昨日の「kaeruのつぶやき」へのワイコマさんのコメントにコロナ感染に関連して「五類」という言葉が書かれていました。
この本です、例により読みかじって未読のまま積読のなかにありました。
この本(中央公論社刊 不破哲三『不破哲三 時代の証言』2011年3月刊)の「まえがき」に、「この本をつくるきっかけになったのは、二〇一〇年五月、読売新聞社からの、同紙掲載の「時代の証言者」の一人になってくれ、との申し込みでした」とあります。
掲載された記事はこちら、右の11 日付で29(回)の末に(おわり)とあります。その前々回の27(8日付)の最後の部分に、
「私自身の理論研究では、国会議員や党の書記局長、委員長、議長を務めていた時期に比べると、少し余裕ができたので、いろいろな主題が浮かんでいます。
一つはスターリンの大国主義の歴史。ソ連時代の資料が広範に出てきたので、それを活用して戦前・戦後の歴史を追跡したい。
もう一つはマルクスの「資本論」の形成史です。以前、「恐慌」論を中心に取り組みましたが、その完結編を書きたい。理論の研究にきりがないのです。」と記されています。
このことは以前もつぶやきました。
スターリンの大国主義については『スターリン秘史』として全六巻にまとめられました。
もう一つの大テーマ・『資本論』形成史研究は『新版 資本論』全12分冊に結実しています。12分冊中7分冊までで第一部と第二部が発行され、先月第三部5分冊の第一分冊目が出されていました。
昨年9月刊の第一冊目から読み通しをはじめて、7分冊目まで目を通し終わったので先日8分冊目を入手、読みだしました。読むといっても文字を追って目を通すので精一杯、第一部は以前にもそれなりに読んでいたので、ある程度筋を追いながらという感じでしたが、第二部に入ると目は文字を追うけれど脳に入ってこない、それでも以前とは違うのは不破さんの第二部への評価が頭にあったことです。
不破さんは、「『資本論』全体の組み立てからいうと、第二部は、実務的な、無味乾燥な部分などでは決してないのです。ドラマ性という点でも、むしろ、『資本論』全巻のなかで、もっともドラマ性に富んだ巻」と評しています。それを頭に置いて読み進めると、数式の連続もドラマの一局面かと思えてくるのでした。
第三部も不破さんの諸著書を杖と頼み、読みすすめられたらと思います。
今日の「しんぶん赤旗」の「潮流」です。
「とにかく暑すぎる。猛暑、酷暑、激暑、炎暑、極暑。ほかにも暑熱や炎熱など、度合いを示す言葉はたくさんありますが、どれもピンとこないほど。最近では災暑なる言葉も表れています▼人間はほぼ一定の体温を維持できる恒温動物です。体内でつくる熱を放散させる機能がありますが、気温が高くなればなるほど放熱が進まず、体に熱がこもりやすい。そうなると、熱中症になる危険も高まります▼おととい浜松市で国内の最高気温に並ぶ41・1度を観測しました。2層の高気圧にフェーン現象も加わったため急上昇したといいます。これで1933年の山形市を除けば、歴代トップテンはすべて2000年代に入ってからの記録になりました▼近年は列島の各地で最高気温が更新され、平均気温も上がっています。専門家は「地球温暖化も無関係ではない」と。日本だけでなく、外電によると米デスバレーでは16日に54・4度を観測しました▼いまや温暖化の影響は至る所で。グリーンランドでは氷床の融解が戻れないところまできてしまったと国際研究グループが発表しました。海への重油流出もそうですが、膨大な年月を重ねて自然がつくり上げたものをあっさりと壊してしまう。なんという、人間の傲慢(ごうまん)さ、愚かさか▼それにしても、ウイルス感染、災害、暑さと、つらいことばかりで気もめいる日々。いまさらながら、生きがいや人生の意義をもつことの大切さが身にしみます。よりよい社会をつくる力が、人間にはあることを信じて。(赤字はkaeru )」
こちらを見てください、
写真はこちらから。
なぜ「『資本論』で頭を冷やす」のか?
