶褐色のモール温泉。温泉施設の湯小屋にはアイヌ民族の建築様式「三脚構造(ケトゥンニ)」を取り入れた。宿泊者向けのプログラムも充実。白老の歴史やお勧めの入浴法を説明する「温泉いろは」のほか、毎朝7時から15分間の「タンチョウヅルのはばたき体操」などを用意している。
 宿泊料は1泊2食付き2人1室利用で1人2万8千円から。予約、詳細は界(電)0570・073・011または公式ホームページへ。(文・小林彩乃、写真・打田達也)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/639545

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知床ナチュラリスト協会創業者の藤崎達也氏が語るガイドツアーとまちづくり

2022-01-31 | アイヌ民族関連
トラベルジャーナル2022.01.31 00:00
民泊観光協会はウィズコロナ・ポストコロナ時代を見据えた民泊のあり方を考えるオンラインセミナー「持続可能なまちづくり―民泊にできること」を開催している。11月16日には「ガイドツアーとまちづくり」をテーマに、知床ナチュラリスト協会創業者の藤崎達也氏が講演した。
 私は2013年に稚内北星学園大学で教鞭を執るようになる前は、17年間にわたって知床を拠点とするガイドとして観光の現場に立ってきました。1998年には知床ナチュラリスト協会を立ち上げ、15年間代表者を務めました。この間、2003年には岩手県田野畑村で体験プログラムを提供する番屋エコツーリズムの立ち上げにも参加し、大学に入ってからは学生たちと共にまち歩きツアーもつくりました。一貫しているのは人口減少下における地方での持続可能な観光サービスの提供です。
 実は私自身、まちづくりそのものへの関心はさほどありません。これまでの仕事を通じて結果としてまちづくりには人一倍関わってきたと自負はしていますが、まちづくりという言葉には常に違和感を覚えます。一体どういう意味でのまちづくりなのかが曖昧な点が違和感につながっています。
 まちづくりの意味するところは主に4つあると思います。1つ目が中心市街地活性化事業で、いわゆるシャッター通りの再生です。2つ目が観光振興のための観光まちづくりで、ここ10年ほど非常に多くみられます。3つ目は自立した個によって自立した地域を目指す活動で、4つ目がその他です。圧倒的に多いのが1つ目と2つ目で、行政による公共事業としての意味合いが強い取り組みです。3つ目はまれなケース。しかし、まちづくりを進めるには、それにかかわる個々が自立していなければ持続的な取り組みになり得ません。
 まちづくりとガイドとの関係も自立が重要になります。ガイドはまちづくりにおいて地域の魅力を知る存在として重要ですが、ガイドする者は自立していなければなりません。そうでなければ、まちづくりも持続可能な取り組みにならないからです。体験プログラムをつくるにしても、プログラムをつくってからガイドを探すケースが多いですが順序が逆です。まずは個々のガイドが地域において自立して存在していなければなりません。
 民泊の方々はすでに自立しているので、貴重なガイド人材だと考えられます。私は民泊事業者の方々と知り合い良い意味で衝撃を受けました。自分のリスクで事業を始めており、必要とあらば自分たちでガイドを始めている方もたくさんいます。それを知って大きな希望を感じました。
逆まちづくりという発想
 私は知床で流氷ウォークを始めたのですが、当時、地元では流氷を歩くなど考えられないことでした。子供の頃から「絶対に流氷に乗ってはならない」と教育を受け、たたき込まれてきたからです。しかし旅行者からすれば乗ってみたいと思うわけです。ならばドライスーツを着て安全性を確保してやってみようと始めたのが流氷ウォークの体験プログラムでした。海上保安庁や消防など関係機関からも思いとどまるよう指導を受けました。
