マネーポストWEB2022/01/18 19:00
【連載『バブルの王様』第9回】貸付総額1兆円超のノンバンク・アイチを率いた森下安道は、ゴルフ会員権という新たなビジネスモデルでさらなる巨万の富を築く。そして、それを元手に世界に進出していった。『バブルの王様 アイチ森下安道伝』の9回目、ノンフィクション作家・森功氏がレポートする。(文中敬称略)。
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紙きれに3000万円と書けば、それが斉しく同じ額の金券に早変わりする。森下安道にとっては、商業手形であろうが、ゴルフ会員権であろうが、さしたる違いがなかった。しかもその金券は、どちらも紙クズになる恐れをはらむ。森下は手形やゴルフ会員権の危うさを最も知っていた。それゆえ独特の貨殖の才で金券を巧みに操ることができたといえる。
ゴルフ場を始めた森下本人は1980年代後半、海外にも不動産ビジネスを広げようとする。アメリカやヨーロッパのゴルフ場がほしくなったようだ。しかし、欧米はかなり勝手が違った。
アイチグループの海外進出は、急激に進んだ円高の恩恵も手伝っている。周知のように、1985年9月の先進5カ国蔵相(G5)・中央銀行総裁によるプラザ合意が円高の端緒を開いた。世界の為替安定という名の下、日本政府は日米貿易不均衡とドル高の是正を突きつけられる。結果、1980年代前半まで1ドル250円前後だった円が、あっという間に200円を割り、急騰していった。それが、のちにバブルと名付けられた狂乱景気を呼び込んだ。森下が海外に触手を伸ばし始めた時期は、そんなバブル前夜にあたる。
きっかけはアイチ本社に届いた1通の英文ファックスだった。1986年5月のことだ。すでに国内10件以上のゴルフ場オーナーとなったアイチの評判は、海外にも届いていた。国内外を問わず、ほうぼうから投資案件の売り込みがあった。
〈メスキートカントリークラブに出資しませんか。総額175万ドルで、米国のゴルフ場オーナーになれる!!〉
何の変哲もない投資の宣伝広告といえた。日本円にして投資額は、1ドル175円換算で3億625万円也。
1980年代の国内のゴルフ場には会員権ブームが到来し、開発が盛んになっていった。いきおいゴルフ場の買収額も高騰した。自前で開発するにしろ、既存のゴルフ場を買い取るにしろ、価格は1ホールあたり1億円が相場とされた。18ホールなら20億円弱、27ホールのゴルフ場なら30億円近くかかった。それに比べると、ファックスにあるメスキートCCはすこぶる安い。むろん森下が1976年に2億円で買収した新潟の上越国際CCより高いが、その後の相場からするとまさしく破格といえた。森下が宣伝ファックスに飛びついたのも無理はない。
「アメリカはそんなに安いのか。常務、とりあえずゴルフ場を見て来てくれ」
森下は義兄でアイチ常務だった佐藤信人にそう命じ、取り急ぎ佐藤が渡米した。
くだんのメスキートCCは、米西海岸カリフォルニア州南部リバーサイド郡のパームスプリングスにあった。ロサンゼルスから東に向かっておよそ180キロに位置する。もとは標高3554メートルあるサンジャシント山脈の麓に広がる砂漠だった。そこが開発され、ゴルフ場をはじめ、乗馬やハイキングのコース、プールやテニスコートといった施設ができあがった。今も米国人に人気の温暖なリゾート地だ。
メスキートCCへの投資計画は、既存のゴルフ場の買収ではなく、米デベロッパーの地主から土地を買い取ってアイチグループで開発するという提案だった。森下はもとより、ゴルフ場担当の義兄佐藤もまた、米国人向けにリゾート会員権を売り出せば、投資額の3億円など簡単に取り戻せる、と算盤を弾く。そうして佐藤がメスキートCCの計画地の地主と会い、買収交渉に入った。
ただし、そこには厄介な問題もあった。ゴルフ場用地に米国開拓時代の先住民の居住区域が含まれている。そこを買い取ることはできない。そのため先住民族であるネイティブ・アメリカンの団体と交渉し、賃料を支払い、ゴルフ場を開発するという方法を選んだ。生前の森下に米国のゴルフ場のことを尋ねたが、あまりいい思い出はなかったようだ。
