kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

『新版 資本論』序言・あと書きなど ー1ー

2019-10-01 22:14:43 | kaeruの『資本論』

資本論の本文に入る前に「序言」「あと書き」等が置かれ、このなかの多くの言葉が印象に残っています。『新版』で読み出してみてあらためて、『資本論』を読むうえで記憶し記録しておくべきものだと思い、ここに記しておきます。

   すべてはじめはむずかしい〔ドイツの諺〕ということは、どの科学にもあてはまる。だから、第一章、ことに商品の分析を収める節〔本書の第一章にあたる〕の理解は、もっとも困難であろう。さらに立ち入って、価値の実体と価値の大きさとの分析にかんして言うなら、私はその分析をできる限り平易にした。価値形態ーーその完成した姿態が貨幣形態であるーーは、きわめて没内容的であり簡単である。とはいえ、人間精神は2000年以上も前から、これを解明しようとして果たさなかったのであるが、他方、これよりはるかに内容豊富で複雑な諸形態の分析には、少なくともほぼ成功した。なぜか ? 発育した身体は身体細胞よりも研究しやすいからである。そのうえ、経済的諸形態の分析にさいしては、顕微鏡も化学的試薬も役に立ちえない。抽象力が両者に取って代わらなければならない。ところが、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態が経済的な細胞形態である。素養のない者にとっては、この形態の分析はただいたずらに細かいせんさくをやっているように見える。この場合には実際細かいせんさくが肝要なのであるが、それはまさに、顕微解剖学でそのようなせんさくが肝要であるのと同じことである。

   だから、価値形態にかんする部分を別とすれば、本書を難解だと言って非難するとはできないであろう。もちろん私は、新たなものを学ほうとし、したがってまた自分自身で考えようとする読者を想定している。

文字通りはじめから「むずかしい」文章に出会いましたが、「どの科学にもあてはまる」とのことですから、社会科学なら尚のこと! と開き直っておきます。

開き直りのついでに、太陽が朝東から昇り夕方西に落ちると、見える通りが「正しい」なら、人間は科学を必要としなかったはずです。天動説が「ウソ」で地球が回っているのだ、という普通の日常感覚ではとてもマトモなことでは無い「科学」に到達するには勉強しなければなりませんでした。

神さまの言われたこととしてある種の人間が述べることでなく、自分自身で考えようとした歴史が科学の歴史でした。「新版」として提示された『資本論』も「新たなもの」を見せてくれるに違いありません。


新たに学ぶー 『新版 資本論』

2019-09-29 23:36:57 | kaeruの『資本論』

『新版  資本論』の第一分冊を買ってきました。

新書版と並べてみると、

 同じページを開いてみます、

新書版では、

が新版は、

四行目から違います、この「注」の全文は、

〔1843年の末から経済学の研究をはじめていたマルクスは、1848ー49年のドイーツ革命敗北後、ロンドンに亡命し、大英博物館を拠点に経済学の研究に集中した。当時の研究の内容は、二四冊にのぼる「ロンドン·ノート」をはじめ、 多くのノートに記録されている。 マルクスは、 この研究をふまえて 、1857ー58年にのちの『資本論』への最初の準備草稿(『1857ー1858年草稿」)を書き、さらに著作「経済学批判』の執筆にすすんだが、1859年6月に公刊された『経済学批判 第一分冊』 は、「商品」および「貨幣または商品流通」の二章を含むにとどまった。マルクスは、続いて、続巻執筆の準備にかかり、1861年8月から63年夏までのあいだに、第二の準備草稿(『1861ー1863年草稿』)を書き上げた。この準備草稿には、経済学の歴史の詳細な研究も含まれていた。マルクスは、1863年夏から65年末までの時期に、『資本論』全三部の最初の草稿を、第一部(1863年8月ー64年夏、初稿)、第三部前半(1864年夏ー年末)、第二部(1865年初め一夏、第一草稿)、第三部後半(1865年夏ー年末)の順序で書き上げた。マルクスは、第二部第一草稿のなかで、恐慌が資本主義的生産のもとでは周期的に起こる循環の一局面であることを発見し、「利潤率の低下傾向」を資本主義的生産の没落の動因とする以前の立場を乗り越えた。これを転機に、『資本論』の著作構成も、第三部後半(1865年夏ー年末)、第一部完成稿 (1866年初めー67年4月)、および第二部の諸草稿で大きく変更された。こうして、1867年9月、『資本論』第一部の初版が公刊された(出版者は、ドイツ·ハンブルクの様マイスナー)〕

