kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

尾花沢 -句と句意-。

2013-12-26 21:47:51 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅 (12月26日着信) 

○現在地 尾花沢に到着しました。

○次の目的地  立石寺

○次の目的地までの距離  15.0km

○次の目的地までの歩数  20,016歩で達成です。

 長谷川さんの「おくのほそ道」では尾花沢については、二三行と「紅の花」の

句を記しているだけで、そのことは前回ここに書きました、(2013-12-21)。

 ただ一昨年ここを訪れた時、街を歩いていて「芭蕉・清風歴史資料館」という

建物に出会い、列車の時間に間に合う間と寄ってみました。そんなこともある

ので「長谷川・おくのほそ道」とは別にすこし書いてみたいと思います。

 まず、ここで詠まれた句を

    涼しさを我宿にしてねまる也

   這ひ出でよ飼屋が下のひきの声

   まゆはきを俤にして紅粉の花

   蚕飼する人は古代の姿かな    曽良

  句意  岩波文庫『おくのほそ道』 脚注による。

    涼しさを… 他人の家であることを忘れ、涼しさを一人じめにして、のんびりと

        くつろぐことである。「ねまる」は土地で「くつろいで坐る」の意。

  這ひ出よ… 蚕室の床下で蟇の低い鳴き声が聞える。蟇よ、ここに出て来て

        私の相手をしてくれの意。

  まゆはきを… 前回記。

  蚕飼する… 養蚕する人々の清浄を旨とした質朴な服装に古代の人々の姿を

        感じとった吟。蚕飼は春の季題だが、ここは夏蚕とみる。


「尿前の関」は「おくのほそ道」の臍。

2013-12-21 20:48:36 | kaeruの「おくのほそ道」

 「尿前の関」⇒「臍(へそ)」、などということを長谷川さんが言っているわけ

ではないのですが、まずこの文を読んで下さい。

≪まず、『おくのほそ道』 全体が太平洋側と日本海側の二つに分かれて

いる。境は東北山中の尿前の関です。≫

そして、≪このうち太平洋側はみちのくの入口である白河の関までとみち

のくに分かれます。 (略) 一方、日本海側は越後の市振の関までとその先

に分かれます。白河、尿前、市振という昔の関で四つに分かれる。≫

 ① 江戸ー白河の関(太平洋側)  ② 白河ー尿前の関(→内陸)

 ③ 尿前ー市振の関(内陸→)   ④ 市振ー大垣(日本海側)

 昔の関が実際の旅のうえでも節目になっていると同時に「おくのほそ道」

の文学としての構成上、重要な節目になっているという指摘です。

 

 「kaeruのおくのほそ道」旅程では、尿前の関を後にしたところで、太平

洋側から日本海側へ、難所 ・山刀伐峠(なたぎりとうげ)を越えなければ

なりません。多分アプリ上のkaeruが歩いている場所は、その辺ではない

でしょうか。その峠を越えれば尾花沢に入ることができます。

 「おくのほそ道」ではその尾花沢で裕福な紅花商人宅に十泊することに

なります。ここで  まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花  

を詠んでいます。

 「まゆはき=眉掃き」は化粧道具、まゆはきの形を思わせるように紅の

花が咲いている、の句意。下のTV画面は紅花とまゆはき(白)です。

                

 長谷川さんの本に戻ります。

≪ここで詠んだ句を平泉、尿前の関の句に並べると、

  五月雨の降りのこしてや光堂

  蚤虱馬の尿する枕もと

  まゆはきを俤にして紅粉の花

 蚤虱の句があるからこそ五月雨の光堂はほのかに輝き、紅の花はいっそう

華やぐ。≫

 芭蕉の俳句の世界が立体的に浮き上がってくる感じがします。


尿、芭蕉はなんと詠んだのか。

2013-12-19 21:22:47 | kaeruの「おくのほそ道」

 『おくのほそ道』の「尿前の関」の句に関して、こんな説明がされています。

≪従来、「尿」をシトと読むかバリと読むかで諸説があったが、野坡(やば)

本・曽良本の「バリ」の傍訓が確認された現在、異論の余地はない。当時の

言語意識では、バリは馬などの動物や下賤の人の小便をいい、シトは人の

小便をいった。「バリ」の傍訓はそうした言語意識によるもので、芭蕉は「尿」

の漢字を当てることで、尿前の関の意を利かせたのである。≫

(角川ソフィア文庫・『新版 おくのほそ道』)

 