「向こうの地主はパームスプリングスの不動産業で成功した名士だった。最初はとても親切にしてくれ、こっちにアメリカ人の弁護士までつけてくれたんだよ。われわれも一応、日本から国際弁護士を連れて行ったけど、何も事情がわからないからね。それで、現地法人を立ち上げたんだ」
もとの地主に先住民族居住区域の使用許可をとってもらい、そこはなんとかクリアしたという。が、そこからが問題だった。
「日本では土地代を含めて1ホールあたり1億だった開発費は、100分の1もしないという。だからこっちは喜んだけれど、裏があったんだ。ゴルフ場ができかけた頃、ようやく向こうの本当の狙いが、わかったんだけどね。案の定、アメリカのゴルフ場はうまくいきませんでした。(3億円は)いい授業料になりました」
森下は、欧米でゴルフ場開発する場合の根本的な問題に突きあたった。日本と米国では、ゴルフ場のメンバーシップや会員権の考え方がまるで異なるのである。
日本のゴルフ場のオーナーにとって、会員権の発行は紙幣を印刷するような感覚だった。上総GCで森下は100億円あまりの預託金を集めたが、ゴルフ場の開発費はせいぜい20億円で済み、残り80億円は他の投資にまわせた。そうして潤沢な資金を得てきた。
だが、米国ではそんな会員権ビジネスは通じない。むろん米国にもゴルフ場のメンバー制度はあるが、会員になること自体を名誉の証として、その資格を与える。有名コースのメンバーたちは10万円程度の年会費を負担するが、プレー権の売買はもとより、預託金制度の発想そのものがない。会員権という金券の売り買いなどしないのである。
それでも森下は3億円なら安い、と判断したようだ。とどのつまり森下にとってこの頃の3億円の投資は、迷うほどの金額ではなかったのであろう。すぐに本人が現地に入り、地主である米国のデベロッパー相手にゴルフ場用地の買取りを即決した。
ところが、米国のデベロッパーが森下にゴルフ場開発を売り込んだ背景には、別の魂胆があったのである。ゴルフ場をアイチに経営してもらえば、デベロッパー側は先住民族区域の土地使用に関するその後の交渉の矢面に立たなくていい。
そのうえで、彼らはゴルフ場の周囲にコンドミニアムを建設した。つまりゴルフ場開発計画の本当の目的は、面倒なところを日本人に任せ、コンドミニアムに付加価値をつけて高い値段で分譲することにあったのである。森下が言った。
「われわれは地主の計画にまんまと乗せられただけでした。ゴルフ場はおまけみたいなもので、高級コンドミニアムの宣伝材料に過ぎなかったのです。だから儲かるわけがない」
森下はメスキートCCの現地法人を「モーリー・カリフォルニア」と名付け、佐藤が社長に就いた。社名のモーリーは森下の森を英語風に捩っただけの単純な由来だった。が、会員権が売れるはずもなく、うま味はなかった。これでダメになれば「Sorry California」に社名変更しよう、と常務の佐藤や通訳として同行した秘書室長の郡清隆たちと笑い合ったという。
森下はそのほか、アリゾナ州ツーソンにももう一つゴルフ場をつくった。米海軍の巡洋艦「ツーソン」が停泊し、近年は韓国系の現代自動車などが進出している。ここもまた、もともとヒスパニック系米国人が先住民区域を開発したところだった。経営には苦戦した。
もっとも米国におけるゴルフ場経営が無駄だったか、といえば決してそうではない。ゴルフ場のオーナーになったおかげで、米国進出の足掛かりを築けた。日本の金満金融業者が米経済を侵食し始めた、と米国内で評判になる。そうして米国で2つのゴルフ場開発を手掛けた森下は、やがてニューヨークに進出する。マンハッタンのビジネス街で知り合ったのが、ドナルド・トランプだった。
ニューヨークの舞踏会に夫人と娘が登場
