20階の窓辺から

児童文学作家 加藤純子のblog
毎日更新。児童文学情報・日々の暮らし・超高層からの眺望などニュース満載。

お誕生日

2023年12月25日 | Weblog
            

また、一つ、年を取りました。

今年もたくさんの皆さんに、ステキなカードや、美味しい洋菓子などをいただいてしまいました。
ありがとうございました。
写真に撮りましたが、PCの「写真」にしまっておきました。毎年の記念保存です。
(少しだけ、慎ましさという言葉を覚えた年齢です・笑)

たくさんいただいた洋菓子は、お元日に、みんなで遊びながらいただきます。


秩父の母が、幾つだったか、その年を過ぎた時から、もう一生、この年齢でいると宣言したことがありました。

83歳の時、父が85歳で亡くなり、その後、90歳を過ぎても、一人でスーパーに行き、お買い物をして、簡単な料理を作る。
神経痛がひどい人で、真夏でも、靴下を何足も履いて、軽い靴で歩いていました。

でも、顔に帯状疱疹ができ「失明するといけないから」と、入院した途端、骨粗しょう症だったので、車椅子になってしまいました。
けれど、認知症にもならず、自分が自分であることを守り続けた一生でした。

その母が94歳で亡くなったことを思うと、その考えも一理あるような気がします。
「年取ったから、甘えていいんだ」
母には、そんな考えはありませんでした。

もちろん、年齢的に、物理的に、周りに甘えざるを得ないところは出てきましたが・・・。
見方によっては、周りの人から見たら、可愛げのない、憎たらしいおばあさんだったかもしれません。

でも人間、幾つになっても、自らのアイデンティティと、人間としての尊厳を失わず生きていった、母のような生き方も、一つの生き方だと思います。
生まれが、祖先が江戸時代から何代も続く近江の商家の末娘。
だから母は、誰にでも愛嬌は振りまきます。でも根っこのところでは、「まあるく生きる。仲良く生きる」という視点が、年をとるほどに欠けて行ったような気がします。

入院中、「自分は自分。あんな惚けた生き方はできない」と、病院内の食堂で、他の人と距離を置いていた姿を見ては・・・。
その時の母の、他人への眼差しの強すぎる自意識やプライドの高さを、思い出しながら、そんなことを考えていました。
でも、それが母という人の人生だったのだろうな、とも思っています。

私は母とは、亡くなるまでずっと仲良しでした。だからといって、母は、娘である私に、寄りかかりなどしませんでした。
「体を大事にしてね」と、心配する言葉しか言いませんでした。蝋燭の炎が消えるように、命の火が消える数時間前まで。

そんな母が亡くなって、もう10年以上が経ちます。

さて、今日は、私のお誕生日。
私は、単純でもいい。まあるく生きる、みんなと仲良く生きる。
そんな人生になるよう、まずは、今年最後のカーブスで、体を鍛えてきます(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする