東洋経済 2021/03/22 10:00
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台湾にさまざまなイノベーションをもたらし続ける、台湾デジタル担当政務委員大臣のオードリー・タンさん。彼女のこれまでの仕事と思考について、オードリーさんへの丹念なインタビュー取材を元にいきいきと描き出した『オードリー・タンの思考 IQよりも大切なこと』より抜粋してご紹介します。
今回は、彼女の過去の特筆すべき活動のひとつ、シビックハッカー・コミュニティ〈g0v〉への参加と〈萌典〉の経緯についてです。
オードリーがデジタル担当大臣として入閣した2016年からさかのぼること4年前に始まり、彼女が今でも参加し続ける、シビックハッカー・コミュニティ〔g0v(零時政府)〕(ガヴ・ゼロと読む。以下〈g0v〉と記載)。
シビックハッカーとは社会問題の解決に取り組む民間のエンジニアのことで、台湾における彼らの数は、世界でも3本の指に入ると言われている。シビックハッカー内にもさまざまなコミュニティが存在しているが、その中でもソフトウェアのソースコードを開放する〈オープンソース〉に関心のある者が集うコミュニティから〈g0v〉は生まれた。
数字のゼロを使った〈g0v〉という名称は、政府の略称が、government に由来した〈gov〉であるのに対し、彼らは「政治をゼロから再考する」というスタンスを表したもの。
「『なぜ誰もやらないのだ?』と聞くのをやめて、まずは自分がその『やらない人』の1人であることを認めよう。万能な人は存在しない」。これが彼らのモットーである。私自身も耳が痛くなる言葉だ。
従来の社会運動にテクノロジーコミュニティを結び付けることで、環境や労働など、社会問題をテーマにしたプロジェクトに取り組んでいる。2年に1度、国際サミットを開催したり(2018年には30カ国近くが参加)、総額1000万元以上のシビックテック・イノベーション助成金を発行するなど、その規模は決して小さくない。
オードリーを語るとき、この〈g0v〉は重要なキーワードだと言えよう。2014年の〈ひまわり学生運動〉でもオードリーは〈g0v〉のメンバーとして貢献しているし、入閣後は自らプロジェクトを実行することはなくなったものの、今でも〈g0v〉のSlack(チャットルーム)に入り、やりとりは続いており、時には問題解決をサポートすることもある。2020年のコロナ禍でマスクマップを開発したのも、彼女が〈g0v〉と共に行ったことだ。
ここでは〈g0v〉のあらましと、オードリー自身がそこで手がけたオンライン言語辞典の〈萌典 moedict〉を紹介する。
きっかけは、台湾史上最悪の広告
〈g0v〉が始まるきっかけとなったのが、2012年2月に行政院が打ち出した〈経済力推進プラン(原名:経済動能推升方案)〉の動画広告だ。ちまたでは「台湾史上最悪の広告」と呼ばれている。
この動画広告で流れるナレーションの拙訳は以下の通り。
「〈経済力推進プラン〉とは、何でしょうか? 私たちはわずかな言葉で簡単に説明して、皆様にご理解いただきたいと強く思っています。ですが、わずかな言葉数では、こんなにたくさんの政策を説明することはできません。
なぜなら、経済発展のためには完璧な計画が必要であり、それでこそ経済は動き出せるのです。
だからこのプランは当然複雑になります。 重要なのは『たくさんのことが今、加速して進行中』だということです。これを実行すれば、間違いない!」
開いた口が塞がらなくなるような、まったく中身のない内容だが、これは当時の政府が実際に流した広告なのだ。
これに対して、「政府は国民のためにあるものなのに、政策を説明せずに進めるのはおかしい」と立ち上がったのが、高嘉良(ガオ・チャーリャン)、吳泰輝(ウー・タイフォイ)、陳學毅(チェン・シュエイー)、郭嘉渝(グゥオ・チャーユー)ら4人のシビックハッカーだ。彼らは、台湾Yahoo! 奇摩が主催したハッカソン〈Yahoo! Open Hack Day 2012〉に参加し、政府の予算データをオープンデータ化してみせた。
