kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

いま ……『資本論』

2020-07-10 21:13:34 | kaeruの『資本論』

昨日アップしました「週刊朝日」の書評の前半部分、

「いまさら『資本論』」と思いながらも一読、モヤモヤ気分がパッと……、連日の梅雨空、気分だけでも太陽にするのはまずこの表紙でしょう。

そして、読み納得することで「こんなもの食えるか!」と声を上げる感性を大切にすることなのです。『資本論』は読むものの知性を刺激します、痛いくらいに理性を磨きます、そして自分の体験経験の意味が深まり感性を豊かにしてくれます。

この書評の書き手の永江さんは〝「いまさら」から「いまでも」に〟マルクス・『資本論』との感性内位置が接近しました。

kaeru にとってマルクスまたは『資本論』は……、

〝いまさら  いまでも  いまなら  いまこそ  いまだから  いまごろ. 等々〟。

いずれにしても明日から第二部へ、まずこれを第6分冊の入手までに一読しておくことにむかいます。


いまから 『資本論』

2020-07-09 20:28:00 | kaeruの『資本論』

「週刊朝日」の電子版でこれを読んで、このタイトルにしました。

『武器としての「資本論」』はこちらで「つぶやき」ました。

OGPイメージ

“ 武器としての『資本論』 “ の使い方 - kaeruのつぶやき

武器としての「資本論」|東洋経済STOREベストセラー『永続敗戦論』『国体論』で、他に類を見ない日本のアメリカへの従属構造という「国体」を分...

“ 武器としての『資本論』 “ の使い方 - kaeruのつぶやき

 

「つぶやき」ましたがこの本は積読のままでした。ただこの間にこの四冊は読み通しました、四冊というより『資本論』第一巻というべきでしょう。

さて『武器としての「資本論」』の書き出しのページは、

『資本論』に何らかのものを期待している人の姿として、思いを共にすることができます。白井さんは〝生き延びるための「武器」としての『資本論』〟と表していますが、私は「いまから『資本論』— 生き遺すために」とタイトルします。


1818年5月5日の何時頃だったのだろう ?

2020-05-05 23:56:38 | kaeruの『資本論』

 

経済学者カール・マルクスの誕生日【1818(文化15)年5月5日】 | トウシル 楽天証券の投資情報メディア

 1818年5月5日、ドイツ出身の哲学者、思想家、経済学者であるカール・マルクスが誕生しました。『資本論』を著しました。この書では、資本主義...

トウシル 楽天証券の投資情報メディア

 

 


“ 武器としての『資本論』 “ の使い方

2020-04-29 04:07:34 | kaeruの『資本論』

武器としての「資本論」 | 東洋経済STORE

ベストセラー『永続敗戦論』『国体論』で、他に類を見ない日本のアメリカへの従属構造という「国体」を分析した白井聡氏。その白井氏が、その「国体」...

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人間を不幸にする「資本への奉仕度」の格付け | 国内経済

私事から始めて恐縮だが、経済学者の石川康宏さんと『若者よ、マルクスを読もう』という中高生向けのマルクス入門書を書いている。マルクスの主著を1...

東洋経済オンライン

 

 


「麒麟がくる」時代の世界図と日本図

2020-03-12 22:44:00 | kaeruの『資本論』
浄得寺についてはこちら▶︎ https://www.jyoutokuji.jp/

拡大した図





今回も不破さんの書かれたものから。

 十六世紀の日本は戦国時代

 日本では、十六世紀はどういう時代だったかというと、前半三分の二世紀は戦国時代です。十六世紀初頭の著名人というと、まず北条早雲でしょう。戦国大名のなかでも、ごく初期の人物で、小田原を拠点に関東に覇をとなえました。種子島でヨーロッパ人と最初の交流がおこなわれ鉄砲が伝来したというのも、川中島の合戦、桶狭間の合戦など、有名な合戦も、みな十六世紀半ばごろの出来事です。織田信長が京都を握ったのが一五六八年、本能寺の変が一五八二年、豊臣秀吉の天下統一が一五九〇年と続いて、一六〇〇年が関が原の合戦ですから、だいたい十七世紀
とともに徳川幕府の時代が始まります。こう見てくると、おおよそ日本の十六世紀の様相が分かるでしょう。

