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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

のびのび学ぼう テストや通知表ない小学校、23年開校へ 北海道

2022-01-19 | アイヌ民族関連
毎日新聞2022/01/18 09:14
2023年4月に「まおい学びのさと小学校」に生まれ変わる予定の旧北長沼小学校=NPO法人まおい学びのさと提供
 テストや通知表がなく、児童が好きな授業を選べる――。そんなユニークな私立小学校「まおい学びのさと小学校」が2023年4月に北海道長沼町に開校する見通しとなった。体験型学習を中心とした学校設置計画が昨秋の道私立学校審議会で了承された。計画を提出したNPO法人「まおい学びのさと」の細田孝哉代表理事(60)は「子どもたちの好奇心を最大限信頼して、のびのび通える学校をつくりたい」と意気込んでいる。
 体験学習をメインに子どもたちの自主性を育む和歌山県橋本市の私立小中学校「きのくに子どもの村学園」をモデルにした。「楽しくなければ学校ではない」をモットーに長沼町で盛んな農業やアイヌの楽器づくり、自然体験などの体験授業が半分を占める予定。
 札幌山の手支援学校教諭でもある細田代表理事は「例えば、米作りをする中で作付面積を計算したり、気候や流通を学んだりすれば、学習指導要領で定められた算数や理科、社会を学ぶことができる。子どもを学校の中に閉じ込めるのでなく地域にどんどん出て行って、豊かな体験をいっぱいしてもらおうと思っている」と話す。将来的には地元食材を生かした食事も提供する予定だ。
 校舎は、20年3月に廃校となった旧北長沼小を使用する。1学年の定員は20人で、1〜4年生の計80人での開校を見込む。札幌市などニーズのある近隣自治体とのスクールバスを運行する。22年9月までに学校法人の設立計画などの提出が必要で、同11月予定の道私立学校審議会で了承されれば、23年4月の開校が正式に決定する。4年生の卒業に合わせ、中学校を開設することも計画している。
 同NPOは17年に前身の「北海道に自由な小学校をつくる会」が発足。19年の道私立学校審議会にも計画を提出したが、資金不足で取り下げ、昨年は児童確保の見込みがないなどの理由で了承されなかった。開校初年度の運営資金は寄付などでめどがたち、現時点で約60人の入学希望者がいるという。
 3度目での了承に細田代表理事は「ようやく前に進むことでき、安堵(あんど)している。計画通りに準備を進め、開校にこぎつけたい」としている。【米山淳】
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20220118k0000m040014000c.html

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バブルの王様・アイチ森下安道伝 トランプタワーを拠点に米国進出

2022-01-19 | 先住民族関連
マネーポストWEB2022/01/18 19:00
【連載『バブルの王様』第9回】貸付総額1兆円超のノンバンク・アイチを率いた森下安道は、ゴルフ会員権という新たなビジネスモデルでさらなる巨万の富を築く。そして、それを元手に世界に進出していった。『バブルの王様 アイチ森下安道伝』の9回目、ノンフィクション作家・森功氏がレポートする。(文中敬称略)。
 * * *
 紙きれに3000万円と書けば、それが斉しく同じ額の金券に早変わりする。森下安道にとっては、商業手形であろうが、ゴルフ会員権であろうが、さしたる違いがなかった。しかもその金券は、どちらも紙クズになる恐れをはらむ。森下は手形やゴルフ会員権の危うさを最も知っていた。それゆえ独特の貨殖の才で金券を巧みに操ることができたといえる。
  ゴルフ場を始めた森下本人は1980年代後半、海外にも不動産ビジネスを広げようとする。アメリカやヨーロッパのゴルフ場がほしくなったようだ。しかし、欧米はかなり勝手が違った。