この記事のあるページはこちらで、そこにそのわけが書かれています。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik20/2020-04-05/2020040504_01_0.html
雑誌「経済」の8月号です、
新版『資本論』に想う 今宮謙二 (金融論・中央大学名誉教授)
間もなく91歳を迎え、足腰が大分弱くなり思うように外出もできず、毎日好きな本を読んで幕らしています。最近もっとも興味をもって読んでいるのが、新版『資本論』です。学生・銀行員・研究者の時に通読しましたが、現在あらためて読んでみると学生時代の新鮮な気持ちが想い出され、初めて読むような感覚です。それは訳文・訳語の改訂のみでなく、新しく発見されたマルクスの「草稿」の研究にもとづいて豊富な訳注がつけられ、『資本論』の内容がより豊かになり、かつ理解しやすくなっているからだと思います。現在は隔月の刊行ですが、私は月刊にしてほしいと切実に願っています。
(略)
1929年大恐慌当時 マルクス主義者たちは『資本論』をどのように研究し、理解していたかの間題です。その頃すでに高畠素之訳『資本論』は改造社から全3巻刊行され、発行部数が15万部と称せられています(鈴木鴻一郎 『「資本論」と日本』弘文堂、16ページ)。入門書もカウツキー「マルクス資本論解説」、河上肇『資本論入門』などがありました。1929年に「正統派」とよばれた若手マルクス主義者たちによってプロレタリア科学研究所が創立され、機関誌「プロレタリア科学」を創刊しました(34年まで発行)。同誌30年8号に鈴木安蔵が『資本論』を学ぶ必要性を痛感すると書いていますが、次の9号では逆に現状分析を優先すべきで『資本論』研究は後にせよとの主張がのせられ、その後研究所もこの主張を認め、同誌には『資本論』に関する論文などはほとんどありません。同誌の後を引きついだ『経済評論』(創刊34年で37年まで発行)も『資本論』については海外の紹介論文を一つだけのせたにすぎません。当時「プロ科」は「新労農党」結成に参加した河上肇に痛烈な批判を行っており、30年刊行の『第二貧乏物語』もまったく無視していました。その頃河上は次のように嘆いています。「日本では経済学が解放運動にとって基本的な精神的武器であることが、充分に理解されてなく、現にマルクス主義をふりまわしている人のうちにすら『資本論』を通読したこともない人々がおおい」(「河上肇全集」16巻。岩波書店、313ページ)。「プロ科」は『資本論』への理解がかなり低く、教条主義、極左主義など大きな誤りを犯したと言えます。しかし、誤りがあったとしても絶対主義的天皇制下で生命の危険をかけて、反戦・民主主義のために活動や研究を続けてきた人々がいたからこそ現在の成果があるのです。この点は絶対に忘れるべきではありません。
いま 『資本論』の「精神」を受けつぎ、みんなで未来社会へ進む時がきているのです。
文中に河上肇の『資本論入門』に触れています。
こちらから全文が読めます、
https://dl.ndl.go.jp/info%3Andljp/pid/1170518
いま……なぜ『資本論』か、自問してみてやはり「いまだから」になります。ここには二つの意味があります、まずこの広告—新版『資本論』第6分冊の出版広告です。
そこに〝資本の運動を回転の流れのなかで究明する「第二篇」を新しい訳文、訳注で収録〟とあります。私はここに、第一の「いまだから」を置きます、新版『資本論』で『資本論』を学べるいまだからこそ!という思いです。
その点では9月発刊の第7分冊が待たれます、ここに不破さんが「恐慌の運動論」と呼びマルクス自身の資本主義の「必然的没落の理解」を大きく転換させた一文・「第二部第一草稿に書き込まれた新しい恐慌論の全文」が収録されているからです。
第2には来たる15日の志位委員長の日本共産党98周年記念講演の内容に関係してます。
「恐慌の運動論」を通じて「資本主義の必然的没落」への理解は没落させる担い手の姿を描きだし、次の社会は? につながっていきます。新版『資本論』の第三部にはマルクスの「未来社会論」が解明されるはずで、この点でも新版『資本論』ならではの独自の工夫がされているとのことです。
そこで、今日のタイトルは、
いまだから 『資本論』 ー 新版 『資本論』 だからこそ……。