kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

マルクスと友だちになるか、 ならないか、 それが問題ではない。

2022-09-01 22:06:08 | kaeruの『資本論』

天才は天才を知る、だから天才としてのマルクスをよく知ったのは天才エンゲルスだったのでしょう。凡才人の目から見てもこれは凄い!と思わざるを得ない業績はそれはそれとして凄いです。それと共に「一人が百歩歩むことを百人が一歩歩む励ましにする」ことにしたいと思うのです。

そのためには、マルクスだけではありませんが世の天才とか偉人と評される人を敬い奉らないことです。敬意が形骸化して「敬して遠ざける」ことにならないようにしたいものです。

その意味で不破哲三さんの、

「マルクスと友達になろう」という誘い掛けもいいです。

または、石川康宏講師の青年マルクス観は、

まあ、石川講師も大学生の時のマルクスとは友だちになりたくない、という意味でしょう。

いずれにしても、マルクスのどんな著作も業績もまたは「悪行」も、私たちと同様に860億個の脳細胞と体力のなせる技です。神技・神業、超人的と言葉を幾重重ねても、それ自体がヒトが成し遂げた、という意味です。

青年マルクスの「羽目外し」を石川講師の声で確認するには、この画像の該当する時間数に合わせて下さい。

 


「天災も天才も、忘れないうちにやって来る」

2022-08-31 18:55:39 | kaeruの『資本論』

天災は忘れた頃にやって来る、とは寺田寅彦の言葉だそうです。天才の方はどうなんでしょう、まずこういう言葉はないでしょうが、あったとして現在に言い返せばタイトルのように言えると思います。

天災については言を俟たないでしょう、では天才の方は……、

最近某御婦人と天才を巡ってLINE上意見交換をしているのですが、その人からの一文です(赤色部分 13才の天才とは、

13歳の天才少年が大学卒業に続き博士号取得へ 「最終目標は大学教授になること」   はkaeru)

藤井聡太5冠のお師匠様の杉本8段の話しを時々聞いてると、ああこの、師匠にしてこの弟子有りかと思います。このお師匠様だからこそ藤井5冠の才能を潰さなかったのだと。13才の天才少年も才能もさることながら周りの環境もよかったのでしょうね。

そうなんです。才能による個人差は当然あるでしょうが、彼あるいは彼女をめぐる環境の相違がある意味では決定的でしょう。持っている才能が環境によって歪められることも有り得ます。人間の成長発展は個人レベルと環境条件を考察することを統一させなければ、見えてこないでしょう。社会とその構成員としての個人が、成長発展を促進し合える関係にしていく方向性を探り実現させる運動が社会科学と社会運動だと思います。

さて、天才といえばマルクスの頭脳についてひと言触れざるを得ません。

1883年3月14日、マルクスが永遠の眠りについた時「人類は頭ひとつだけ低くなったのだ。しかも、人類がこんにちもっていた最も大切な頭だけ」とエンゲルスは戦友への手紙に書きました。

ひとりの頭脳の死が人類の頭ひとつを低くするような頭脳の持つ主を、人々はこう評価しました……、

この部分での石川康宏講師の話した内容、

この部分を石川講師の声で聴くには、こちらをクリックしてYouTubeの該当部分を視聴して下さい。

 

取り敢えず 『資本論』……。 - kaeruのつぶやき

昨日は孫に本を贈ると「つぶやき」ましたが、孫娘へ贈るのは先送りしたけど孫息子には既に贈っている本があるのです。2年前の正月に彼からジジの本棚から歴史か哲学の本を...

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私はこれを聴きながら、19世紀のひとりの天才に比し21世紀では「集団的な天才」と称すべき人々が生まれているのではないかと感じました。人類の頭ひとつを低くした天才も脳細胞の総数では、約860億個という個数は変わらないでしょう。21世紀を生きる者のネットワークで繋がった個々の頭脳は、各々が860億個のなかに情報を共有し瞬時瞬時に起承転結を繰り返しています。

21世紀を青年期として生きる孫世代は、自己の人生をSNSの繋がりのなかで「集団的天才」のひとりとして活かすことができます。個人個人が社会の構成員として、社会の未来への展望を自分の人生の方向としてし見定め生活に方向性を設定出来ます。その為には自然科学を包含した社会科学の発展が必要です、それを展望したとき『資本論』がその基点となると思うのです。