森下が若きトランプから黄金のタワービルを購入した一件は、本連載の初回に書いた。当の森下の言によれば、トランプタワーを購入したのが1987年9月のことだ。58階建てビルの56階のワンフロアー3部屋を買い占めたという。まさにメスキートCCの開発に乗り出し、オープンの目処が立った頃だ。森下は渡米すると、西海岸のカリフォルニアでゴルフ場のオーナーとして交渉に臨み、その足でアメリカ大陸を横断してニューヨークに向かった。
ニューヨークにおける森下の道案内役が、新発田純一という不動産ブローカーだった。たまたま現地で知り合い、新発田は森下のブレーンとなる。トランプタワーが売りに出されているという情報をもたらしたのも新発田だった。トランプの自宅であるタワーの58階に招かれ、人気絶頂だったWBCヘビー級チャンピオンのマイク・タイソンとステーキランチを食べたのも、新発田のセッティングによるものだ。森下は新発田から貴重なビジネスの情報を入手し、多くの人物と出会う。
ニューヨークの社交界に出入りしていた新発田は、あるとき森下を日本人女性の経営する高級毛皮店に案内した。その店主が、小野恵子である。
1956(昭和31)年生まれの恵子は、山脇学園短期大学のバスケット部時代に東京都のミスコンテストに応募して優勝した美貌の持ち主だ。日本の短大からハワイ大学に入り直して卒業し、ニューヨークに住んで毛皮店でアルバイトを始めた。そこから独立し、日本人の富裕層を顧客としてきた。今でこそ環境保護問題で下火になった毛皮は、日本で買えば1000万円以上する高級品も珍しくなかった。それが米国なら驚くほど廉価で、15%ほどの値段だった。最高級品でも200万円もしない。そこに目を付けた恵子は、米国の毛皮を日本人に売って上客をつかんだ。
その一人がほかでもない、森下なのである。森下にとって恵子は、4番目の妻と同じ名であり、奇縁を感じたのかもしれない。彼女を気に入った森下は家族旅行でニューヨークに足を延ばすと、3人の娘たちに店でいちばん高い毛皮を買い与えた。
周知のようにこの旧姓小野恵子は、のちに青木廣彰と結婚する。廣彰はニューヨークの鉄板焼きレストランを経営して大当たりさせ、ロッキー青木と名乗ってきた。1964年、日本橋の洋食「紅花」を鉄板焼きBENIHANA OF TOKYOに衣替えして米国に出した。ヒルトンホテル会長のバロン・ヒルトンとの知己を得て、やがてニューヨークで日本食レストランチェーンを展開し、ヒットさせる。
その青木と恵子が結婚したのは2001年7月のことだが、1980年代半ばのこの頃、森下もまた青木と知り合う。ちなみに青木夫妻はトランプとも親しかった。恵子は2016年5月放送のTBS「世界の日本人妻は見た!」に出演し、トランプと食事している写真を公表した。2008年7月に他界した夫君のあとを継ぎ、ベニハナグループを率いてきた。
トランプタワーを拠点にした森下は、こうした数々の出会いを経て人脈を広げていった。森下本人の記憶によれば、青木恵子がまだ旧姓の小野恵子として毛皮店を経営していた頃、ニューヨークの舞踏会に招待された経験があるという。
マンハッタンの高級ホテル「ウォルドーフ・アストリア」で年末に開かれる「インターナショナル・デビュタント・ボール(舞踏会)」がそれだ。ウォルドーフ・アストリアはトランプタワーを買う前に森下が定宿にしていたホテルだった。そこに毎年、世界中の名門一家とその令嬢が集ってきた。
パリやウィーンなど数あるデビュタントの中でも、1954(昭和29)年に始まったニューヨークの舞踏会は、最も権威あるチャリティイベントとして知られる。そのメインイベントが、50人前後の名家の令嬢が一家の主と踊るワルツだ。
日本経済がバブルの全盛に向かう1988年12月29日のこと。森下一家がその舞踏会の話題をさらった。森下と「田園調布の奥さん」豊子夫人、3女の雅美(仮名)が、34回目のニューヨークデビュタント舞踏会に登場したのである。
森下の娘はこの日舞踏会にデビューする予定の6人の令嬢の一人で、主役でもあった。ホテルの会場で森下夫妻が純白のドレス姿の雅美を迎えると、「ビューティフル」と大歓声があがる。父娘のペアダンスが始まると、照れた森下が途中でテーブルに戻ってしまう一幕まであった。森下はけっこう照れ屋でもあった。