 その野坡本の「尿前の関」の関係部分がこの二枚の写真です。

 左側の中位の尿の字に「シト」と振り仮名がされています。これは地名として

の尿前の読み方、右の尿には「バリ」と振り仮名。

  

 この自筆本が世に紹介されたのが平成八(1996)年十一月です。

 この「つぶやき」でも触れたことがあります、参考にして下さい。

  『芭蕉自筆 奥の細道』  2013-06-19 

 もう一度、芭蕉の口調で読んでみましょう。

         のみしらみ うまのばりする まくらもと


関所もぐり。

2013-12-18 20:46:05 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅  (17日着信)

○現在地  尿前に到着しました。

○次の目的地  尾花沢

○次の目的地までの距離  41.8km

○次の目的地までの歩数  55,821歩で達成です。

「宮城県 大崎市 鳴子温泉尿前」、これが現在の「尿前」の地名です。

読み方は「にょうまえ」ではなく「しとまえ」で、芭蕉曽良の二人は鳴子温泉

に寄らないで、尿前の関へ向かいます。

 曽良も芭蕉もこの関所で咎められ足止めされた様に書いていますが、金

森敦子さんの本では二人は初め他の関所を通る予定だったので、尿前の関

所では足止めになったのだろうと、そして番所の関守とやりとりしているうちに

「銭さえ払えば通ることができると気づき」と書かれています。

 「もちろん曽良の日記にはこんなことは記されていない。以上は推測だが、

可能性は十分あっただろうと思う。」

 

 そんな苦労をして関所を通り、今の宮城県と山形県の県境を過ぎた辺りに二

人が宿をとった「封人の家」があります。封人とは辺境を守る人のことで、この地

では庄屋がその任にあたっていました。

 翌日は大雨、泊まりを重ねることになり、次の一句が残ることになります。

  蚤虱馬の尿する枕もと 

 句意(岩波ジュニア新書『おくのほそ道の旅』) 「疲れきっているため、床につ

いてもなかなか寝つかれない。蚤や虱にさされるうえに、手桶の水を一度にぶち

まけるような激しい馬の尿音が枕元に響いてくる。わびしく切ない旅寝である」

 

 この「尿する」は「しとする」とルビがふってありますが、金森さんの本では「ばり

する」と読んでいます。子どもの頃の記憶でも馬の小便の勢いは「シト」なんとい

うものではなく手桶の水をぶちまける音「バリ」が相応しいと感じます。それに尿

の字を「ゆばり」とも読みます、「湯ばり」とすれば、まさに大地に湯気をたてる勢い

を表しているといえるでしょう。

 試しに、声にして読んでみて下さい、「うまのシトする」か「うまのバリする」か。


一期一会。

2013-12-09 21:53:18 | kaeruの「おくのほそ道」

     五月雨の降りのこしてや光堂   

 一昨日紹介済みの中尊寺での句です。井本さんの本からの紹介でした

が、今日は長谷川さんの本にもどっての話です。

 その前に、kaeruの話を。 一昨年中尊寺に足を運んだ時、時間の関係

と見学者の多さに中へ入ることを諦めてしまい、ここは「見残しの光堂」に

なってしまいました。やはりもう一度訪ねていくべきところです。

 今では「もう一度」などと簡単に言ったり書いたりしていますが、芭蕉の時

代はまさに命掛けの旅でしょうから、歌枕を訪ねるにしても寺も知人宅も、

句を詠むことも一期一会の思い深く向きあっていたに違いありません。その

思いの深さに至ることはかなわぬことですが、その思いのあることを心にお

きつつ読まねばと思います。

 

 長谷川さんの本の魅力は、その気持ちが感じられるからです。 特にそう

書かれているわけではありませんが、「3・11」を通じて歌集と句集を世に

出し、今回の「おくのおそ道」をはじめるに当ってもこう書かれています。

≪ニ〇一一年春、東日本大震災が起こり、東北地方の太平洋岸一帯を大

地震と大津波が襲いました。時をさかのぼると、今から三百年前の夏、この

被災地に沿って芭蕉は曽良と二人、旅をしました。 それが 『おくのほそ道』

です。≫

≪『おくのほそ道』 をただの旅行記としてでなく、芭蕉の人生の中にすえ

て読むことによって、悲しみや苦しみに満ちたこの世界をどう生きていった

らいいのかと問いつづける芭蕉の姿が浮かびあがってくるのです。 それ

は大震災後を生きる人々への大きな示唆となるにちがいありません。≫

 ここには、俳人としての長谷川櫂さんが「3・11」をうけて、芭蕉の命掛け

の旅を追体験し、芭蕉の会得したものを自らのものにすると同時にそのこ

とが「大震災後を生きる人々への示唆」であるとしています。

 