日本語で書かれた『新版 資本論』が、マルクスの書こうとした『資本論』に現時点では一番近いであろうと思うとき、マルクスが1858年10月8日にエンゲルスに送った手紙を思い起こします。それは「世界はまるいので、このこと(ブルジョア社会の本来の任務、世界市場を作りだすこと)は 〜 日本の開国で終結するように見える」です。この年、徳川幕府は日米修好通商条約をはじめ、日蘭、日露、日英、日仏の修好通商条約を調印してます。ブルジョア社会の世界市場づくりは、日本社会が世界市場へ開かれることをもって閉じられました。

その日本社会の激動が、170年後世界に『新版 資本論』を送り出しました、世界史の弁証法とでも称することができるでしょう。


何を言いたいのか、 考えたいのか

2022-08-30 23:34:28 | kaeruの『資本論』

昨日の「つぶやき」は、ワイコマさんのコメントに関連したのですが、今日も、です。

哲学・人間社会学 (カエル)2022-08-30 21:19:59

「自然科学や工学技術」を担っているのも社会科学の
推進者も人間自身だが、人間は社会の産物になる相当
以前に自然の産物として地球という産院で育った。

人間以外の生物(動物、植物)は自然という産院から
抜け出すことなく大人になり子供をつくり自分達は死
んでいった。人間だけは産院のなかに自然の産院を真
似ながら社会という保育所を手作りし、死ぬ率を少な
くし、他の生き物の領域をも己れのものにしていっ
た。保育所の周りに農地をつくり食べ物を作るように         
なると領域の拡大は人間同士の領域争いになった。

(なんか長くなりそう)要は人間社会学というのは哲
学と歴史学の範疇に入るのではないかということと、
人間社会の変化流動とはその全構成物の動きの総和で
あるということを言いたかったのです。その辺を科学
とはじめて明らかにしたのがマルクスで、主書『資本
論』です、これによって始めて社会を科学の対象とし
て理解できるようになった、ということ。自然科学と
の差は100年なんていうものではないが、自然科学を
通じて科学的視点を得ている人間にとって、社会を科
学的に認識する条件は飛躍的に広がっている筈です。

このkaeruなる20世紀前半生まれの人間が、こういう
ことをつぶやき社会に発信している事実がその一事例
だと思って下さい。】

話が外れるのですが、石垣島に帰った孫娘からばあちゃんにメールがあってコロナに感染した、と。実は近く葉山にくる予定の孫息子が、葉山に寄るが庭でみんなに会って帰路につくというのです、コロナの感染予防だと言って。そこで妹は3泊して無事帰った、2日ぐらい泊まる予定で来てくれ、と連絡を入れたばかりでした。

家で3泊しかなりの時間行動を共にして、無事着いたが実はコロナ感染者になっていた……、だとすれば孫息子が気にして庭で会って「さようなら」どころかジジババに会うこと自体が危なくなってきたのです。

これが今日の「つぶやきます」とどう関係するかですが、もちろん直接どうこうというわけではありませんが、コロナ感染は個人としては医療という自然科学に関わることに、同時に感染は社会現象であり医療制度や政治問題という社会科学の領域に入る問題です。

自然科学と社会科学の狭間で右往左往することでなく、我身のPCR検査を視野におきながら、激動の社会に対していく心構えを社会科学の基盤に据えることでしょう。

そんなことを考えていたら頭に浮かんだのがこの本でした。

久しぶりに手にして、現在のロシアでイリインのこの本がどう読まれているのか気になりました。この本ばかりでなくロシア革命が切り開いた人類社会への制度上の貢献をはじめ積極的な成果を、受け継ぎ発展させていかねばなりません。「産湯と一緒に赤子を流す」という諺を「流すな」の教訓として肝に銘じましょう。そのためにも、社会科学の科学性を確立した『資本論』への接近の必要性を痛感します。


ワイコマさんのコメントから、 「数学と算数と算術」

2022-08-29 21:18:10 | kaeruの『資本論』

昨日の「つぶやき」へのワイコマさんのコメントのタイトルですが、昔の記憶に算術という文字があった、と思い出したのです。そしてこのところ量子力学などという分野に首を突っ込んでいる孫息子と、元高校で数学を教えていた御婦人とラインでやりとりしているうちに、「0.999999……」問題に引っかかってしまっているのです。

そして数学というものに触れさせられて愕然とと言うか、呆然というか、私の頭にある数学を数学と称したとすれば孫息子や某御婦人の言う数学は超数学と称すべきと思うのです。