ここに触れています「恐慌が〜発見」を転機に『資本論』の構成も大きく変更されるのです。しかしエンゲルスの第二部、第三部の編集にには諸条件の制約によってマルクスの「発見」が見落とされています。今回の新版はチラシの広告文の通りです、

この新版に基づいて新たに『資本論』を学ばねばと思い、不破さんの20日の講演をテキストに「つぶやき」たいと思います。


エンゲルス、三度目の正直。

2019-09-03 21:34:10 | kaeruの『資本論』

8月28日に1844年8月28日のマルクスとエンゲルスの出会いについて「つぶやき」ました。

https://blog.goo.ne.jp/kaeru-23/e/ef08c9dd8426b0fe47e570ccb0199916

この時の出会いは二人にとって二度目の対面で、最初の出会い1842年11月16日はマルクスの誤解があり「ごく冷ややかなめぐり合い」でした。エンゲルスがその時の様子を述べています。

 「マルクスは42年10月まではボンにいました。9月または10月初め、私がべルリンからの帰途立ち寄ったとき編集部にいたのは、私の記憶するかぎりでは、M・ヘスと……ラーヴェだけでした。……11月末ごろ(16日のこと)イギリスへの通りすがりにふたたび所用訪問したとき、私はそこでマルクスに出会いました。そのおりに私たちははじめてごく冷やかなめぐり合いをもちました。マルクスはそのころバウアー兄弟に反対の態度をとっていました。 すなわち、『ラィン新聞』は政治上の討議や行動のためではなくて、主に神学上の宣伝、無神論等のための伝達者になれ、ということに反対を表明し、またエトガル・バウアー的な、『とことんまで行き』たいというだけの、空言共産主義にたいしても同様でした。……私はバウアー兄弟と文通していましたので、私は彼らの同盟者と見なされる一方、マルクスは彼らからあやしまれていたようです」(エンゲルスからフランツ · メーリングへ、1895年4月末、全集39・411頁)。

ここで述べられているように、エンゲルスが最初編集部に寄った時、マルクスは『ライン新聞』の編集責任者にはなっていませんでした。これを第1回とすると、「冷ややかな出会い」が第二回で、その後1844年8月28日のパリでの出会いが三度目の正直で、生涯を通じての同志的関係の出発点となったのです。

次の2枚は二人の同志的姿で、いずれも新日本新書『フリードリヒ・エンゲルス』掲載のものです。


9月からの課題ー『新版 資本論』

2019-09-01 22:12:24 | kaeruの『資本論』

 今日の「しんぶん赤旗」「読者の広場」の一文です。私の育った上田の人でそれも87歳というのが嬉しいです。一昨年秋に全3巻を読み通した、とのことですが私が一通り全巻に目を通し終えたのがその頃で、80歳で一応「やったね」と思ったものでした。

 

新日本出版社のチラシです、

今月20日が第1分冊の発売日、隔月12分冊ですから二年間。

よく資本論講座への申し込みに「『資本論』を読まないでは、死ねるかというのが、私の思いだった」というに類する言葉があります。一生に一度は読みたいと思っていたが、忙しくて果たせなかった、と前に書かれています。

私もこの機会に改めて「『資本論』を読む」に取り組みたいと思いますが、「死ねるか」というより「読んで寿命をのばす」という気持ちです。時間的な寿命もありますが、生き甲斐を感じ取れるという意味になるでしょう。


1844年8月28日 パリでの出会いーマルクス、エンゲルス。

2019-08-28 21:07:07 | kaeruの『資本論』

1844年8月28日、エンゲルスはロンドンからドイツへの帰国途中、パリにより、夕方マルクス宅を訪問しています。その時の状況をマルクスとエンゲルスの生涯を描いた伝記小説『プロメテウス』(ガリーナ・セレブリャコフ著)が次のように描いています。