 しかし、求められなくても参加者リストを毎日駐在所にファクス送信し、流氷ダイビングの業者と連携して訓練も行うなど安全確保に万全を期しました。最初のうちは地元の人が「流氷に人が流されている」と警察に通報して、パトカーが出動するハプニングもありましたが、結果的には大人気となり、現在は4社が催行。地域経済活性化にも役立つ成功事例と認識されるようになりました。
 この経験を通じて「逆まちづくり」の重要性を学びました。つまり、やってはいけないことをやるまちづくりです。行政主導の正統的なまちづくりでは恐らく「できません」の一言で終わったでしょう。しかし流氷ウォークはやってはいけないことをやり、結果的に人気プログラムになり地域に貢献できた。だから、逆まちづくりなのです。
 知床のグリーンシーズンの山歩きも新しい発想で可能性を広げました。知床の観光に最適なシーズンはヒグマが最も人里に近づく時期と重なります。だからヒグマが多く出没する季節には景勝地の遊歩道が立ち入り禁止になることが度々ありました。ひとたびヒグマの目撃情報があれば、行政が遊歩道を2カ月間立ち入り禁止にしてしまうこともありました。しかし最適なシーズンの知床の魅力を多くの人々に見てもらいたいし、旅行者だって素晴らしい景観もヒグマも見てみたいはずです。そこで環境省と一緒にヒグマがいても遊歩道を歩ける登録引率者制度を作りました。
 当時、ヒグマの専門家といえば知床財団所属の職員か環境省のレンジャーでしたが、民間ガイドも仕事を通じてヒグマに関する多くの情報を蓄積していました。当時約10事業者がツアーを行い、50人ものガイドが日々仕事を通じて積み重ねた膨大なケーススタディーを持っていました。そこで行政、知床財団と民間ガイドが一緒になって安全管理に関するテーブルを設け、ヒグマと観光の両立を図るための話し合いを続けました。その結果、それまではヒグマが出れば即立ち入り禁止だった常識を覆し、登録引率者制度によってヒグマがいても観光できる枠組みをつくることができました。これも常識では「やってはいけない」とされてきたことを可能にした逆まちづくりの事例です。
 先住民であるアイヌの方々がアイヌ遺跡などを案内する先住民族エコツアーもつくりました。以前はアイヌ民族の方がガイドを務めるツアーはありそうでないのが現実でした。当時はアイヌ民族を先住民族と認めることに反発する声が一部にあるような時代でしたし、アイヌ民族の方も観光には冷淡でした。観光を見世物と捉え反発する人も多くいたからです。また、知床にはアイヌ民族が強制移住によって土地を追われた歴史があり、アイヌ民族として生活している人が極めて少ない場所でした。そのような知床でアイヌに関するツアーをすべきではないという声もありました。さらに他の土地のアイヌが知床のアイヌ文化を語るなどあり得ないという意見も出ました。
 しかし地元のウタリ協会(現アイヌ協会)や研究者らと共に「知床先住民族エコツーリズム研究会」を立ち上げて、ツアーをやりながら知見を自分たちで積み重ねていく方法を取りました。こうした取り組みを通じて知床におけるアイヌ民族の存在に関する認知度が上がったこともあって、知床の世界遺産化を図る際にはアイヌ民族の関与を管理計画に盛り込むことができました。また先住民エコツアーに関わったアイヌのガイドの方々が、現在、国立施設であるウポポイで数多く働き、アイヌ文化の継承や紹介にあたっています。この先住民族エコツアーも逆まちづくりの事例の1つでした。
魅力的な体験プログラムが続々
 知床ナチュラリスト協会からは多くのガイド事業者が独立していきました。知床に関しては知床のガイド屋pikki、知床サイクリングサポート、知床アイヌエコツアー、知床らうすリンクルなど。稚内ではまち歩きガイドや稚内着物でまち歩き実行委員会などです。日本人は「稚内で着物?」と思うでしょうが、訪日外国人は日本ならどこでも着物を着られると考えています。どこで着ようかと考えているうちに北の果てまで来てしまう旅行者も多い。そこで、稚内で着物を着てまち歩きするツアーをつくったら人気が出たというケースです。さらに十勝の、いただきますカンパニーという会社でのガイド育成等々、さまざまな取り組みに関与していますが、現在は道外でも公共事業のお手伝いをしています。
 これらは基本的には全部、ガイド屋を立ち上げ、ガイドを供給する仕組みを用意している点で、恐らく行政だけで行うまちづくりとは異なると思います。さまざまな地域でお手伝いをさせていただいた取り組みの中から、「これから来るぞ」と思えるツアーを紹介します。
 まず豊頃町のジュエリーアイス。これは十勝川を流れ下った氷が一旦海に出て、波にもまれて丸く削られ海岸に打ち上げられる。その氷をジュエリーアイスとして手に取って楽しむというツアーです。サムライプロデュースというガイド事業者が行っていますが、ジュエリーアイスを見るだけでなく、美しい雪景色の中に即席のカフェを設けてコーヒーを楽しみ、皆でカップを洗いその水を空へ放り投げると瞬間的に凍って氷になる様を楽しむ仕掛けも用意しています。
 糠平温泉のバブルアイスも注目です。東大雪ガイドセンターがツアーを行っています。氷が水中の下へ下へと凍っていく際に閉じ込められた泡を立体的に観察できる内容で、スノーシューでトレッキングして目的地に到着するのですが、途中、使われなくなった鉄道遺構の見学などを楽しみながら目的地を目指します。
 別海町の氷平線ウォークも人気が高まっています。野付半島ネイチャーセンターのツアーです。
 私はこれらの事業にかかわる際には、行政事業でもガイドプログラムをきちんとビジネス化することを意識しました。安全管理も必須です。たとえばジュエリーアイスのツアーは場所が海辺なので必ずライフベストを装着します。こうした安全管理の徹底もプログラムづくりに欠かせません。
 このほか、北海道以外でも岩手県の田野畑村で番屋エコツーリズムを立ち上げました。そこでは体験村たのはたネットワークというガイド事業者が生まれました。彼らが「机浜番屋群」という番屋が集まっている浜を舞台に体験プログラムを実施しています。もともと、机浜番屋群の保存会があり、この活動に参加していた方々の思いをくんでガイドプログラムに仕上げました。保存会が体験村たのはたネットワークの前身となったわけです。そのおかげでストーリーもつくりやすくプログラムの内容も骨太なものになりました。
 ところが11年3月の東日本大震災で番屋群は津波で流されてしまいました。しかし7月にはすでに視察を受け入れ津波体験を説明していました。これは地域の方々が自主的に始めたものです。村に観光ガイドがいたことで、このような対応ができました。観光は何かがなくては始まらないと考えがちですが、田野畑村では文字通りなにもなくなってしまった場所を案内しました。何もないからこそ旅行者が来ました。番屋も観光の力で復旧されました。田野畑村は復興プログラムのメインに観光をいち早く取り入れ、復興への道を歩みました。田野畑村での取り組みを通じ、観光の力の大きさをあらためて感じることができました。
ふじさき・たつや●北海道知床や岩手県田野畑村などで数々のエコツアーをプロデュースする。特に流氷ウォークやサッパ船アドベンチャーズは地域の象徴的メニューに。アドベンチャーバケーションネットワーク監事、札幌国際大学観光学部准教授。著書に「観光ガイド事業入門 立ち上げ、経営から『まちづくり』まで」(学芸出版社)。
https://www.tjnet.co.jp/2022/01/31/%E7%9F%A5%E5%BA%8A%E3%83%8A%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E5%8D%94%E4%BC%9A%E5%89%B5%E6%A5%AD%E8%80%85%E3%81%AE%E8%97%A4%E5%B4%8E%E9%81%94%E4%B9%9F%E6%B0%8F%E3%81%8C%E8%AA%9E/

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カウンターカルチャーとしての「民藝」。柳宗悦の「抵抗」と美に対する想いとは?