台湾Yahoo! 奇摩主催のハッカソン〈Yahoo! Open Hack Day 2012〉に参加した高嘉良(写真左)ら、4人のシビックハッカーたち。賞金5万元を獲得した(出典:オードリー作成 〈萌典與零時政府〉)
ハッカソン(Hackathon)とは、ハック(Hack)とマラソン(Marathon)を組み合わせた造語で、エンジニアやデザイナーらが一定期間、集中して開発作業を行うイベントのことである。IT業界では頻繁に開催されているもので、特定のチームを組み、意見やアイディアを出し合いながら制限時間内に出したアウトプットで成果を競う。
行政ごとの各支出項目とその額について年単位での推移を可視化(出典:零時政府 中央政府総予算)
上の図を見てほしい。これは、行政ごとの各支出項目とその額について年単位での推移を可視化したものだ。たとえば「社会保険」にまつわる総合支出は年間およそ1971億元で、そのうち最も多い支出は労働部管轄の「労働保険業務」のおよそ1454億元。2020年の予算配分は前年比で+17.23%ということが、一目でわかる。
2カ月に1度、ハッカソンを開催
これをきっかけに、プログラマーの高嘉良(シビックハッカー・コミュニティでは愛称〈clkao〉と呼ばれることのほうが多い)とその妻、作家でドキュメンタリー監督の瞿筱葳(チュー・シャオウェイ、愛称:ipa)が共同発起人となり、〈g0v〉は2012年末に設立された。〈g0v〉の代表的な活動の1つが、2カ月に1度開かれる70〜100人規模の大ハッカソン。市民から自発的に議題を上げてもらい、そこに政府の関係者や専門家などに加わってもらいながらオープンな場で討論するというもので、誰でも無料でエントリーすることができる。
2020年10月24日に開催された〈g0v〉ハッカソンの様子。子どもから大人までがリラックスした雰囲気でさまざまなプロジェクトを進行していた。このときも会場に高嘉良の姿があった
この〈g0v〉において、オードリー自身の手でメンテナンスされた唯一のプロジェクトが、2013年1月のハッカソンで提案・開発され、今でも台湾で広く使われているオンライン言語辞典〈萌典 moedict〉(以下、萌典と記載)だ。
この〈萌典〉には、約16万もの台湾華語(北京語が台湾にローカライズされて台湾独特の表現が増えたもの。とくにその差を強調する必要のある場合を除き、本書では「中国語」と記載している)、約2万の台湾語(ホーロー語)、1万4000の客家語が収録されており、英語、フランス語、ドイツ語の対訳が付けられている(日本語訳のボランティアに名乗りを上げたいところ。有志求む)。
台湾で最も権威ある国語辞典のウェブ版
もともと台湾の教育部にも、1996年に公開されたウェブ版の〈重編國語辞典改定本〉というものがあった。台湾華語の定本として貴重な辞書であり、公開以来の17年間で訪問回数は約2億回と、多くのニーズがあることをうかがわせる。ただし、このウェブ版は公開後ほぼ更新されていない。そのため、スマートフォンやタブレットでは閲覧できず、外部によるリンクの設置が許可されているのはトップページのみで、下層の個別ページへリンクを設置する際には許可が必要など、使い勝手に大きな課題があった。
教育部によるウェブ版〈重編國語辞典改定本〉(出典:オードリー・タン作成〈萌典與零時政府〉)
2013年に開かれたハッカソンに、アメリカからオンラインで参加した教授の葉平(イエ・ピン)は、この〈重編國語辞典改定本〉をオープンデータ化することを呼びかけ、それに応えたオードリーを含む30名ほどのハッカーらが、夜通しの作業でこの〈萌典〉を開発した。同年3月23日のハッカソンから始まり、ローンチ(公開)したのはその翌日だったというからものすごいスピードだ。その後、数カ月の審議を経て教育部はこの〈萌典〉を認可し、現在では毎月数百万もの訪問がある、台湾になくてはならないツールとして定着した。