  アイチグループの海外進出は、急激に進んだ円高の恩恵も手伝っている。周知のように、1985年9月の先進5カ国蔵相(G5)・中央銀行総裁によるプラザ合意が円高の端緒を開いた。世界の為替安定という名の下、日本政府は日米貿易不均衡とドル高の是正を突きつけられる。結果、1980年代前半まで1ドル250円前後だった円が、あっという間に200円を割り、急騰していった。それが、のちにバブルと名付けられた狂乱景気を呼び込んだ。森下が海外に触手を伸ばし始めた時期は、そんなバブル前夜にあたる。
 きっかけはアイチ本社に届いた1通の英文ファックスだった。1986年5月のことだ。すでに国内10件以上のゴルフ場オーナーとなったアイチの評判は、海外にも届いていた。国内外を問わず、ほうぼうから投資案件の売り込みがあった。
 〈メスキートカントリークラブに出資しませんか。総額175万ドルで、米国のゴルフ場オーナーになれる!!〉
  何の変哲もない投資の宣伝広告といえた。日本円にして投資額は、1ドル175円換算で3億625万円也。
 1980年代の国内のゴルフ場には会員権ブームが到来し、開発が盛んになっていった。いきおいゴルフ場の買収額も高騰した。自前で開発するにしろ、既存のゴルフ場を買い取るにしろ、価格は1ホールあたり1億円が相場とされた。18ホールなら20億円弱、27ホールのゴルフ場なら30億円近くかかった。それに比べると、ファックスにあるメスキートCCはすこぶる安い。むろん森下が1976年に2億円で買収した新潟の上越国際CCより高いが、その後の相場からするとまさしく破格といえた。森下が宣伝ファックスに飛びついたのも無理はない。
 「アメリカはそんなに安いのか。常務、とりあえずゴルフ場を見て来てくれ」
  森下は義兄でアイチ常務だった佐藤信人にそう命じ、取り急ぎ佐藤が渡米した。
 くだんのメスキートCCは、米西海岸カリフォルニア州南部リバーサイド郡のパームスプリングスにあった。ロサンゼルスから東に向かっておよそ180キロに位置する。もとは標高3554メートルあるサンジャシント山脈の麓に広がる砂漠だった。そこが開発され、ゴルフ場をはじめ、乗馬やハイキングのコース、プールやテニスコートといった施設ができあがった。今も米国人に人気の温暖なリゾート地だ。
  メスキートCCへの投資計画は、既存のゴルフ場の買収ではなく、米デベロッパーの地主から土地を買い取ってアイチグループで開発するという提案だった。森下はもとより、ゴルフ場担当の義兄佐藤もまた、米国人向けにリゾート会員権を売り出せば、投資額の3億円など簡単に取り戻せる、と算盤を弾く。そうして佐藤がメスキートCCの計画地の地主と会い、買収交渉に入った。
 ただし、そこには厄介な問題もあった。ゴルフ場用地に米国開拓時代の先住民の居住区域が含まれている。そこを買い取ることはできない。そのため先住民族であるネイティブ・アメリカンの団体と交渉し、賃料を支払い、ゴルフ場を開発するという方法を選んだ。生前の森下に米国のゴルフ場のことを尋ねたが、あまりいい思い出はなかったようだ。
 「向こうの地主はパームスプリングスの不動産業で成功した名士だった。最初はとても親切にしてくれ、こっちにアメリカ人の弁護士までつけてくれたんだよ。われわれも一応、日本から国際弁護士を連れて行ったけど、何も事情がわからないからね。それで、現地法人を立ち上げたんだ」
  もとの地主に先住民族居住区域の使用許可をとってもらい、そこはなんとかクリアしたという。が、そこからが問題だった。
「日本では土地代を含めて1ホールあたり1億だった開発費は、100分の1もしないという。だからこっちは喜んだけれど、裏があったんだ。ゴルフ場ができかけた頃、ようやく向こうの本当の狙いが、わかったんだけどね。案の定、アメリカのゴルフ場はうまくいきませんでした。(3億円は)いい授業料になりました」