2022-01-31 | アイヌ民族関連
tenki.jp2022/01/30 20:30
「民藝」と聞くと、何をイメージするでしょうか。「用の美」「無名の職人」「郷土色豊かな工芸品」。
実際には、100年の時を経て今なお私たちを触発し続けるスタイルであり、生活を彩るデザインであり、品々なのです。民藝という言葉を生み出し、新しい美の概念を考案した柳宗悦。その背景には、「押し付けられた美」に対する「怒り」がありました。
『白樺』「ロダン」「李朝の壺」。民藝の誕生
「民藝(民衆的工芸)」を牽引した柳宗悦(やなぎ むねよし、1889〜1961年)は、1910年に志賀直哉らと文芸雑誌『白樺』を立ち上げ、最年少同人として編集や執筆を担っていました。『白樺』では、ロダンやゴッホ、セザンヌといった、当時最先端の西洋美術などを日本に紹介しています。1910年11月のロダン特集号を発行する際には、柳らがロダン本人に手紙を書き、雑誌を添えて送りました。さらに、そののちに浮世絵30枚を送ります。その結果、若者の熱意に喜んだロダンから、浮世絵の返礼として3体のブロンズ像が『白樺』に届いたのです。
1914年、ロダンのブロンズ像を見るために、彫刻家を志す浅川伯教(のりたか)が千葉県・我孫子の柳邸を訪れました。現在の韓国・ソウルに住んでいた浅川は、小さな朝鮮の壺(李朝染付草花文瓢型瓶)を土産として持参します。柳は簡素な磁器に湛えられた美しさに引き込まれ、この出会いをきっかけに特に焼きものなどの工藝品に傾倒していきます。小さな壺の美に民族の固有性と独立性を認めた柳は、李朝の陶磁器の蒐集をはじめとして、沖縄やアイヌ、イギリスのウィンザーチェアや実用的な陶器・スリップウェアなどにも民衆の美を発見していくことになるのです。
「民藝」という言葉が生まれたのは今から約100年前、1925年の真冬から翌年の正月にかけてのこと。柳宗悦が、陶芸家の濱田庄司、河井寛次郎と共に、旅先の和歌山で考えたといわれています。濱田は、1920年に柳の友人だった陶芸家バーナード・リーチとともにイギリスに渡り、帰国後に沖縄などでの滞在を経て、益子で本格的に陶芸をはじめました。河井は、京都市陶磁器試験場勤務時代の濱田の先輩にあたり、1924年に帰国した濱田によってイギリスのスリップウェアを知ります。さらに、濱田を通じて柳を知り、その考えに深く共感した陶器作りを行っていくようになりました。
美のルールを変えよう!民藝は「抵抗」する
19世紀後半、ウィーン万博に大日本帝国として参加することを契機に「美術」という訳語が生まれます。その時代の美術という言葉は、外貨獲得が目的の輸出品として「見て美しいか否か」という判断基準を意味していました。その流れは、柳が『白樺』で活動していた当時も続いており、日本の美術界は海外で「美の基準」を学んだ指導者が多くを占めていました。ロダンやセザンヌといった西洋のアカデミズムから距離のある芸術家たちを積極的に紹介してきた彼にとって、そのような権威主義は美の本質から程遠いものだったのではないでしょうか。
大正から昭和にかけての近代化に伴い、社会が一元化して地域固有の美が失われつつある時代。「民藝」には、帝国に対する「民衆」、美術に対する「工藝」という意味が込められていました。柳が意図する「民衆」とは、「庶民・大衆」を指す言葉ではありません。地域の風土に従い合理的に生活・仕事をする人々、「友人」であり「民族」といえます。
柳たちが始めた「民藝運動」は、権威が決めた美の均一化に抗い、「美術」が作ってきた「美」のルールを変え、新たなルールを作り、「美」の評価基準を決める力を「官」から「民」へ取り戻そうとするもの。民藝は「美術が作ったルールを変える存在」なのです。ここに、カウンターカルチャー(抵抗文化)としての民藝の姿が浮かび上がってきます。
現在に受け継がれる、3つのメディア展開
『月刊民藝』創刊号(1939年4月)に描かれた「民藝樹」と呼ばれる図には、民藝運動が掲げた三本柱「美術館」「出版」「流通」が記されています。「美術館」の役割は日本民藝館が担い、全国の民藝品の蒐集と展示を行っています。「出版」は、日本民藝協会が雑誌『工藝』や『月刊民藝』などの機関誌や書籍を発行していました。「流通」を担ったのは鳥取を拠点に吉田璋也が開いた「たくみ工藝店」。現在も民藝の心を受け継ぐ新作民藝の品々を取扱っています。
暮らしを豊かにするデザインや伝統的な手仕事は、ますます魅力を増して、私たちの生活に根ざしています。民藝が目指した「新しい美の基準」は、100年の時を経て受け継がれていることに気付かされますね。
柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」では、総点数450点を超える作品・資料を通して民藝100年の歴史を振り返ります。開催は2022年2月13日(日)まで。ぜひ、柳宗悦が見出した「美」の軌跡を体験してみてはいかがでしょうか。
