kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

松島にいる その 3。

2013-11-22 21:29:05 | kaeruの「おくのほそ道」

 松島は芭蕉が「おくのほそ道」への旅発つ時から 「松島の月先(まず)心に

かゝりて」と期待していた歌枕でした。来てみて期待以上の喜びを得て 「松

島は扶桑第一の好風(日本一の風景)にして」 と賛辞をささげています。それ

にも関わらず芭蕉は松島のくだりに句を出していません。 松島で詠んだ句も

出していないのです。

 その理由を長谷川さんは「古池の句」に溯って述べています。「古池」の句

で芭蕉は≪俳句に心の世界を切り開いたのです。≫その世界を詠わない句

を松島のくだりで出すわけにはいかなかった、と長谷川さんは指摘しました。

 

 さらに論をすすめて、芭蕉が自分の句をいれなかったのは、そのことで松島

をいっそう引き立たせたのだ、と述べています。

≪では、なぜここに自分の句を入れまいと思ったのか。それを解く手がかりが

すでに通り過ぎた笠島のくだりにあります。≫

 「笠島のくだり」 とは 「松島のくだり」 を章だてで21とすれば15に当たる一

文です。ここで芭蕉は 「此比(このごろ)の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、

〔笠島を〕よそながら眺(ながめ)やりて過るに、」 と述べ、

   笠島はいづこさ月のぬかり道   と詠みました。

 笠島の歌枕としての由来はここでは省略しますが、芭蕉の旅が歌枕を訪ねる

旅でもあったわけですから、笠島を見ることができなかったのは残念はことで

した。 同時にそれによって笠島にある藤原実方の墓は芭蕉にとって想像の世

界で生き、「おくのほそ道」の読者をも同じ思いに誘います。

 それによって、と長谷川さんは言います ≪この悲運の歌人(実方)への思いも

いよいよ深まります。ぴたり合わせず、ちょっとずらす、このかすかなズレが文章

に奥行きと広がりをもたらすことになる。≫ 

 この笠島での現実に起きた「ズレ」を≪松島のくだりで意図的に、しかも大胆に

実行されているのです。≫と述べ、さらに広重の富士の絵の例をもってその意図

を裏付けています。その絵の富士は山頂が画面からはみ出している、見る人の

目に雲海の中に突き入れているように感じられる。

 ≪松島のくだりで芭蕉が自分の句を出さなかったのは、これと同じと考えてもいい。

自分の句を出せば、きちんとまとまります。しかし、それでは富士山の頂上まで画面

にいれるように小じんまりと完成してしまう。そこで自分の句をわざとはずして、いわ

ば文章を破って大きな風穴をあけたのです。≫

 芭蕉の次の句をあげて、長谷川さんのこのくだりでの話は終わります。

    霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

≪これを絵にたとえるなら、画面全体に霧雨だけを描いて「富士」と題をつけるような

ものです。≫


松島にいる その 2。

2013-11-21 21:07:40 | kaeruの「おくのほそ道」

 長谷川さんが紹介している芭蕉が松島で詠んだ句というのは、

  嶋じまや千々にくだきて夏の海     というのです。

なぜ、この句を 『おくのほそ道』 に入れなかったか、二つの理由をあげ

ておられます。

 ≪ひとつの理由はこの句の世界はすでに本文でいい尽くしているから

です。(略)