  森下は、欧米でゴルフ場開発する場合の根本的な問題に突きあたった。日本と米国では、ゴルフ場のメンバーシップや会員権の考え方がまるで異なるのである。
  日本のゴルフ場のオーナーにとって、会員権の発行は紙幣を印刷するような感覚だった。上総GCで森下は100億円あまりの預託金を集めたが、ゴルフ場の開発費はせいぜい20億円で済み、残り80億円は他の投資にまわせた。そうして潤沢な資金を得てきた。
  だが、米国ではそんな会員権ビジネスは通じない。むろん米国にもゴルフ場のメンバー制度はあるが、会員になること自体を名誉の証として、その資格を与える。有名コースのメンバーたちは10万円程度の年会費を負担するが、プレー権の売買はもとより、預託金制度の発想そのものがない。会員権という金券の売り買いなどしないのである。
 それでも森下は3億円なら安い、と判断したようだ。とどのつまり森下にとってこの頃の3億円の投資は、迷うほどの金額ではなかったのであろう。すぐに本人が現地に入り、地主である米国のデベロッパー相手にゴルフ場用地の買取りを即決した。
  ところが、米国のデベロッパーが森下にゴルフ場開発を売り込んだ背景には、別の魂胆があったのである。ゴルフ場をアイチに経営してもらえば、デベロッパー側は先住民族区域の土地使用に関するその後の交渉の矢面に立たなくていい。
  そのうえで、彼らはゴルフ場の周囲にコンドミニアムを建設した。つまりゴルフ場開発計画の本当の目的は、面倒なところを日本人に任せ、コンドミニアムに付加価値をつけて高い値段で分譲することにあったのである。森下が言った。
「われわれは地主の計画にまんまと乗せられただけでした。ゴルフ場はおまけみたいなもので、高級コンドミニアムの宣伝材料に過ぎなかったのです。だから儲かるわけがない」
  森下はメスキートCCの現地法人を「モーリー・カリフォルニア」と名付け、佐藤が社長に就いた。社名のモーリーは森下の森を英語風に捩っただけの単純な由来だった。が、会員権が売れるはずもなく、うま味はなかった。これでダメになれば「Sorry California」に社名変更しよう、と常務の佐藤や通訳として同行した秘書室長の郡清隆たちと笑い合ったという。
 森下はそのほか、アリゾナ州ツーソンにももう一つゴルフ場をつくった。米海軍の巡洋艦「ツーソン」が停泊し、近年は韓国系の現代自動車などが進出している。ここもまた、もともとヒスパニック系米国人が先住民区域を開発したところだった。経営には苦戦した。
  もっとも米国におけるゴルフ場経営が無駄だったか、といえば決してそうではない。ゴルフ場のオーナーになったおかげで、米国進出の足掛かりを築けた。日本の金満金融業者が米経済を侵食し始めた、と米国内で評判になる。そうして米国で2つのゴルフ場開発を手掛けた森下は、やがてニューヨークに進出する。マンハッタンのビジネス街で知り合ったのが、ドナルド・トランプだった。
ニューヨークの舞踏会に夫人と娘が登場
 森下が若きトランプから黄金のタワービルを購入した一件は、本連載の初回に書いた。当の森下の言によれば、トランプタワーを購入したのが1987年9月のことだ。58階建てビルの56階のワンフロアー3部屋を買い占めたという。まさにメスキートCCの開発に乗り出し、オープンの目処が立った頃だ。森下は渡米すると、西海岸のカリフォルニアでゴルフ場のオーナーとして交渉に臨み、その足でアメリカ大陸を横断してニューヨークに向かった。
  ニューヨークにおける森下の道案内役が、新発田純一という不動産ブローカーだった。たまたま現地で知り合い、新発田は森下のブレーンとなる。トランプタワーが売りに出されているという情報をもたらしたのも新発田だった。トランプの自宅であるタワーの58階に招かれ、人気絶頂だったWBCヘビー級チャンピオンのマイク・タイソンとステーキランチを食べたのも、新発田のセッティングによるものだ。森下は新発田から貴重なビジネスの情報を入手し、多くの人物と出会う。