 ヨーロッパとの関係で面白いのは、当時のヨーロッパの人びとが日本に来て、〝日本の文化はなかなかのものだ〟と感心した話が、よく記録されていることです。また、信長の時代に、少年使節団をローマに送ったことがあるのですが、ルネサンス時代の大建築物を見ても、あまりびっくりしなかったそうです。信長の安土城の巨大さ、豪華さを見ていますから、日本の方が立派じゃないか、と思ったかもしれません。こういうことにも現れているように、物質文明的な水準でいうと、当時のヨーロッパと日本のあいだには、あまり大きな格差はなかったのではないか、
と思います。ですから、伝来した鉄砲でも、その製造技術をたちまち習得して、わずかのうちに国内で大量生産できるところまで進む、それぐらいの力は持っていたのです。

 ただ、それから以後は、ヨーロッパと日本とは、発展が違ってきます。ヨーロッパの十六世紀は、マルクスがいうように、「資本の近代的生活史」を開いた世紀、言い換えれば封建制社会からぬけだす画期となった世紀でした。これにたいして、日本の十六世紀は、戦国時代、つまり、室町幕府の封建体制から徳川幕府のより完成された封建体制へ移行する過渡となった世紀でした。

 ですから、私は、ヨーロッパと日本との文明的な水準の格差は、十六世紀以後の二百数十年間ーー十七世紀から十九世紀半ばにかかる期間に、非常に大きく広がったと、思います。ヨーロッパは、資本主義的発展の道をまっしぐらに突き進む、日本は、封建制の完成へと進み、しかも十六世紀に開始されたヨーロッパとの交流の道を鎖国によって断絶させてしまう、という経路を歩んだのですから。

 こう見てくると、十六世紀は、世界的には資本主義への移行の画期としての意義をもつと同時に、ヨーロッパと日本の歴史の交差点としても、興味深い一時代として浮かびあがってきます。

「麒麟がくる」時代・16世紀の世界地図

2020-03-11 23:19:00 | kaeruの『資本論』
昨日紹介しました不破さんの書いたなかに、
〝十六世紀は、ヨーロッパに生まれたヨーロッパ文明が、はじめて世界の全体と接触した、という時代です。……十六世紀は「世界商業」「世界市場」というものが、歴史上はじめて見えてきた時代なのです〟
とありましたが、それでは当時世界地図では日本はどう「見えてきた」のでしょうか、カバー画像の地図(ブリタニカ国際大百科事典)に赤くマークした「Japan」です。「メルカトルの世界図(1569)」とあります、昨日の年表で見ると「桶狭間の合戦」の9年後、「織田信長、京都を握る」の翌年です。

 次は十五世紀のもので、「ブリタニカ国際百科事典」によると、
「ニュルンベルクに現存する最古の地球儀……で、アジアの東端にはマルコ・ポーロによって伝えられた……チパング(日本)を描いている」と書いています。(「チパング」を赤くマークしました)


 そして〝ヨーロッパの西端とアジアの東端の間に広がる海が実際より小さく示され、コロンブスによる新大陸「発見」(到着)の前夜における地球像を典型的に示している。〜このことがコロンブスの新大陸「発見」の遠因となった〟のでした。

 当時の「海外進出の主役」スペインは「黄金の国・日本」に何を求めていたか、昨日の年表にこう書かれています「スペイン、アステカを征服」「スペイン、インカ帝国を滅ぼす」です。

 スペインによるペルーのインカ帝国の略奪の記述を『資本主義の世界史』(藤原書店)で読むと、
〝(ペルーでは)「征服者たちは130万オンスの黄金の山塊を目撃した。彼らは、薄金造りの四頭の巨大なアメリカ・ラクダ(ラマ)の立像と1ダースもある壮大な女性の黄金像をそこに発見した。インカの国王は身代金として黄金を一杯に満たした部屋をピサロに提出した。彼の臣下は、かれらの庭に、家と寺院に、黄金製の樹木と花と鳥と動物を所持していたのである。道具類も黄金製だった。その食卓には、長さが20フィート、幅が2フィートもあり、指2本分の厚みをもつ銀板が使われていた」
 公式資料によると、1万8000トンの銀と200トンの金が、1521年から1660年にかけて、アメリカ大陸からスペイン王国へ運び去られている。他の資料ではこの数字は二倍にもなるとしている。
 クリストファ・コロンブスのごときは、「黄金とはこの地上の最上のものであり、それは魂を天国に運ぶことすらできる」とみていたほどである。1世紀あまりの間に、インディオの民はメキシコでその90%もの生命を奪われ、人口は2500万人から150万人に激減し、ペルーでも住民の95%が消滅してしまった。〟