 それよりも芭蕉はこの句を気に入らなかったのではないか。というのは

「嶋じまや千々にくだきて」も「夏の海」もどちらも現実の景色です。古池

の句で切り開いた心の世界がこの句にはありません。心の世界を展開

するためにみちのくまできたのに、こんな句を松島のくだりに入れるわけ

にはゆかない。そう思ったかもしれません。≫

 この部分を理解してもらうためには、このテキストの最初に戻り、

  古池や蛙飛こむ水のおと   芭蕉    

についての長谷川さんの理解を知らなければなりません。

 この句を 「蛙が古池に飛びこんで水の音がした」と解釈しているとこの部

分の理解はできないことになります。それは、芭蕉がどういういきさつでこの

句をつくったか、の理解に立っての解釈が必要だからです。芭蕉の門弟の

支考の書き残したものにもとづき、

≪ある日、芭蕉は隅田川のほとりの芭蕉庵で何人かで俳句を詠んでいまし

た。すると庵の外から蛙が水に飛びこむ音が聞こえてきます。そこでまず、

「蛙飛こむ水のおと」と詠んだ。その上に何とかぶせたらいいか、しばらく考え

ていましたが、やがて「古池や」と決めました。≫

 と述べておられます。そして、蛙の飛びこみを見ていない芭蕉が心に描いた

のが「古池」で、

≪「古池」は「蛙飛こむ水のおと」が芭蕉の心に呼びおこした幻影だったのです。

 つまり古池の句は現実の音(蛙飛こむ水の音)をきっかけにして心の世界

(古池)が開けたという句なのです。つまり現実と心の世界という次元の異なる

ものの合わさった<現実+心>の句であるということになります。≫

 

 蛙が詠まれている句ですから、kaeruとしては最大の関心をもって臨まなけ

ればならない部分です。それに一般的な理解 「古池があって、静かなところに

蛙が飛びこんでポチャン、そしてまた静けさが戻ってきました」という理解に浸り

きっていましたから、これは何を言っているのだ、の思いです。

 ≪言葉の生まれた順番どおりにこの句を読みなおすと、芭蕉は蛙が水に飛び

こむ音を聞いて古池を思い浮かべたということになります。(なるほど)「古池」

は「蛙飛こむ水のおと」が芭蕉のこころに呼びおこした幻影だったのです。≫

  

 音は現実、池は幻影、それを結びつけるのが “言葉の力=俳句の力” という

わけか。(kaeru、納得)。

 引用文ばかり多くなってオリジナリティーの無い「つぶやき」ですが、そこは大

目に見て下さい。 明日も「引用」します。


松島にいる その 1。

2013-11-20 20:57:37 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅 (11月18日着信)

○現在地 松島に到着しました。おめでとうございます。

○次の目的地  石巻

○次の目的地までの距離  43.3km

○次の目的地までの歩数 58,068歩です。

 松島、この地も到着に気付かずにいました。NHKの長谷川櫂さんによる

「おくのほそ道」では特別に重視している場所です。

 実は20年位前に、そのころ勤めていた職場の仲間と東北旅行で、立ち

寄った筈なのですがどういうわけか憶えていないのです。そのあと廻った

浄土ヶ浜は印象に残っているのですが。

 長谷川さんの「おくのほそ道」にもどります。≪≫引用文 

 松島にはなぜ芭蕉の句がないのか と長谷川さんの松島の文の

はじまりです。≪松島のくだりは 『おくのほそ道』 のなかでもっともいきいき

した文章でつづられています。

 芭蕉はなぜ松島のくだりを高揚した筆致で描くことができたのか。ひとつ

の理由は~松島こそ芭蕉が訪ねたいと思った第一の場所だったかからです。

 もっと大きな理由は松島が現に存在していたことです。(それまでの歌枕は

廃墟となったところを目にしてきたのでした)、松島にきてみて夢に見たとお

りの、いやそれ以上の美しい、これがうれしかったにちがいありません。≫

 読者はこの美しい松島での芭蕉の一句を期待します。

≪しかし芭蕉はここで自分の句を披露しなかった。曽良の句だけ記して、

  松島や鶴に身をかれほとゝぎす    曽良 

 予は口をとぢて、眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、

島の詩あり。 原安適、松がうらしまの和哥を贈らる。袋を解きてこよ

友とす。 且、杉風、濁子発句あり。

 「予は口をとぢて」 とはここは曽良にまかせて私は句を詠まないということです。

 感激のあまり寝つけず、江戸の弟子や友人から餞別に贈られた松島の漢詩や

和歌や俳句を読んだというのです。≫

 松島のあまりの素晴らしさに句ができなかったという説もありますが、長谷川さん

は芭蕉が松島で詠んだという一句を紹介しながら、なぜその句を 『おくのほそ道』

に入れなかったのか、それは芭蕉が 「予は口をとぢて」 と書いているとおり、自分

の句を入れたくなかった、つまり芭蕉の意志として入れなかったのだと論を進めて

います、そのことについては明日記します。(下線はkaeru)