 ニューヨークの社交界に出入りしていた新発田は、あるとき森下を日本人女性の経営する高級毛皮店に案内した。その店主が、小野恵子である。
  1956(昭和31)年生まれの恵子は、山脇学園短期大学のバスケット部時代に東京都のミスコンテストに応募して優勝した美貌の持ち主だ。日本の短大からハワイ大学に入り直して卒業し、ニューヨークに住んで毛皮店でアルバイトを始めた。そこから独立し、日本人の富裕層を顧客としてきた。今でこそ環境保護問題で下火になった毛皮は、日本で買えば1000万円以上する高級品も珍しくなかった。それが米国なら驚くほど廉価で、15%ほどの値段だった。最高級品でも200万円もしない。そこに目を付けた恵子は、米国の毛皮を日本人に売って上客をつかんだ。
  その一人がほかでもない、森下なのである。森下にとって恵子は、4番目の妻と同じ名であり、奇縁を感じたのかもしれない。彼女を気に入った森下は家族旅行でニューヨークに足を延ばすと、3人の娘たちに店でいちばん高い毛皮を買い与えた。
 周知のようにこの旧姓小野恵子は、のちに青木廣彰と結婚する。廣彰はニューヨークの鉄板焼きレストランを経営して大当たりさせ、ロッキー青木と名乗ってきた。1964年、日本橋の洋食「紅花」を鉄板焼きBENIHANA OF TOKYOに衣替えして米国に出した。ヒルトンホテル会長のバロン・ヒルトンとの知己を得て、やがてニューヨークで日本食レストランチェーンを展開し、ヒットさせる。
  その青木と恵子が結婚したのは2001年7月のことだが、1980年代半ばのこの頃、森下もまた青木と知り合う。ちなみに青木夫妻はトランプとも親しかった。恵子は2016年5月放送のTBS「世界の日本人妻は見た!」に出演し、トランプと食事している写真を公表した。2008年7月に他界した夫君のあとを継ぎ、ベニハナグループを率いてきた。
 トランプタワーを拠点にした森下は、こうした数々の出会いを経て人脈を広げていった。森下本人の記憶によれば、青木恵子がまだ旧姓の小野恵子として毛皮店を経営していた頃、ニューヨークの舞踏会に招待された経験があるという。
  マンハッタンの高級ホテル「ウォルドーフ・アストリア」で年末に開かれる「インターナショナル・デビュタント・ボール(舞踏会)」がそれだ。ウォルドーフ・アストリアはトランプタワーを買う前に森下が定宿にしていたホテルだった。そこに毎年、世界中の名門一家とその令嬢が集ってきた。
  パリやウィーンなど数あるデビュタントの中でも、1954(昭和29)年に始まったニューヨークの舞踏会は、最も権威あるチャリティイベントとして知られる。そのメインイベントが、50人前後の名家の令嬢が一家の主と踊るワルツだ。
  日本経済がバブルの全盛に向かう1988年12月29日のこと。森下一家がその舞踏会の話題をさらった。森下と「田園調布の奥さん」豊子夫人、3女の雅美(仮名)が、34回目のニューヨークデビュタント舞踏会に登場したのである。
 森下の娘はこの日舞踏会にデビューする予定の6人の令嬢の一人で、主役でもあった。ホテルの会場で森下夫妻が純白のドレス姿の雅美を迎えると、「ビューティフル」と大歓声があがる。父娘のペアダンスが始まると、照れた森下が途中でテーブルに戻ってしまう一幕まであった。森下はけっこう照れ屋でもあった。
  海外に進出した森下は、日本では滅多にお目にかかれないような人物と交友を深めていった。サウジアラビアの軍事商社「トライアド」を率いた武器商人アドナン・カショギも、その一人だ。森下本人が語った。
 「ロッキー青木の紹介だったかな、あの頃、カショギはニューヨークにいたんだよ。彼も世界中を飛び回っていたから、アメリカで会うだけじゃなかったけどね。ダイアナといっしょにパリで死んだドディともね。別に俺が武器で商売していたわけじゃないけど、飲んだり食ったりしていたんだよ」
 ドディとは1997年8月に英チャールズ皇太子元妃のダイアナ・フランシスとドライブ中に、パリのトンネルで事故を起こして亡くなったドディ・アルファイドのことだ。カショギの甥にあたる。