『資本論』に「血と火の文字で人類の年代記に書き込まれている」(第24章 いわゆる本源的蓄積)という記述があります。そこでは、生産者ー農民ーたちが、生存上のすべての保証を奪われていく収奪の過程を述べているのですが、16世紀のスペイン、あるいはポルトガル等による収奪の歴史も「血と火の文字」で書かれています。

「麒麟がくる」ーー16世紀と「資本論」

2020-03-10 20:59:00 | kaeruの『資本論』

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第一回目の画像からです、「天文十六年・1547年」とーー16世紀です。タイトルに「資本論」を出したのは、不破哲三さんの『資本論』全三部の講義集にこんな年表があったのを思い出したからです。

〔年表〕十六世紀の世界と日本 (縦書を横書にしました)


(赤線はドラマに関連すると思われる事項です)

この年表は「資本論」にマルクスが書いた次の言葉によっています。
「商品流通は資本の出発点である。商品生産、および発達した商品流通ーー商業ーーは、資本が成立する歴史的前提をなす。世界商業および世界市場は、一六
世紀に近代的生活史を開く」、と。

不破さんはこの年表をもとに、「ヨーロッパの十六世紀」「『資本論』における十六世紀」「十六世紀の日本は戦国時代」と分けて話しています。そのうちの、

 「ヨーロッパの十六世紀」 

 十六世紀が始まった時点は、時代的にいうと、ヨーロッパではルネサンスの盛りの時期で、レうオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロがイタリアで活躍していました。そして、この世紀が終わる時に、イギリスで多くの戯曲を世に送り出していたのがシェークスピアです。

 また、前世紀の九〇年代にコロンブスによるアメリカ大陸の発見や、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469頃〜1524年)によるインド航路の発見などがあって、いわゆる〝大航海時代〟が始まりました。当時、海外進出の主役となったのは、スペインとポルトガルでした。

 スペインのアメリカ開拓の先陣を切ったのが、コロンブスでした。スペインの構想は、大西洋
を渡って、その彼方にあるはずの黄金の国・日本にたどり着くことでした。コロンブスは、最初
の航海以後も、何回もアメリカ上陸を繰り返しますが、最後まで、そこが日本だと思い込んでい
たとのことです。年表にあるように、スペインの侵略者たちは、十六世紀には、高い文明をもっ
ていたアステカ王国やインカ帝国を滅亡させ、略奪と破壊の限りをつくしました。

 これにたいして、ポルトガルの船団を率いたヴァスコ・ダ・ガマは、アフリカの大西洋岸を南
下して喜望峰を回ってインド洋に入ります。こうして、ポルトガルは、インド、インドネシア、
中国に進出し、最後には、日本の種子島で、ヨーロッパと日本の交流の最初の記録を残しました。

 こうして、スペインとポルトガルは、ヨーロッパからそれぞれ西と東に進み、最後にアジアで
合流して、地球を一周する航路を開拓しました。この面から見ると、十六世紀は、ヨーロッパに
生まれたヨーロッパ文明が、はじめて世界の全体と接触した、という時代です。先に引用した第
二篇最初のマルクスの言葉にあるように、一六世紀は「世界商業」「世界市場」というものが、
歴史上はじめて見えてきた時代なのです。