長谷川 櫂 『おくのほそ道』 - 1 ー

2013-10-30 17:55:48 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅 (着信10月29日)

○現在地  福島に到着しました。おめでとうございます。

○次の目的地  飯塚

○次の目的地までの距離  34.8km

○次の目的地までの歩数  あと34.8km46,685歩で達成です。

前回(2013-10-05)、雲巌寺に到着、次は那須にという報告でしたが、

いつの間にか那須を過ぎ、福島に着いていました。

 NHKテレビテキストに 『100分de名著 おくのほそ道』 があります。

 今月4回放映された番組のテキストで、俳人の長谷川 櫂さんの案内

で 「おくのほそ道」を歩くものです。 4回のうち3回は観ているのですが、

よく聴き取れずにいましたので、テキストにもとづいて書きます。


 長谷川 櫂さんについては 2013-01-06 でも触れ 「3.11」 に関連

して詠んだ短歌を三首紹介しました。 俳人・長谷川さんが何故短歌で

あったのかについて、『震災歌集』 の「はじめに」に、こう書かれたいます。

 ≪その夜(3月11日)からである。荒々しいリズムで短歌が次々に湧きあ

がってきたのは。私は俳人だが、なぜ俳句ではなく短歌だったのか、理

由はまだよくわからない。「やむにやまれぬ思い」というしかない。≫

 この本の最終頁に 二〇一一年三月二十七日 の日付があります。

 11日の当日から俳人の心から噴出した歌心、本の帯によると12日間

の 「短歌による記憶と記録」 です。長谷川さんが 『震災句集』 を出版し

たのは翌年の1月でした。このことを ≪「大震災ののち十日あまりをすぎ

ると、短歌は鳴りをひそめ、代って俳句が生まれはじめた。しかし、『震災

句集』 をつくるのに1年近くかかったのは私の怠け心を別にすれば、俳句

のもつ 「悠然たる時間の流れ」 を句集に映したかったからである。≫と書

かれたいます。

 

 こういう俳人・長谷川 櫂さんの案内で知る 「おくのほそ道」 です。 「100

分de」 というおかげで、深い内容がよくまとめられて読みとれると思います。

これからの 「kaeruのおくのほそ道」 でも紹介していきたいと思いますので、

お付き合いいただければ嬉しいことです。


芭蕉の足跡、四季を超えて。

2013-10-05 22:37:17 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅 (着信 10月5日)

○現在地  雲厳寺に到着しました。おめでとうございます。

○次の目的地  那須

○次の目的地までの距離  33.1km

○次の目的地までの歩数  あと33.1km44,315歩で達成です。

 芭蕉が「おくのほそ道」の旅のなかでもっとも長く滞在したのは黒羽での13日間

ですが、この地に到着した三日目に雲巌寺を訪ねています。 曽良の「旅日記」に

「五日 雲岩寺見物。朝曇。~」とあり、元禄二年四月五日のことで、1689年5月23

日になります。 ここで芭蕉は

  木啄(きつつき)や庵(いほ)は破らず夏木立   と詠んでいます。

≪寺つつきと異名のある木啄鳥にも破られずに庵が残っていると詠じ、(庵に住んで

いた仏頂和尚への)高徳礼賛の意をこめる≫(岩波文庫『おくのほそ道』注)