 人は多くの人々の死と遭遇した時、人と人との出会い、偶然にせよその

遭遇そのものの意味に思い至り「一期一会」の思いを深めます。芭蕉が

この旅をつうじて会得したものを長谷川さんは次のふたつにまとめて、こ

う述べられています。

≪芭蕉は不易流行(ふえきりゆうこう)と「かるみ」という二つの重要な考え方

をつかむことになります。不易流行とは宇宙はたえず変化(流行)しなが

らも不変(不易)であるという壮大な宇宙観です。また、「かるみ」とはさまざ

まな嘆きに満ちた人生を微笑をもって乗り越えてゆくというたくましい生き方

です。≫

 私もまた、この二つを「3・11」以後を生きる者への示唆として理解していき

たいと思います。


中尊寺着、「芭蕉の馬脚」。

2013-12-07 21:47:30 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅
○現在地  中尊寺に到着しました。

○次の目的地  尿前

○次の目的地までの距離  66.0km

○次の目的地までの歩数  88,311歩で達成です。

 今夜は長谷川櫂さんの「おくのほそ道」ではなく、井本農一さんの 『奥の細道を

たどる』(角川選書・昭和48年4月 原本は昭和20年代後半~30年頃のもの)

です。 「おくのほそ道」本文 

 ≪兼て耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を

納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽ち

て、既に、頽廃空虚の叢(くさむら)と成るべきを、四面新に囲みて、甍(いらか)を覆

ひて風雨を凌ぐ。暫時(しばらく)千歳の記念とはなれり。

    五月雨を降りのこしてや光堂  ≫

井本農一さんの文

 ≪(略)芭蕉が来たときは、経堂の別当が留守で、芭蕉は経堂の中は見ていないの

である。だから、「二堂開帳す」は例の文飾である。事実経堂の中には三将の像などは

なく、今日も~があるだけである。芭蕉もとんだところで馬脚をあらわしてしまったもの

である。まして凡人の我々は、自分でみないこと、自分で感じないことは書いてはいけ

ない。人の話は、みんな話だと思って聞けばよい。話は、話以上のものでもなく、話以下

のものでもない。≫

 

 俳聖(こういう言い方は嫌いですが)ともいわれる芭蕉でも「馬脚」をあらわす、となれば

kaeruの脚四本とも馬の脚のようなもので、引用文に引用文をつなげて字数を稼いでい

る「つぶやき」では、出る幕がなくなるの感です。

 ものを書くことを生業としている人にはそういう厳しさが求められるのでしょうが、と言い

訳を言いつつも、それでも引用文は引用文として、「自分でみたこと・自分で感じたこと」

はそれとしてけじめをつけた書き方を忘れてはいけないと、思いました。


平泉にて 夏草や…。

2013-12-04 20:27:28 | kaeruの「おくのほそ道」

 『おくのほそ道』の平泉での一句

  夏草や兵どもが夢の跡  

に触れないで平泉をあとにするわけにはいきません。

 これに並べて曽良の句

  卯の花に兼房みゆる白毛かな 

があります。

 このURLで『おくのほそ道』の本文が読めます、また風景も見れます。

 http://www.bashouan.com/ptBashouHI.htm 

 

 長谷川さんの文より、

≪芭蕉と曽良は義経主従が立て籠って討ち死にした高館に登りました。ここから

見わたすと眼下を北上川が流れ、上流ははるか北方の南部藩へとつづいています。

まさにこの旅の最北端の地らしい眺めです。二人は藤原一族や義経たちをしのび、

「笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ」、 時にたつのも忘れて涙を落したとあり

ます。≫

≪ここにたどり着くまで芭蕉と曽良はみちのくを旅して、古い日本の歌人たちがつくり

あげた歌枕の廃墟をいくつも見てきました。その最終地である平泉の高館に立ったと

き、二人の胸にあふれてきたのは(略)、時というものは何もかも押し流してしまうとい

う無常迅速の嘆きだったはずです。≫

 二つの句について、

≪「兵ども」は直接は義経主従、次に藤原三代をさしていますが、この句はそれだけに

収まらない深々とした哀しみをそなえています。それは義経や藤原氏同様、無常迅速

な時間に押し流されたみちのくの歌枕の面影が句の背後にちらつくからです。

 句の構造をみておくと、「夏草」はあたりに茂る現実の夏草の描写、「兵どもが夢の跡」

は夏草を目にして生まれた芭蕉の心の世界、つまり〈現実+心〉の句です。この句もまた

古池の句を発展させた句です。≫

 