 この時代に、スペインとボルトガルが、どうして世界市場開拓の主役となったのか。それに
は、いろいろ歴史的な事情がありますが、一つの大きな事情に、ヨーロッパからのイスラム勢力
の撃退という問題がありました。アラビア半島に起こったイスラム勢力は、アフリカの地中海沿
岸をずっとその支配下におさめ、八世紀ごろから、ジブラルタル海峡はわたってヨーロッパ侵略
を開始します。まずイベリア半島(現在のスペインとボルトガル)を支配下におさめ、ピレネー
山脈を越えてフランスに進出したところで撃退されるのですが、スペインとポルトガルの地域
は、それから何百年もイスラムの支配下におかれることになりました。

 当時は、アラブ世界というのは、ヨーロッパよりも高い文明をもっており、そこから、多くの
文化的な成果がヨーロッパに流入してきました。しかし、いくら高い文明をもたらしたとはいっ
ても、他民族による支配です。イスラム支配を打破しようとする動きが強まり、スペインとボル
トガルは、イスラム勢力を撃退して、その独立の地位を回復しました。この過程で、二つの国
は、当時のヨーロッパでもっとも強力な軍隊を持つようになり、その勢いをかって、さらに世界
に乗り出しました。ルネサンス時代はイタリアが主役でしたが、大航海時代では、スペインとボ
ルトガルが主役になるという主役交代の一つの背景には、こういう事情もあったようです。

 ではヨーロッパの内部では、十六世紀に何が起きていたか。重要な出来事は、ルターによる宗
教改革です。これは、ドイツで起こりましたが、つづいて、フランスのカルヴィンなどの運動に
連動し、これまで法王庁の絶対支配のもとにあったキリスト教世界に、近代的な新しい流れを生
み出すことになります。その流れのなかで、ドイツの農民戦争が起きます。農民戦争では、キリ
スト教のもっとも革命的、庶民的な部分が少なからぬ役割をはたしました。

 十六世紀の後半になって、ヨーロッパ史の主役の交代がまた起こりました。イギリスとオラン
ダが、スペインとポルトガルにとって代わったのです。新興のイギリスと大国スペインとのあい
だに戦争が起こったのが、一五八八年。当時、スペインは、〝アルマダ〟という無敵艦隊をもっ
ていました。イギリスは弱い小国と見られ、この戦争ではスペインの必勝が予想されていたので
すが、そのイギリスが、スペインの無敵艦隊を撃破して、勝利をおさめるのです。これが転機と
なって、今度は、イギリスとオランダが世界に乗り出す時代が来ます。

 そのイギリスで、実は、資本主義への発展が急速におこなわれつつあったのでした、ですか
ら、同じように世界に乗り出すといっても、大航海時代のスペイン・ボルトガルの海外進出と、
十七世紀以後のイギリス・オランダの世界進出とは、その性格と内容を異にしていました。

 これが、十六世紀という時代の、あらましの特徴です。
 学校の世界史の教科書などでは、大航海時代とか宗教改革、農民戦争、スペインからイギリス
への主役の交代など、個々的には教わりますが、「資本の近代的生活史」の始まりという位置づ
けで、十六世紀をまとめてとらえるという見方は、ほとんどなかったと思います。

(赤字、太線はkaeruによります)

台風と『資本論』

2019-10-12 21:35:05 | kaeruの『資本論』

3時間ほど前、机に向かっていたらガタガタと来ました。いよいよ台風が直撃か、と思い窓際の本などをまとめて部屋の奥に移し一階に降りたら「いま地震だったでしょう」と。テレビに「千葉  震度4」と映されていました。

そして2時間、窓を雨風が打って来ています、本格的に直撃です。

まだ家がガタガタするほどではありませんが、22時ごろまでは油断できません。そんななかこんな「声」が、

大きくします、昨日の「声」です、

ヨドバシ従業員です。明日の台風で既に計画運休が伝えられる中、通常営業の宣告を受けました。帰る手段がないにも関わらず、です。 どうかしてます。経営者や店長は社員の生活や命を大切に考えず、ただただ利益の事だけを考えています。

これに対して、直接ヨドバシカメラに抗議するなど多くの反響がありました、この人も

そして、

「ヨドバシ従業員」さんから、

 

さて、ここからは『資本論』

このブログでも「つぶやき」ました 新版『資本論』刊行記念講演会での志位さんの「あいさつ」のなかから、

 「〝 大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!〟これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。それゆえ、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない」(新書版②464ページ)