 雲巌寺は 【栃木県大田原市雲岩寺27】 で Gm のストリートビューで見ますと、路

面に県道321号線と白く書かれた道に面して朱塗りの太鼓橋の欄干が見えます。

ただ、写真の時期は夏と思われます、多分今は、紅葉へと移りつつあるのでしょう。


こちらは日光到着、北へ……。

2013-09-26 22:26:00 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅 (着信 9月26日)

○現在地
日光に到着しました。おめでとうございます。

○次の目的地  黒羽

○次の目的地までの距離  42.9km

○次の目的地までの歩数 あと57,504歩で達成です。

 芭蕉の旅は(象潟までは)北へ向かう旅・北上、本州縦断は北から南へと南下。

「北下」とか「南上」という表現はない、のかな?

 北が上で、南が下というのは北海道から本州、九州・沖縄とつながる日本全図

が頭にあっての感覚で、そういう図が描けない時代に北上という認識は自然の変

化に応じていたのでしょう。

 季節の変化、台風の動きなど西から東が大きくみれば、南から北へと認識されて

いったのでしょうか。 さらに溯って「日本人の移動」が、南の島々からの人々と中国

大陸・朝鮮半島からとか、シベリア方面からなど入って来た人々などの大きな流れ

を鳥瞰した場合、「北上と南下」の二つにみることができるのでしょう。

 

 というわけで、「kaeruのおくのほそ道」も一度に二つの相反する方向を目指し、進

んでいる訳で、そのおかげで同じ日に家康の生まれた土地(岡崎市)と祀られた所

(日光)を訪れるというスーパーマン的離れ業をお見せできました。


おくのほそ道、最初の歌枕 「室の八島」 に。

2013-09-23 20:07:52 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅 (着信 9月21日)  

○現在地 室の八島に到着しました。おめでとうございます。

○次の目的地 日光  ○次の目的地までの距離  29.9km

○次の目的地までの歩数  日光まであと29.9km40,178歩で達成です。

 アプリが当地(室の八島)で紹介している句は、

  いとゆうに結びつきたるけふりかな   

ですが、この句は「おくのほそ道」本文にはなく曽良の「俳諧書留」にある、とか。

 芭蕉の旅は歌枕を訪ねる旅でもあり、「おくのおそ道」の最初の歌枕であった

「室の八島」は古くは池から立ちのぼる水蒸気が煙のようにみえることから、ここ

での古歌は「煙」を詠みこんでいます。

 それに倣って詠んだもので、「陽炎(いとゆう・糸遊は陽炎のこと)に室の八島

の清水の煙(水蒸気)が融けあいひとつになっている」 という意味です。 ただ芭

蕉の訪れより四年前の貝原益軒の記したものに 「村の者が、今は水がないから

烟(けむり)もない、と言っている」 とありますので、芭蕉の当時も 「名のみなりけ

り、跡なき」(曽良「備忘録」)でした。

 

 なお、室の八島の所在とされている大神神社(おおみわじんじゃ)は

 googleマップで次の住所です、栃木県栃木市惣社町477大神神社。 

 神社らしい雰囲気が伺えます。


元禄二年三月廿七日、粕壁宿泊。

2013-09-15 20:50:06 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅
○現在地
春日部に到着しました。おめでとうございます。
次の目的地目指してがんばりましょう。

○次の目的地   室の八島   

○次の目的地までの距離  68.9km

○次の目的地までの歩数   91,516歩

 これは三日前・12日に受けた報告です。 今日のところでは、「あと39.4km

あと52,453歩で達成です」 とのことです。 昨日までで29.5km ・39,063歩 

歩いたわけです。

 

 春日部の当時の地名が粕壁で、現在の春日部市の中心部にその地名の町が

あるそうで、 粕壁宿の名を残しているのでしょう。

 『おくのおそ道』本文では千住をあとにして草加に泊まったように書かれています

が、同行した曽良の日記には「廿七日  夜カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。」と

記していますので、これは芭蕉の記憶違いでしょう、という説明になっています。

(井本農一『奥の細道をたどる』)