  もっとも、こうした森下の交友は純粋に遊び仲間とは言い切れない部分もあった。カショギは70年代に日米の商社とサウジアラビア王室との仲立ちをした怪人物だ。米大統領のリチャード・ニクソンの金主と目され、ロッキード事件でもその暗躍が取り沙汰された。森下は事件の主役である田中角栄や小佐野賢治とも親交があった。
  森下の交友はまさに多岐にわたった。海外の有名人たちとの邂逅を通じ、自らのビジネスの爪を長く伸ばしていった。
「アメリカ人はせこいからね」
 ところで、海外進出の足掛かりとなった米国の2つのゴルフ場は、その後どうなったのか──。当人に尋ねてみると、けっこう経営は苦しかった、とこう話した。
 「日本人はみな18ホールまわるけど、アメリカ人はせこいからね。途中の5〜6ホールでやめて、あとのプレーフィーを払わないマナーの悪い連中もいてね。日本人だとクラブハウスで食事をしたり、パーティを開いたりするけど、彼らはハンバーガーを食べるだけ。向こうはゴルフをやるだけだから、会員たちのわずかな年会費でゴルフ場のメンテナンスをしなければならなかった。それでも、しばらく経営を続けたけど、いつまでも持ち続けられない。これも(バブル崩壊後に)国内のゴルフ場といっしょに売ってしまったよ」
 銀座のクラブホステスたちを侍らせながらラウンドしたあと、クラブハウスでフレンチのフルコースを楽しみ、ゴルフ場のホテルに1泊する。バブル全盛期の日本では、そんな贅沢三昧なゴルフスタイルをときおり耳にした。事実、森下の開発した上総GCやロックヒルGCでは、そんな光景が珍しくなかった。ロックヒルGCのクラブハウスには、最新のフェラーリが展示されていた。客たちは、それに負けじ、と高級車でゴルフ場に乗り付ける。おかげで駐車場はさながら外車の展示場と化した。改めて森下が米国に進出した頃の記憶をたどった。
 「あの頃は、ひと月のうち3週間は海外に滞在していたからね。社員たちと『JALの国際線スチュワーデスより俺たちのほうが飛行機に乗っている時間が長いな』と冗談を言っていたくらい、あちこちに出かけていました」
 森下安道はバブルの狂乱景気を牽引した。こう言葉をつないだ。
 「美術品のオークションの世界にも興味があってね。クリスティーズの株を買ったのは、トランプタワーの部屋を使い始めてから1〜2年経ったあとだったかな。あそこに泊まってクリスティーズに通っていたからね」
  森下はフランスでもゴルフ場まで手に入れ、金貸しから不動産業、さらに美術品の売買へと新たなビジネスの世界を開いた。もっぱら米英仏のオークション会場を転戦し、名画を買い漁った。そうしてますます注目されていった。
(『バブルの王様』第10回につづく)
【プロフィール】
森功(もり・いさお)/ノンフィクション作家。1961年福岡県生まれ。岡山大学文学部卒。新潮社勤務などを経て2003年よりフリーに。2018年、『悪だくみ―「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。近著に『菅義偉の正体』『墜落「官邸一強支配」はなぜ崩れたのか』など。
※週刊ポスト2022年1月14・21日号
https://news.goo.ne.jp/article/moneypost/life/moneypost-867415.html

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100年前のスペイン風邪 人流介し拡大 新型コロナと共通点【十勝】

2022-01-19 | アイヌ民族関連
十勝毎日新聞2022.01.18
 新型コロナウイルスの第6波が日本各地を襲っている。2020年1月に国内初の感染が確認されてから2年がたち、陽性者数は170万人(うち死者数は約1万8000人)を超えた。世界では100年ほど前にもインフルエンザ「スペイン風邪」が猛威を振るい、十勝管内でも多くの罹患(りかん)者が生じた。当時の十勝毎日新聞でも「コレラ赤痢チフス等よりも恐ろしい」などと報じ、ワクチン接種の必要性など新型コロナとの時代を超えた共通点も見られた=電子版に詳報。
 十勝の詳細な患者数や死者数は記録に残っていないとみられるが、当時の十勝毎日新聞によると、1920年10月7日の記事に「流感 帯廣を襲ふ」と見出しがある。記事中では「急性肺炎になってゐるのが決して少くない」「東京ではもう盛になってきて(中略)本道は東京と最も密接な関係があって人の往来も頻繁だから帯廣地方にも患者らしいものが見られている」と、現在のコロナ同様の人流を介した感染の広がりが記されている。
 また、当時はインフルエンザウイルス発見前で現在と同様のワクチンではなかったが、記事中には「初期だから今のうちにワクチン注射をして予防して置けばよい」「注射をした人でも罹病した人が澤山あつたが、併し注射をしてゐないとしたら更に激烈な魔のお見舞を受けたかも知れないので大難が小難で済む譯である」と、今のワクチン奨励と同様の考え方があったようだ。
 新聞以外にも記録が残る。十勝在住の教育者でアイヌ民族研究家の吉田巌の日記には、「流行性感冒者6割5部5厘強に当るを以て、学校閉鎖の手続書を」との記述があり、子どもたちが熱や頭痛などの症状を訴えていたと記録がある。
 清水町百年史(2005年発行)にも、「大正7年(1918年)の冬からはやりはじめ、人舞村では同年11月には村内9小学校の児童総数1234名のうち、71%の878名が風邪のために欠席、教師もまた28名中20名が罹患して授業どころではなくなった」と記され、1週間の休校措置などを取ったが死亡者が出るなどしたとある。
 加えて、大雪で死者の埋葬が間に合わず、雪の中に埋めておき、春に墓地に改めて埋葬した話や、清水市街の病院にはワクチンや薬も何もなく、「医者もお手上げだった」と脅威に感じていたようだ。
<スペイン風邪>
 1918年3月から20年ごろまで全世界で流行し、当時の世界人口18億~20億人の3分の1以上が感染し、数千万人(おおむね2000万~5000万人)が亡くなり、致死率は2.5%以上と推計される。新型コロナウイルスの世界の感染者数(2日時点、厚生労働省)は2億8000万人、死者数543万人。
http://www.hokkaido-nl.jp/article/24281

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ジャミロクワイと「ジュンヤ ワタナベ マン」がコラボ 名曲のMVも再現

2022-01-19 | 先住民族関連
FASHIONSNAP.COM1/18(火) 16:30配信

 デザイナー渡辺淳弥が手掛ける「ジュンヤ ワタナベ マン(JUNYA WATANABE MAN)」が、英国アーティスト ジャミロクワイ(Jamiroquai)のファッションスタイルにフォーカスし、フロントマンであるジェイ・ケイ(Jay Kay)とのコラボレーションによる2022-23年秋冬コレクションを発表した。代表曲「ヴァーチャル・インサニティ(Virtual Insanity)」のミュージックビデオも再現している。
■ジャミロクワイ / ジェイ・ケイの思想に共感
 ジュンヤ ワタナベ マンがジェイ・ケイの思想に共感したことから実現したという今回のコラボ。Jamiroquaiの名は「Jam Session」とネイティブアメリカンの「Iroquois」の造語で、ジェイ・ケイは世界中の先住民族文化に共鳴して独自のファッションスタイルを確立してきた。2022-23年秋冬コレクションでは両者のアイデアを表現するために、アメリカ先住民と深いつながりを持つ「ペンドルトンウーレンミルズ(Pendleton Woolen Mills)」と、メキシコ文化省の協力を得て制作。ペンドルトンの色鮮やかなオリジナルパターンや、メキシコの伝統的な織物サラペを、ドッキングやパッチワークなどの手法でふんだんに取り入れた。
■リーバイス、カーハート、ニューバランスなど色柄豊富なコラボ