(セレブリャコフについて、 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%

E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%96%E3%83%

AA%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%83%AF )

なお、セレブリャコフがこの伝記小説を「プロメテウス」と名付けたのは、この絵で説明されます。

これはマルクスが編集長を務めていた『ライン新聞』の発禁に対する風刺画(1843年)で、プロメテウス(マルクスのこと)が印刷機に縛り付けられている。文部大臣《リス》にあやつられたプロイセンの鷲がプロメテウスの肝臓をついばんでいる図。


さて当時の日本は?

天保年間で目についたのが、「大塩平八郎の乱」「蛮社の獄」など。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%

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進化する『資本論』

2019-08-20 23:37:39 | kaeruの『資本論』

7月25日を「資本論の日」などと「がん」と結びつけて「つぶやき」ましたが、これは一昨日の「しんぶん赤旗」です。

このなかに第3部の第七篇第48章の組み立てについて現行のエンゲルスの編集を組み替えて、初めのところに「未来社会」についての言及をもってくるとしています。

   以前地域の『資本論』を読む会に参加していた時、四人ともそれぞれ出版社の違う『資本論』で取り組んでいたので、私の持っていた新日本出版社版『資本論』の利点がつかめました。

今回の組み替えになる部分は同社の現行版でも「注」に、

草稿では、この「剰余労働一般は、」から、このパラグラフの末尾まで角括弧でくくられている〕

とされています。

この座談会で不破さんが、

草稿では、[ ](角カッコ)つきで書かれた一節ですが、これは、マルクスが、文章を書いている地点の主題とは別個の問題をそこに書き込むときに使う方式なのです。

こういう「注」が他社の『資本論』には書かれていませんでした。今回の改版は座談会の荻原さんの発言にあるように、

日本共産党の理論研究のレベルを世間に知らしめることになる

ものです。

座談会全文は、

 https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-08-18/2019081806_01_0.html 

政治情勢も共闘の進化に見られてると同時に、『資本論』をはじめ科学的社会主義の理論研究も進化発展しています。激動期にふさわしく理論的確信を、と思わざるを得ません。昨日に続きがん罹患のおかげで身につけるべき課題が明確になったというべきでしょう、人生の弁証法とでも言えるでしょうか。


『資本論』と「がん」

2019-08-04 22:52:34 | kaeruの『資本論』

1867年と2019年の7月25日 ー『資本論』ー

1867年7月25日、『資本論』第1部「序言」最後の部分です。

 

2019年7月25日は、

これは7月25日付の「しんぶん赤旗」への一頁広告、『新版  資本論』です。この広告に書かれているー新書判『資本論』の最終分冊の第13分冊が出版されたのが1989年9月20日ですから、

『新版 資本論』の「6つの特徴」の第1に、

新書判完成から30年ーー『資本論』諸草稿の刊行と研究の発展を踏まえ、エンゲルスによる編集上の問題点も検討し、訳文、訳語、訳注の全体にわたる改訂を行なう。

 とあげているわけです。

 

話は飛びますが、この本

のここを読んでから『資本論』に関係して「がんと資本」について考えるようになりました。それは、本のp20、

■悪性腫瘍の3つの特徴ーーがんの定義に代え
 では、良性腫瘍と悪性腫瘍の違いは何でしょうか。悪性腫瘍の特徴として、以下の3つがあげることができます。

  1つ目は「自律性増殖」です。先に述べたように、がん細胞は、細胞の増殖を適切に保つ制御機構を逃れ、自律的に(つまり、体全体の都合にはおかまいなしに勝手に)増殖を続け、基本的には増殖が止まることはありません。
    2つ目は「浸潤と転移」を起こすことです。浸潤とは、水が少しずつしみ込んでいくようにがん細胞が次第に周囲の組織に入り込み、腫瘍が拡大していくことです。転移とは、がん細胞が、最初にできた腫瘍から離れて血流またはリンパ系に入り、その流れに乗って体のほかの部分に移り、そこで新しい腫瘍をつくることです。
    そして、3つ目の特徴が「悪液質」という状態を引き起こすことです。悪液質とは、栄養不良により体が衰弱した状態を指す言葉です。そのメカニズムはまだはっきりしていませんが、腫瘍と体との相互作用によって全身性の慢性炎症が起こることが悪液質の本態だと考えられています。悪液質に陥ると、食欲不振やエネルギーの無駄な消費が起こり、脂肪や骨格筋が減るなどして体重が減少します。