 この井本さんの本に 「春日部市を自動車で通り抜ける。この地方ではちょっと大

きな街で、市街には商店街もいちおう整っている。人口三万余だという」とあります。

著者がこの旅行記を雑誌「俳句」に掲載したのは昭和30年1月号からだということ

で、そのころの3万が現在23万を大きく超えています。

 


 もうひとつの千住。

2013-09-10 21:23:31 | kaeruの「おくのほそ道」

 千住を訪ねてみたいという思いのなかには、芭蕉とのつながりではない

ものがあります。 中学の国語だったかと思いますが、杉田玄白の 『蘭学

事始』 をあつかった文章で、 「小塚原に腑分を見たりし翌日、良沢が宅

に集りて……」 というところは今でも思い出されます。

 その現場であった千住骨ケ原(小塚原)」の刑場跡が今は、荒川区南千

住の延命寺内だと案内には書かれています。 「芭蕉の縁」 で一緒に訪ね

てみましょう。

 

 岩波文庫の 『蘭学事始』 の表紙に ≪福沢諭吉は友人とともに繰り返し、

『蘭学事始』 を読んだが、『ターヘル・アナトミア』 の原書を前に 「艪舵なき

船の大海に乗り出だせしが如く」 呆然とするばかりだったとある条に至るや、

常に感涙し無言に終ったという。蘭学創始にあずかった先人たちの苦闘の

記録は今も鮮烈な感動をよぶ」≫と記されています。

 中学生という成長して止まない精神に、やはり 「感動」 を深く与えたのだと

思います。 その後、藤森成吉著 『近代日本の先駆者たち』 (新日本新書19

72年)で、「幕末三大事件=玄白の 『解体新書』 の訳業、シーボルト事件、

蛮社の獄=」の一つとして 「三事件ともまったく民間のエネルギーから起こり、

今日の日本の進展の実証を成すものである。 これは日本民族の誇りとして、

永久に忘れてはならない事件である」 という評価を知りました。

 

 森浩一さんの逝去の記事から、「真理の追究と知識形成」 自体に価値をお

き、世間一般や時の権力の評価を脇に置く、ときにはそれに抗する 「町人学

者像」 に触れてきました。 時代を切り拓く者として在野でも公の立場でも、自

分の「真理追究と知識形成」 の評価基準をそれ自身に置き、名声・権力・金銭

に置かない姿勢が 「町人学者像」 でしょう。


矢立てのはじめに。

2013-09-09 21:12:46 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅
○現在地
千住に到着しました。おめでとうございます。
次の目的地目指してがんばりましょう。

○次の目的地
春日部

○次の目的地までの距離
26.5km
○次の目的地までの歩数
春日部まであと26.5km35,922歩で達成です。

 深川→千住 15kmの旅は船旅というのも大げさですが、

「むつまじきかぎり宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云う所にて船を

あがれば」 という具合で何人ぐらいが一緒に乗り込んできたのか、そのなか

にご婦人がいたのか、分かりませんが……。

 当時?の千住大橋の光景が 『江戸名所絵図』 で見られます。

http://homepage3.nifty.com/onihei-zue/547sakuhin.htm

図で橋を渡った左側に船着場が見えますが、そこが芭蕉たちが下りた所

なんでしょう。 といっても図会は芭蕉の旅から150年位あとの光景ですの

で橋もなかったでしょうし、かなり違ったものだったでしょう。


 現在(とはいえ2000年頃)の深川や千住の有り様は、

 http://homepage3.nifty.com/drnobu1/newpage14.html で。

 

 さて船を上がれば、「前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷に離別の

涙をそそぐ。  

   行く春や鳥啼き魚の目は泪

これを矢立の初めとして、行く道なほ進まず」

 

 こうやって、PC世界で「おくのほそ道」をたどりはじめると、実際の場所に

立ってみたくなります。 深川界隈や千住の矢立の句碑などを見ておくのも

「前途三千里」 の思いをいくらかでもくみとることに役立つでしょう。