 過去にもコラボしている「リーバイス(Levi's)」や「カーハート(Carhartt)」は、ボトムスだけではなくトレンチコートの後身頃にオーバーオールをドッキングしたユニークなデザインも登場。また「Karrimor」とのコラボでは、バックスタイルにチェック柄を取り入れたアウターなどを発表した。
 シューズでは「ニューバランス(New Balance)」や「ステップニー ワーカーズ クラブ(Stepney Workers Club)」とコラボ。ウェアと同様に様々なカラー展開が特徴となっている。
 なお、ジェイ・ケイを連想させる大きなファーの帽子は「ベニー・アンダロ(Benny Andallo)」が提供。コレクションルックの撮影用のみのアイテムとなっている。
■ヴァーチャル・インサニティの斬新なMVを再現
 「ヴァーチャル・インサニティ」はジャミロクワイが1996年に発表し、日本でも人気の高いアシッドジャズの代表曲。ジュンヤ ワタナベ マンのコレクションムービーでは、25年以上が経った今も色褪せないヴァーチャル・インサニティの斬新なMVを再現したセットで、動く床を連想させるダンスやカメラワークによってオマージュした内容に仕上げている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/5ed983ecd28d96ddd3360c4d5b51288cb5df78a2

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1%の富裕層が支配する“アメリカン・ドリーム”移民たちの「格差と貧困」の実態

2022-01-19 | 先住民族関連
現代ビジネス 2022.01.19 佐藤 大介共同通信 編集委員兼論説委員
「アメリカン・ドリーム」が抱える矛盾
米大陸という「未開の地」で安住の地をつくろうと人々は開拓に勤しんだが、先住民族たちの権利は完全に無視された。
「誰もが幸福を追求できる」と謳われた「アメリカン・ドリーム」の思想に先住民族たちは含まれず、その「幸福」とは開拓者による一方的で独善的なものにすぎなかったのだ。
そうした事実に向き合うと、ミアが感じた矛盾にも説明がつく。
「アメリカン・ドリーム」というレースに加わるには、人種や貧富によって配られる参加チケットに大きな差があり、一度チケットをもらい損ねると、手に入れるのはさらに難しくなる。
「アメリカン・ドリーム」を体感できる指定席はなかなか空きがなくて、多くの人たちにとっては「見果てぬ夢」にしかすぎない。
物語では、ミアが持ち前の利発さと行動力で苦境を逆転し、新しい未来をつかもうとする姿が描かれている。
それはまさに、個人の才能と努力によって、よりよい生活が得られるとする「アメリカン・ドリーム」そのものであり、貧しさにあえぐ人々にとっては希望に満ちたストーリーかもしれない。
年功や勤続年数よりも、実力やコミュニケーション能力によって昇進できる米国社会を映し出しているとも言えるだろう。
1%の富裕層と、苦境に立たされる残りの99%
だが、たとえミアが「アメリカン・ドリーム」に少しだけ手を伸ばすことができたとしても、独善的な思想や機会の不平等という現実は揺るがない。
2011年にはニューヨークのマンハッタンで、若者たちが「ウォール街を占領せよ」というキャンペーンを展開した。
「私たちは99%だ」として、「アメリカン・ドリーム」をつかんでいるのは1%の富裕層のみで、残りの99%は苦境に立たされていると訴えた。「アメリカン・ドリーム」という甘言ではごまかしきれない現実を、米国の人たち自身が白日の下にさらしたのだ。
その問題提起から10年余り。解決には至らないまま、社会の分断という現象が米国社会を覆っている。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/90955?page=3

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