海外に進出した森下は、日本では滅多にお目にかかれないような人物と交友を深めていった。サウジアラビアの軍事商社「トライアド」を率いた武器商人アドナン・カショギも、その一人だ。森下本人が語った。
「ロッキー青木の紹介だったかな、あの頃、カショギはニューヨークにいたんだよ。彼も世界中を飛び回っていたから、アメリカで会うだけじゃなかったけどね。ダイアナといっしょにパリで死んだドディともね。別に俺が武器で商売していたわけじゃないけど、飲んだり食ったりしていたんだよ」
ドディとは1997年8月に英チャールズ皇太子元妃のダイアナ・フランシスとドライブ中に、パリのトンネルで事故を起こして亡くなったドディ・アルファイドのことだ。カショギの甥にあたる。
もっとも、こうした森下の交友は純粋に遊び仲間とは言い切れない部分もあった。カショギは70年代に日米の商社とサウジアラビア王室との仲立ちをした怪人物だ。米大統領のリチャード・ニクソンの金主と目され、ロッキード事件でもその暗躍が取り沙汰された。森下は事件の主役である田中角栄や小佐野賢治とも親交があった。
森下の交友はまさに多岐にわたった。海外の有名人たちとの邂逅を通じ、自らのビジネスの爪を長く伸ばしていった。
「アメリカ人はせこいからね」
ところで、海外進出の足掛かりとなった米国の2つのゴルフ場は、その後どうなったのか──。当人に尋ねてみると、けっこう経営は苦しかった、とこう話した。
「日本人はみな18ホールまわるけど、アメリカ人はせこいからね。途中の5〜6ホールでやめて、あとのプレーフィーを払わないマナーの悪い連中もいてね。日本人だとクラブハウスで食事をしたり、パーティを開いたりするけど、彼らはハンバーガーを食べるだけ。向こうはゴルフをやるだけだから、会員たちのわずかな年会費でゴルフ場のメンテナンスをしなければならなかった。それでも、しばらく経営を続けたけど、いつまでも持ち続けられない。これも(バブル崩壊後に)国内のゴルフ場といっしょに売ってしまったよ」
銀座のクラブホステスたちを侍らせながらラウンドしたあと、クラブハウスでフレンチのフルコースを楽しみ、ゴルフ場のホテルに1泊する。バブル全盛期の日本では、そんな贅沢三昧なゴルフスタイルをときおり耳にした。事実、森下の開発した上総GCやロックヒルGCでは、そんな光景が珍しくなかった。ロックヒルGCのクラブハウスには、最新のフェラーリが展示されていた。客たちは、それに負けじ、と高級車でゴルフ場に乗り付ける。おかげで駐車場はさながら外車の展示場と化した。改めて森下が米国に進出した頃の記憶をたどった。
「あの頃は、ひと月のうち3週間は海外に滞在していたからね。社員たちと『JALの国際線スチュワーデスより俺たちのほうが飛行機に乗っている時間が長いな』と冗談を言っていたくらい、あちこちに出かけていました」
森下安道はバブルの狂乱景気を牽引した。こう言葉をつないだ。
「美術品のオークションの世界にも興味があってね。クリスティーズの株を買ったのは、トランプタワーの部屋を使い始めてから1〜2年経ったあとだったかな。あそこに泊まってクリスティーズに通っていたからね」
森下はフランスでもゴルフ場まで手に入れ、金貸しから不動産業、さらに美術品の売買へと新たなビジネスの世界を開いた。もっぱら米英仏のオークション会場を転戦し、名画を買い漁った。そうしてますます注目されていった。
(『バブルの王様』第10回につづく)
【プロフィール】
森功(もり・いさお)/ノンフィクション作家。1961年福岡県生まれ。岡山大学文学部卒。新潮社勤務などを経て2003年よりフリーに。2018年、『悪だくみ―「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。近著に『菅義偉の正体』『墜落「官邸一強支配」はなぜ崩れたのか』など。
※週刊ポスト2022年1月14・21日号
https://news.goo.ne.jp/article/moneypost/life/moneypost-867415.html