カラパイア2022年1月28日 22:00

1798年、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がエジプトで軍事作戦を開始した。このとき、兵士や軍関係者だけでなく、サヴァンと呼ばれる学者や科学者などが大勢帯同させられた。
戦争に巻き込まれたこうした学者たちが、ヨーロッパ人の古代エジプトへの関心を煽り、エジプトマニアを生み出す結果になった。
やがて、古代エジプトの遺物、像やパピルス、ミイラまでもが、ナイルをさかのぼり、ヨーロッパの美術館に輸出されるようになった。
こうして送られた多数のミイラのうち、とくに興味深いミイラがあった。そのミイラを包んでいたリネンには大量の文字が書かれていたのだ。
このミイラを包むリネンは「ライバー・リンテウス」(ラテン語で"リネンの本")として有名になった。現在、クロアチアのザグレブ考古学博物館に所蔵されている。
お土産としてヨーロッパに持ち込まれた女性のミイラ 1848年、ハンガリー王室大使館事務局ののクロアチア人職員であるミハイロ・バーリは、職を辞して、旅に出た。
エジプト、アレキサンドリアにいたとき、バーリはなにか土産を買おうと思い立って、女性のミイラが納められた石棺を購入した。
ウィーンの自宅に戻ると、バーリは居間の隅にこのミイラを直立の状態で置いた。ミイラを包んでいたリネンの包帯は取り外し、別のガラスケースの中に入れて展示した。
1859年、バーリが亡くなると、スラヴォニアの司祭だった弟のイリヤがミイラを受け継いだ。
イリアはミイラには興味がなかったため、1867年にクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアの研究機関(現在は、ザグレブ考古学博物館として知られている)にリネンもろとも寄贈した。
この時点では、誰もミイラを包んでいたこのリネンに文字が書かれていることに気がつかなかった。
リネンに書かれた大量の文字「ライバー・リンテウス」 1867年、ドイツのエジプト学者ハインリッヒ・ブリュッシュがミイラを調べて、初めて文字に気がついた。エジプトの象形文字に違いないと考えたが、ブリュッシュはそれ以上、詳しくは調べなかった。
それから10年後、ブリュッシュは友人のイギリス人探検家、リチャード・バートンと話す機会があった。
ルーン文字のことに話題が及んだとき、ブリュッシュは、ミイラのリネンに書かれていた文字は、エジプトの象形文字ではないことに気がついた。
文字がなにか重要なものかもしれないことには気づいたが、ふたりはエジプトの死者の書をアラビア語に書き直したものであると誤解した。
1891年、ライバー・リンテウスは、ウィーンに送られ、コプト語の専門家ヤコブ・クラルによって、徹底的に調べられた。
最初、クラルは書かれている言語は、コプト語、カリア語、リビア語ではないかと考えたが、よくよく調べてみると、エトルリア語で書かれていることが判明した。
エトルリア語は、イタリア半島の先住民族、エトルリア人が使用していた言語だ。
だが、リネンの断片を適切な順番に並べ直してみても、文章をちゃんと翻訳することはできなかった。
ミイラを包んでいたリネン、ライバー・リンテウスにはエトルリア語が書かれて
いた / image credit:public domain/wikimediaなぜ、エジプトミイラにエトルリア語が書かれていたのか? ほとんど文字が残されていないため、今日でさえ、エトルリア語は完全に理解されていない。それでも、このリネンに書かれている文字からライバー・リンテウスを示す特定の言葉をいくつか拾うことができた。
文章全体から見つかる日付や神々の名前をベースにすると、ライバー・リンテウスはどうやら宗教的な暦だったと考えられる。
しかし、エトルリアの儀式の書が、エジプトのミイラとなんの関係があるのだろう?