夕飯を食いながら見ていた海底9,801メートルに着いた乗物とか月面に向かう乗物の話も実は数学があっての話なのです。この場合の数学はカエル基準で言えば超超数学なのでしょう、その成果の上にはじめて実現する計画であるはずです。

だとすれば自然科学の数学畑にとどまっていては、昨日の「スマホと量子力学」の終わりの部分、

ここ、「自然科学や工学技術の発展に、社会科学や政治の世界が後れを取ってはならない」この指摘の通りです。孫息子や某御婦人の数学水準に対し算術で向きあうなどドンキホーテ的立ち向かいでした。ここは「政治の世界」と入力すると「清司の世界」と表示されるように清司!遅れをとるな!社会科学の世界に戻れ!ということなのです。

そこで、例の問題に対する孫息子の解答を記して、数学話は〆にします。

(某御婦人の評価では、解答1は算数水準、解答2が数学水準だそうです)

 

大学生の孫息子の 

解答1
厳密でない解答と聞いたことがありますが、分かり易いので以下解答 

1/3=0.333・・・
1/3×3=0.999・・・=1

解答2
1≠0.99・・・とすると、任意の微少数σをいて
1>0.99・・・>1-σ
が成り立つ。ここでσをどんなに小さくしてもこの式は成り立つことからσの極限を考える。
lim σ→0とすると、
1>0.99・・・>1
を得る。
これより0.99・・・=1 


「資本論話」の途中ですが……。

2022-08-28 22:33:32 | kaeruの『資本論』

今日は「資本論話」としてこの話を持ち込もうと考えていたのですが、

これは次に回して、数学の問題を出したくなりました。

 

問題 

「0.999999……」は数値「1」か、

1に無限に近いが「1」とは別の数値か?

 

この問題には思い出がありまして、忘れていなかったのですが

昨日同じような問題をある御婦人から出されて思い出したのです。

かなり広まっているようで、答えを承知している方もおられるでしょう。

昔、娘が大学生の頃この問題を出したら私には分からない積分だか微分だかの数式を書いて解答して来ました。兄の方はよく分からぬ、という風な言い方でした。


取り敢えず 『資本論』 石川康宏講座 補修(映画予告編)

2022-08-27 07:57:36 | kaeruの『資本論』

石川康宏講座で観られなかった2分間です、

 

これは、昨日の「つぶやき」へのワイコマさんのコメントへのカエルの返信です。

寅さんと『資本論』 

山田洋次監督の胸のなかに、このテーマで撮りたいと
いう思いがあったとすれば……、てなことを考えると
マドンナは誰だろうか。そして舞台はどこの駅からは
じまるだろうか。あるいは海が山が川が、思い切って
今夜のような小島、沖縄の最も人口の少ないような島
を舞台に一冊の『資本論』をめぐって寅さんが恋に落
ち入る。商品にいたる人対人の取引と恋愛における駆
け引きには、映像化されるものがあるのではないか。

今夜の「男はつらいよ 第46作 寅次郎の縁談」ははじめて観ました。それで一寸刺激されこんな返信をしてみました。島国日本からはじまった『資本論』の進化、なにやら寅さんが出会いの予感のような、そして失恋ではなく世界史的な成婚に結びつく予感がするのです。


取り敢えず 『資本論』……。

2022-08-26 23:11:22 | kaeruの『資本論』

昨日は孫に本を贈ると「つぶやき」ましたが、孫娘へ贈るのは先送りしたけど孫息子には既に贈っている本があるのです。2年前の正月に彼からジジの本棚から歴史か哲学の本を送ってくれ、とメールがありました。

私の本棚を見ていたのでそんな注文になったのでしょう。俳句の本という注文はなかったのは量子力学などという分野に首を突っ込んでいるからでしょう。

さて、何を贈るか、歴史と哲学を兼ねたものをということで『新版 資本論 第1分冊』とNHKの「一週間de『資本論』」を何の説明を加えず送りました。彼から、お礼と「薄い方(NHKの本)は冬休み中に読みます、厚い方(『新版 資本論』)の方はそれから」というような返信がありました。それで何か言ってくると思っていましたが、それ以後「資本論話」は聞こえてきません。

実はこの度この石川康宏さんの講座を見て、これはこのままほっといて返信は来ないかも……、と気づいたのです。そして、kaeruの『資本論』もそれきりにしておいて孫息子の動きを気にしている場合ではない、ということになります。