参考文献
高木崇雄『わかりやすい民藝』D&DEPARTMENT PROJECT
参考サイト
柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」
東京国立近代美術館『柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」』展 2022年2月13日(日)まで開催中
https://news.goo.ne.jp/article/tenkijp/trend/tenkijp-30904.html

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世界1位バーティが母国のグランドスラム大会を制した1978年以来のオーストラリア人女子プレーヤーに「私にとって夢の実現」 [全豪オープンテニス]

2022-01-31 | 先住民族関連
テニスマガジンONLINE1/30(日) 18:00配信
今年最初のグランドスラム大会「オーストラリアン・オープン」(オーストラリア・ビクトリア州メルボルン/本戦1月27~30日/ハードコート)の女子シングルス決勝で第1シードのアシュリー・バーティ(オーストラリア)が第27シードのダニエル・コリンズ(アメリカ)を6-3 7-6(2)で倒して同大会での初優勝を遂げるとともに、母国のグランドスラム大会を制した1978年以来のオーストラリア人女子プレーヤーとなった。 1978年に大会がまだクーヨンで開催されていたときに栄冠に輝いたクリス・オニール(オーストラリア)も、観客席からこの歴史的出来事を見守っていた。自身もアボリジニーと呼ばれるオーストラリアの先住民族の血を引くことからバーティはアボリジニー初の女子トップアスリートだった母国のレジェンドであるイボンヌ・グーラゴング(オーストラリア)に憧れて育ったが、そのグーラゴングは表彰式でバーティに優勝杯を渡す役を務めた。
 そして観客席ではオーストラリア名物『ベジマイト』(イースト菌と塩で作られたビタミン豊富な珍味なペーストで、パンなどにつけて食べる)のロゴにバーティの名前を入れたTシャツ姿のファンたちが、大喜びで声援を送っていた。正にオーストラリア一色の日だった。
「これは私にとって夢の実現よ。私はオージー(オーストラリア人)であることを誇りに思うわ」とバーティは語った。
 バーティはクリケット選手であることを辞めてテニスに戻ってきて以来ずっと苦楽をともにしてきたコーチングチームにお礼を言い、「私の第二のキャリアの開始時点から、私たちはすべてを皆で一緒にやってきた。誰一人変わっていない。信じられないような日々だった」と話した。
 2011年ウインブルドンでジュニアの部を制したバーティは2014年USオープンのあとツアー生活に嫌気が差し、しばらくテニスから離れることを宣言した。それから約2年間ツアーから離れた彼女はクリケット選手として活動したが、2016年にふたたびプロテニスの世界に戻ってきた。
「あなたたちを死ぬほど愛しているわ。あなたたちは本当に最高のプロよ。私のためにつぎ込んでくれた愛と時間を考えると、いくらお礼をしても足りないほどよ」
 この日のバーティは多彩なショットを織り交てコリンズのスピーディーなリズムを崩してスムーズに第1セットを取ったが、第2セットになると様相が変わった。第1セットを先取して地元優勝に大きく近づいたことで急に緊張感やプレッシャーを感じ始めたのかバーティにそこまでなかったようなミスまでが出始め、同時にコリンズがミスを減らしてプレーレベルを上げていったのだ。
 最初のブレークを許したバーティはそのままじりじりと引き離されてコリンズがポイントをコントロールして5-1までリードまでリードを広げたが、そこからまた流れが変わった。
 目覚めたように落ち着きと本来のショットを取り戻したバーティは効果的なサービスを叩き込みながら挽回して5-5に追いつき、そのあと互いにキープし合ってタイブレークに突入した。コリンズのミスも増えていく中で逆クロスのフォアハンドウィナー、ドロップショット&スマッシュ、パッシングショットと多彩なレパートリーで相手を圧倒したバーティは勝利の瞬間に両手の拳を握りしめ、天に向かって雄叫びを上げた。
 コリンズは表彰式で涙ぐみながら自分のチームや家族、恋人にお礼を言ったあと、「彼女が1位までランキングを登っていき、彼女が夢を実現するのを目にするのは素晴らしいことでした。私は心からプレーヤーとしてのあなた、そしてあなたのテニスの多彩さに感嘆しています。その一部を私も身に付けられたらと願うわ」とバーティに賛辞を送った。
https://news.yahoo.co.jp/articles/550bba67dc2f6041e2f4dc298a20f8e3622d899f

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