このミイラはおそらく、紀元前3世紀ごろ(ライダー・リンテウスはこの時代にさかのぼるものであることから)、ローマに併合されたエトルリアからエジプトに逃げてきた裕福なエトルリア人ではないかという説がある。
エジプトで亡くなった、ほかの裕福な外国人と同じように、この若い女性も埋葬前に防腐処理されたののだろう。
ライバー・リンテウスの存在は、エトルリア人の埋葬習慣の一部として、死者のための記念だと説明できるかもしれない。だが、大きな問題は、ミイラと共に埋葬されていたパピルスの巻物の断片だ。
その巻物によると、死者はネシ・ヘンスという名のエジプト人女性で、神に仕えるテーベの仕立て屋パヘル・ヘンスの妻だという。
よって、エトルリア語が書かれたライバー・リンテウスとミイラ本人であるネシ・ヘンスは無関係のようで、この女性を黄泉の国へ送る準備をするのに、エンバーミング(遺体防腐処理)を行った職人がこのリネンしか手に入れることができなかったのではないかと思われる。
こうした歴史の偶然から、ライバー・リンテウスは、現存するエトルリア語の最古のテキストとして知られるようになったというわけだ。
References:The Liber Linteus: An Egyptian Mummy Wrapped in a Cryptic Message / written by konohazuku / edited by parumo
https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52309785/

1798年、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がエジプトで軍事作戦を開始した。このとき、兵士や軍関係者だけでなく、サヴァンと呼ばれる学者や科学者などが大勢帯同させられた。
戦争に巻き込まれたこうした学者たちが、ヨーロッパ人の古代エジプトへの関心を煽り、エジプトマニアを生み出す結果になった。
やがて、古代エジプトの遺物、像やパピルス、ミイラまでもが、ナイルをさかのぼり、ヨーロッパの美術館に輸出されるようになった。
こうして送られた多数のミイラのうち、とくに興味深いミイラがあった。そのミイラを包んでいたリネンには大量の文字が書かれていたのだ。
このミイラを包むリネンは「ライバー・リンテウス」(ラテン語で"リネンの本")として有名になった。現在、クロアチアのザグレブ考古学博物館に所蔵されている。
お土産としてヨーロッパに持ち込まれた女性のミイラ 1848年、ハンガリー王室大使館事務局ののクロアチア人職員であるミハイロ・バーリは、職を辞して、旅に出た。
エジプト、アレキサンドリアにいたとき、バーリはなにか土産を買おうと思い立って、女性のミイラが納められた石棺を購入した。
ウィーンの自宅に戻ると、バーリは居間の隅にこのミイラを直立の状態で置いた。ミイラを包んでいたリネンの包帯は取り外し、別のガラスケースの中に入れて展示した。
1859年、バーリが亡くなると、スラヴォニアの司祭だった弟のイリヤがミイラを受け継いだ。
イリアはミイラには興味がなかったため、1867年にクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアの研究機関(現在は、ザグレブ考古学博物館として知られている)にリネンもろとも寄贈した。
この時点では、誰もミイラを包んでいたこのリネンに文字が書かれていることに気がつかなかった。
リネンに書かれた大量の文字「ライバー・リンテウス」 1867年、ドイツのエジプト学者ハインリッヒ・ブリュッシュがミイラを調べて、初めて文字に気がついた。エジプトの象形文字に違いないと考えたが、ブリュッシュはそれ以上、詳しくは調べなかった。
それから10年後、ブリュッシュは友人のイギリス人探検家、リチャード・バートンと話す機会があった。
ルーン文字のことに話題が及んだとき、ブリュッシュは、ミイラのリネンに書かれていた文字は、エジプトの象形文字ではないことに気がついた。
文字がなにか重要なものかもしれないことには気づいたが、ふたりはエジプトの死者の書をアラビア語に書き直したものであると誤解した。
1891年、ライバー・リンテウスは、ウィーンに送られ、コプト語の専門家ヤコブ・クラルによって、徹底的に調べられた。
最初、クラルは書かれている言語は、コプト語、カリア語、リビア語ではないかと考えたが、よくよく調べてみると、エトルリア語で書かれていることが判明した。
エトルリア語は、イタリア半島の先住民族、エトルリア人が使用していた言語だ。
だが、リネンの断片を適切な順番に並べ直してみても、文章をちゃんと翻訳することはできなかった。
ミイラを包んでいたリネン、ライバー・リンテウスにはエトルリア語が書かれて
いた / image credit:public domain/wikimediaなぜ、エジプトミイラにエトルリア語が書かれていたのか? ほとんど文字が残されていないため、今日でさえ、エトルリア語は完全に理解されていない。それでも、このリネンに書かれている文字からライバー・リンテウスを示す特定の言葉をいくつか拾うことができた。
文章全体から見つかる日付や神々の名前をベースにすると、ライバー・リンテウスはどうやら宗教的な暦だったと考えられる。
しかし、エトルリアの儀式の書が、エジプトのミイラとなんの関係があるのだろう?
このミイラはおそらく、紀元前3世紀ごろ(ライダー・リンテウスはこの時代にさかのぼるものであることから)、ローマに併合されたエトルリアからエジプトに逃げてきた裕福なエトルリア人ではないかという説がある。
エジプトで亡くなった、ほかの裕福な外国人と同じように、この若い女性も埋葬前に防腐処理されたののだろう。
ライバー・リンテウスの存在は、エトルリア人の埋葬習慣の一部として、死者のための記念だと説明できるかもしれない。だが、大きな問題は、ミイラと共に埋葬されていたパピルスの巻物の断片だ。
その巻物によると、死者はネシ・ヘンスという名のエジプト人女性で、神に仕えるテーベの仕立て屋パヘル・ヘンスの妻だという。
よって、エトルリア語が書かれたライバー・リンテウスとミイラ本人であるネシ・ヘンスは無関係のようで、この女性を黄泉の国へ送る準備をするのに、エンバーミング(遺体防腐処理)を行った職人がこのリネンしか手に入れることができなかったのではないかと思われる。
こうした歴史の偶然から、ライバー・リンテウスは、現存するエトルリア語の最古のテキストとして知られるようになったというわけだ。
References:The Liber Linteus: An Egyptian Mummy Wrapped in a Cryptic Message / written by konohazuku / edited by parumo
https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52309785/