あまり構えて『資本論』をやるぞ!という風にすると疲れますので、孫に顔向けができる程度に、「とりあえず『資本論』」です。宜しけれがご一緒に。


『資本論』 から一言命題その1——不破さんの講義付き

2022-02-08 21:57:51 | kaeruの『資本論』

志位さんが紹介した命題三項の第1の該当部分の『資本論』本文。(新版『資本論』2 p 470)

 一般に経験が資本家に示すものは、絶えず続く過剰人口、すなわち資本の当面の増殖欲に比較しての過剰人口である——とはいえ、この過剰人口の流れは、発育不全な、短命な、急速に交替する、いわば未熟のうちに摘み取られる代々の人間から形成されているのではあるが。もちろん、経験は、他面では、歴史的に言えばやっときのう始まったばかりの資本主義的生産が、いかに急速にかつ深く人民の力を生命の根源でそこなってしまったか、産業人口の退化が、もっぱら農村から自然発生的な生命要素を絶えず吸収することによっていかに緩慢にされるか、また農村労働者さえも——自由な空気にめぐまれ、最強個体のみを繁栄させる〝自然淘汰の原理〟が彼らのあいだで実に全能の力をもって支配しているにもかかわらず——すでにいかに衰弱しはじめているか、を賢明な観察者に示している。自分を取り巻いている労働者世代の苦悩を否認する実に「十分な理由」をもつ資本は、その実際の運動において、人類の将来の退化や結局は食い止めることのできない人口の減少という予想によっては少しも左右されないのであって、それは地球が太陽に墜落するかもしれないということによっては少しも左右されないのと同じことである。どの株式思惑においても、いつかは雷が落ちるに違いないということはだれでも知っているが、自分自身が黄金の雨を受け集めてそれを安全な場所に運んだあとで、隣人の頭に雷が命中することをだれもが望むのである。大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!これがすべての資本家およびすべての資本家国家のスローガンである。それだから、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない。肉体的、精神的萎縮、早死、過度労働の責め苦にかんする苦情に答えて資本は言う——われらが楽しみ(利潤)を増すがゆえに、われら、かの艱苦に悩むべきか?と。しかし、全体として見れば、このこともまた、個々の資本家の善意または悪意に依存するものではない。自由競争は、資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家にたいして外的な強制法則として通用させるのである。

(アンダーラインは志位さんの引用部分)

不破さんの講義より

   (『「資本論」全三部を読む 新版』2 p149)

「大洪水よ、わが亡きあとに来れ!」

マルクスは、ここで、有名な言葉を引用しています

 「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!」(『資本論』②471ページ、〔Ⅰ〕285ページ)

 これは、誰の言葉かというと、フランス革命前の、フランスの国王ルイ十五世の愛人ポンパドゥール夫人の言葉とされています。フランス王室の大浪費がフランス革命の原因の一つになるのですが、〝こんな賛沢三昧をやっていると財政が大破綻をきたすぞ〟と忠告されたのにたいして、〝そんなことは私の知ったことじゃないわ、大洪水(財政破綻)がくるなら、私が死んでからにしてよ〟と言ったというのです。

マルクスは、これが資本の精神だ、として、こう続けます。

「〝大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!〟これがすべての資本家およびすべての資本家国家のスローガンである。それだから、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない。 ……しかし、全体として見れば、このこともまた、個々の資本家の善意または悪意に依存するものではない。自由競争は、資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家にたいして外的な強制法則として通用させるのである」(同前〔Ⅰ〕285〜286ページ)。

 ここには、 資本主義社会の現実にたいするたいへん深い分析があります。

 第一は、資本は、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わずに、ひたすら労働日の非人間的延長を追求する、ということです。それは、個々の資本家が善意の人物か悪意の人物かということで決まってくる問題ではありません。 剰余価値の最大限の追求を内在的な法則とする資本主義社会では、この点で立ち後れる資本は、自由競争に負けてしまいます。だから、ここでは、剰余価値の最大限の追求が、個々の資本家の善意・悪意を越えて、外的な強制法則として、すべての資本家の意識と行動を支配するようになるのです。

 第二は、では、資本主義社会は、いかなる仕組みによって、「大洪水」を防止するのか。マルクスが、「資本は、社会によって強制されるのでなければ、……」と言っていることが、重要です。労働日の無制限の延長による労働者階級の衰退という「大洪水」を避けるには、社会的強制によって、 資本の意志と行動を規制する以外にありません。これは、なによりもまず、労働者階級の要求ですが、それは同時に、資本主義社会自体を「大洪水」から防衛するための客観的要請でもあります。そして、ここに、労働日の標準化のための工場立法が、資本主義社会で可能とも必然ともなる大きな根拠があるのです。