ちなみに、若い世代の日本人なら誰しも〈萌典〉の「萌」という文字が気になるところだと思うが、これは教育部(Ministry of Education)を表す略称〈MOE〉の発音が、ちょうど日本の若者を中心に流行した、可愛いという意味の「萌え」の発音と同じであったこともあり、この名前を付けたという。こんなところに思いがけず日本とのつながりがあったことに、嬉しくなってしまうのは私だけではないはずだ。
〈萌典〉の使い方はとても簡単だ。前頁の写真を参考にしてほしい。たとえば、「國語」を調べるとこのように結果が表示され、各説明文内の単語をマウスオーバーすると、さらにそれぞれの言葉の意味が表示される。中国語は、日本語と同じ漢字であっても、筆順や止め・跳ね・払いなどの筆画が違うものもあるが〈萌典〉ではそれぞれの漢字の筆順まで見ることができて、音声読み上げ機能もある。
オードリーは、「一つひとつの言葉にパーマリンク(それぞれに独立した重複しないURL)が必要で、それをシェアしやすいようにすることが大切」だと話す。実際、「國語」について記載されているページのURLをFacebookでシェアしようとすると、写真のようなOGP(ページ情報)が表示される作りになっている。
シェアしやすいように考案された〈萌典〉のパーマリンク
また、〈萌典〉は〈重編國語辞典改定本〉を基盤としながらも、後から複数の辞典の情報が追加されることでその網羅性をさらに高めている。そのため〈萌典〉内で同一の内容に関して異なる表記が存在することも起こりうるが、その場合、アクセスしたユーザーらにどちらが正解かの判断を求め、最適解を探る仕組みが採用されている。実際、とある誤植に関しては、18日間で5602人もの参加者により補正されたことがあるという。
「言語の保存・継承」にデジタルで貢献
台湾には、政府に認定されているだけでも16の原住民族がいて、それぞれ文化も言語も異なる。原住民族とは、17世紀頃に中国大陸から漢民族が入ってくる以前より、もともとこの地で暮らしていた先住民族のことだ。台湾の中国語で「先住民」とは「すでに存在しなくなった」という意味合いがあるため、政府公認で「原住民族」という表記が使用されている。その中でも最大の人口を持つアミ族(約21万人)についても、翌2014年のハッカソンで、専門の〈アミ語萌典〉が開発されている。なんと、わずか53時間で8万語以上のアミ語が登録された。
2014年のハッカソンで開発された、台湾最大の原住民族アミ族専門の〈アミ語萌典〉
多民族国家である台湾ではほかにも、古くから使われていた台湾語や客家語、台湾華語など、言語文化の保存と継承が重視されるようになってきている。また、年々増加する海外からの移民の言語にも向き合おうとしている最中だ。さらに逆に台湾から海外に移住した台湾人の中に、「自分たちのルーツである台湾華語を子どもたちに継承していきたい」というニーズもある。このように、オードリーら〈g0v〉のメンバーは、台湾にとって重要なテーマである「言語の保存・継承」にシビックテックやオープンソースといった概念で大きく貢献した。
中国語の学習者であり、人に物事を伝える仕事に携わる私自身も、日々の執筆の際にほぼ毎日、この辞書に当たっている。台湾で使われている中国語(台湾華語)は、同じ北京語でも中国で使われているものと単語や意味合いが大きく異なる。だが、日本で一般的に流通している北京語の辞書がカバーしているのは中国版であるため、ほぼ使うことができない。
だから、安心して参照できる情報の拠り所があるというのは、本当にありがたいことこの上ない。こうして言語が継承され、学習され、台湾の文化の礎となることに対して、〈萌典〉の存在は重要な役割を果たしていると言えよう。
著者:近藤 弥生子
https://news.goo.ne.jp/article/toyokeizai/business/toyokeizai-414987.html