 一昨年、宮城の丸森の墓地に先祖の墓を訪ねた折、この高館に立ち寄り北上川の流れ

を見たことを思い浮かべ、新たな気持ちで再度訪れてみたいと思いつつ引用文のみの今

日の「つぶやき」を終ります。

 


平泉着。

2013-12-03 20:53:17 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅 (12/3着信)

○現在地  平泉に到着しました。

○次の目的地  中尊寺

○次の目的地までの距離  15.8km

○次の目的地までの歩数  21,142歩で達成です。

 

 長谷川 櫂さんの『震災句集』に、

  『おくのほそ道』 の詞書がある句が二つあります。

     春行くや翁の道のずたずたに

      この句の次頁に   

    ずたずたの心で春を惜しみけり

   もう一句 『おくのほそ道』 として

          笠を置き杖を横たへ涼みけん

 

 長谷川さんがNHKの 『100分de名著 おくのほそ道』 で東北を訪ねたの

はこの八月です。

 ≪二〇一三年八月、東北は死者たちでにぎわっていた。平泉でも松島でも

立石寺(山寺)でも蜩の声や風の音にまじって精霊たちのざわめきやささや

きが聞えた。≫

 ≪東北はこうした生者と死者の日常的な濃厚な交わりが今も残っている場

所なのだ。≫

 ≪今や定評となりつつある東北人の慎ましさというものも、彼らがつねに死

者たち、つまり先祖とともに暮らしているという意識を心の奥にもちつづけてい

ることと無関係である筈がない。死者に対する敬虔な思いだけが生者に対す

る謙虚さを育むことができるのだ。≫

 


登米という町。

2013-11-29 21:23:46 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅  (11月28日着信)


○現在地  登米に到着しました。

○次の目的地  平泉

○次の目的地までの距離  39.5km

○次の目的地までの歩数  52,852歩で達成です。

 『おくのほそ道』の「石巻」章の終りに「心細き長沼にそふて、戸伊摩(といま)

と云所に一宿して、平泉に到る」と書かれている戸伊摩が登米です。

 この地には私も「3・11」後の支援で石巻に行った時の宿舎として二度ばかり

行きました。 一度は近くにここの出身者である漫画家石ノ森章太郎の生家の

近くだという古風な家でした。二度目もそことは違う民家でしたが、やはり古い

民家で大きな神棚がありました。

 登米市(とめし)は登米町(とよままち)など登米郡の町村が中心に2005年に

合併してできた市です。 登米町は「みやぎの明治村」と称しているように、地域

全体として明治時代の建物が残っているのでしょう。

 二度泊まった家が明治時代からのものか分かりませんが、わずかな時間でし

たが落ち着いた町の雰囲気が感じられて、その町を訪れるという目的だけで行っ

てみたい町です。


石巻に着いて。

2013-11-23 21:49:52 | kaeruの「おくのほそ道」

○現在地  石巻に到着しました。  (11月23日着信)

○次の目的地  登米

○次の目的地までの距離  29.9km

○次の目的地までの歩数  40,055歩で達成です。

 歩いていれば変化が生まれます。それが自分の求めていたことか、自分とし

ては避けたかったことかは別にして。歩かなければ、変化は先方からやって来、

その場合こちらは受け身にならざるを得ません、歩いていての災難は避けうる

可能性がありますが。

 架空の旅でも、歩数と距離によって着くべき所に着く、ということで今回は石巻。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  この地については、NHKの 日めくり奥の細道=復興と祭り/石巻

2013-06-26  が最近の映像を見せてくれています。画面では見にくいのですが

祭りとその背景を見て下さい。

 

 長谷川さんの 『震災歌集』・『震災句集』 から 「いのちの歌と言葉および俳句」。

  短歌二首   

    かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを

    みちみてる嘆きの声のその中に今生まれたる赤子の声きこゆ

  言葉

     俳人や歌人の中には戦争や大災害は俳句や短歌にすべきではないと考えている人もいる。

   しかし私は人々の言葉にならない喜びや悲しみを俳句や短歌にできないで何が詩歌かと思う。

   詩歌はつねに人々のそばに寄り添っていなくてはならない。

  俳句三句

    大津波死ぬも生くるも朧かな

    天地変いのちのかぎり咲く桜

     列なして歩む民あり死やかくもあまたの者を滅ぼさんとは  ダンテ『神曲』                                                                                                            迎へ火や海の底ゆく死者の列