   資本は、最大の利潤をくみ上げるためには、労働者の健康や寿命に何らの顧慮も払うことなく、労働時間の間的な延長を追求する。しかし、そうなれば、労働者階級全体が精神的にも肉体的にも衰退し、社会全体が成り立たなくなるーー「大洪水」がやってくる。その「大洪水」を止めるには、社会による「強制」によって、労働時間を規制するしかない。社会のまともな発展のためにも資本への民主的規制から避けて通れなくなる。マルクスは、このことを痛烈な言葉で語ったのであります。

   多分いまの時間帯、私の住んでいる辺りを台風は通過中でしょう。窓際がガタガタします、息子が来て昼間窓にテープを貼ってくれましたので気持ちが少し軽くなってます。

  テレビは各地の洪水・河川の氾濫を伝えています。自然のもたらす大洪水を防ぐために人知を尽くす、その人知を社会の「大洪水」を防ぐために「声」を挙げ「声」を寄せあうことが力になると「ヨドバシ従業員」さんの事例は示していると思います。


美空ひばりと『新版 資本論』

2019-10-06 22:27:40 | kaeruの『資本論』

「美空ひばり」の新曲「あれから」です、 

https://youtu.be/j5rlcxAHmQo

美空ひばりは私より幾日か早く生まれた同年齢、30年前に亡くなっているのですから、「あれから」と言われると「それだけ歳をとりました」と思います。その人の新曲をひばりの歌として聴けたのですからーーAIが身近なものに感じました。

それだけにAIとかICT革命とか日頃気になりながらも頭を向けていないことを「反省」してこの本です、

反省ならサルでも出来るのでヒト並みの努力はしなければ、それには「マルクス経済学」について基本的な知識は持っていなければと思うのです。

となるとやはり『資本論』になります、だとすればこれまた

やはりこの本でしょう、



『新版 資本論』不破さんの講演から

2019-10-05 23:14:29 | kaeruの『資本論』

 20日に行われた講演会で不破さんは『資本論』の草稿等を執筆順に並べてました。

1865年の大転換

 不破氏はまず、『資本論』とその草稿全体を執筆順に並べて紹介しました。

 (1)『1857年~58年草稿』 『資本論』の最初の草稿で、7冊のノートから成りたっています。

 (2)『経済学批判』(1859年刊行) 経済学研究の最初の部分、商品と貨幣の部分をまとめたもので、草稿ではなく出版されたものです。

 (3)『1861年~63年草稿』 23冊の膨大なノートです。

 (4)『資本論』第1部初稿(1863年~64年夏) 題名を『資本論』と変えてまず書いた草稿です。

 (5)第3部第1編~第3編(1864年夏~12月) 第2部「流通過程」を飛ばしたのは、執筆するにはまだ研究不足と思ったからと思われます。

 不破氏は「私はここまでの草稿を『資本論』の“前期草稿”と見ています。なぜかというと、この次にマルクスは大発見をするのです」と述べました。

 それは、マルクスが1865年に第2部第1草稿を書く中で「恐慌の運動論」を発見したことでした。

 前期の草稿と後期の草稿と何が一番違うのか。それは、「恐慌の運動論」の発見により、資本主義社会がなぜ没落して社会主義社会に変わるのかという資本主義の没落論が大きく変わったことです。

 “前期草稿”では、マルクスは、リカードから引き継いだ「利潤率の低下の法則」を革命に結びつけて、利潤率が下がるから恐慌が起きる、そして恐慌が起きるから革命が起きるという「恐慌=革命」論に立っていました。

 ところが、新しい恐慌論は、恐慌は利潤率の低下から起きるのではなく、資本の再生産過程に商人が介入することが恐慌を引き起こすことになるというものでした。

 マルクスはこの大発見の直後に改めて第3部の残りの草稿を新しい構想で書き始めました。それから第1部を完成させ、次に第2部草稿を書いている途中で死を迎えました。未完成に終わった第2部、第3部は、マルクスの残された草稿をもとにエンゲルスが編集したものでした。

 

講演の詳細は、

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-09-23/2019092306_01_0.html


講演会のユーチューブは、

https://youtu.be/5jSvW91-K3M