 マルクスの工場法論と現代日本

 マルクスのこの文章を読む時、私の頭に連想される一つの文章があります。それは、日本の電機企業ソニーの会長だった故盛田昭夫氏が、「日本型経営」が、労働者や下請企業への抑圧や環境への無関心さなどの面で、世界の主要国の企業活動から大きく立ち遅れ、世界水準に達するためには、抜本的な改革が必要だと論じた論文のなかで、どうしたらこの改革が実現できるか、という問題について、次のように述べた文章です。

 「日本の現在の企業風土では、敢えてどこか一社が改革をやろうとすれば、その会社が結果的に経営危機に追い込まれてしまうような状況が存在しています。そのためどこも積極的に動こうとしません。こうした自己防衛優先の意識が問題なのです。……いずれにしても、日本企業の経営理念の根本的な変革は、一部の企業のみの対応で解決される問題ではなく、日本の経済・社会のシステム全体を変えていくことによって、初めてその実現が可能になると思います」(盛田昭夫「『日本型経営』が危い」『文芸春秋』1992年2月号)。

 一社だけで改革をやろうとすれば、競争社会では、その企業が経営危機に追い込まれる、経営の根本的改革は、「日本の経済・社会システム全体」を変えなければできない、こういう主張ですが、 「日本の経済・社会システム全体」の変革といえば、当然、法律的な規制もともなった社会的な強制が必要になってきます。〝資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者や下請企業や環境の利益にたいし、なんら顧慮を払わない。盛田氏のこの文章を、マルクス流に翻訳すれば、まさに『資本論』でのマルクスの命題と、同じ文章になるではありませんか。マルクスの分析は、現代の日本資本主義にも通じる法則を、みごとに解明したものだと、言ってよいでしょう

 こう見てくると、資本主義の法則と工場立法についてのマルクスの分析には、現在の日本における〝ルールある経済秩序づくり〟の要求と運動にもつながる面が、見えてくるのではないでしょうか。

 なお、社会的な強制という点では、マルクスは、工場法は、労働者にたいしても強制的な性格をもつことを、指摘したことがあります。クーゲルマンへの手紙の一節です。

 「工場法にかんしては——これは、労働者階級が発展と運動のための余地を得るための第一条件です——私は国家の命令により、つまり強制法として、資本家にたいしてばかりか、労働者自身にたいしても出すことが必要であると考えます。(五四二ページ、注五二で私は、労働時間制限にたいする女性労働者の抵抗をヒントとしてあげておきました)」(マルクスからクーゲルマンへ 1868年3月17日 全集32四四四ページ)。

 マルクスがここで援用しているのは、「第六篇 労貫」のなかの指摘で(『資本論』③963〜964ページ、〔Ⅰ〕578ページ)、賃金形態(出来高賃金など)によっては、労働者自身が「労働日を延長すること」を個人的な利益とすることがありうることを述べた文章です。こういう場合には、その部分の労働者の一時的、個人的な利益をそこなっても、法的な強制によって、労働日の規制を実現することが、労働者の肉体的な退化をふせぐ不可欠の手段となるのです。


小池栄子「マルクスといま初めて触れ合いました、私」

2022-02-06 22:06:59 | kaeruの『資本論』

女優小池栄子と言いだすより「北条政子を演じる」と書き出すべきでしょう、その「北条政子」がタイトルの様な発言をしたという話は、こちら
 

志位和夫さんがマルクスの言葉を紹介した時です。
2009年1月19日のこの放送、
 

「代々木『資本論』ゼミナール」講義はじまる、が「気になった」こと。

2022-01-28 23:30:00 | kaeruの『資本論』
2002年の1月21日、不破哲三さんが『資本論』の講義を始めました、こんな語りかけで……。

話はじめのこの部分を読んで「気になった」ところがあります、そうです、この部分「これまで『資本論』を講義するという気になりませんでした」という所。

ここが気になりながら読み進めていきますと、


ありました、なぜ講義をする気になったか、答が……。
「最近悟るところがありました。全貌の一端ぐらいは、ある程度わかってきたかな、という感じをもったわけで、そこに今度、『資本論』の講義をする気になった根拠があります」と。

不破さんの悟ったこと
については、



不破さんの本の該当ページを写して説明に替えるという手抜き作業で申し訳ありませんが、1月28日も残り少ない時刻になっての急ぎの「つぶやき」でした。