資本は、

❶ 止まることを知らぬ利潤追求、社会全体にはおかまいなしに「増殖」を続ける。

❷ 利潤のためになら自国のどんな産業分野にも浸出し、他国へは植民地化も含め進出。まさにがんの「浸潤と転移」の人類史版です。

❸ 一国の社会の富を吸い尽くし貧困と格差を蔓延させ、社会のエネルギーを減少させます。

がんは人間をヒトとして成長させる細胞分裂に発症の元をおいています。資本はヒトが人間になる元である労働がその根源です。ここにも類似性を感じさせるものがあります。

さて、資本の弊害を抑えるためには社会的規制が必要ですが、根本的には生産手段の社会化によって資本の増殖をコントロールできる展望を『資本論』は解明しました。がんの悪性を人間は除去できるのか、その解答に向けては現在進行形だと思います。

資本の悪性を抑制するためには労働者階級という勢力のなかにその力を見出しました。がんを抑制する力を有するものは何か、医者か、製薬会社か、病院経営者か、彼らが向かう先の大勢力=がん患者群。

がん患者の当事者になってみると、全国の労働者団結せよ!

ならぬ、「がん患者よ、手をつなごう!」の気持ちが湧いてきます。


不破さんの「未来社会論」ー6ー

2018-10-08 22:13:40 | kaeruの『資本論』

   雑誌「前衛」は月刊誌ですから8日という発売日には店に出ます。ですから当然不破さんの「未来社会論」の第2回が掲載されてます。前号の第1回は21頁分ありましたがこのブログで触れたのは7頁半でした。それも第1篇が4章で構成されているうちの4番目の章です。

   本来ならば第1章から触れていくべきでしたが、その辺は理論的な説明で筆にあまるという感じでした。加えて、第4章にあたる部分が格差、原発、温暖化と日常のニュースに関連しながら論文内容を説明できたこともありました。

   今回も掲載の最後の部分の格差、原発、温暖化に関する部分をそのまま記載しておきます。今日買ってきたばかりで、目を通したのもその部分だけですので……。

 

 

(3)  資本主義体制の危機的な諸問題は
      どう解決されるか


   未来社会の特徴づけとしては、まだ第三の特徴が残っていますが、未来社会の性格や様相のおおよそがわかったところで、前回見た現代資本主義の危機的諸問題が、未来社会でどう解決するか、この問題を検討してみたいと思います。

 

    格差拡大の根源がなくなる

   まず格差の問題です。資本主義社会で格差が存在し無制限に拡大する根源は、労働者にたいする剰余価値の搾取がこの社会の基盤であり、その無制限の拡大を追求する利潤第一主義がこの社会の運動の最大の推進力だというところにありました。社会の変革とともに、剰余価値の搾取という事態そのものがなくなり、利潤第一主義も消滅するのです。
   生産された消費手段は、部分的な〝 予備元本〟をのぞくすべてが生産者のあいだに分配されます。分配の方法は、その段階の状況におうじて生産者の集団の間で決定されることになりますが、現在のような格差が想像もできない過去の話となり、社会全体の生活水準の抜本的な向上が実現されることは、疑いないでしょう。

 

   原子力問題はどうなる

   現在の原発問題が、核エネルギーの副産物として生まれ、安全問題の科学的な保障も、危険な核廃棄物の処理の展望も、包括的な総コストの検討もないまま、ひたすら企業の利潤第一主義によってすすめられてきたことは、すでに詳しくみてきたところです。
  未来社会では、このような危険で無責任な原発政策には、きっぱりと終止符がうたれ、「原発ゼロ」の立場がつらぬかれるでしょう。

   しかし、人類の知能の進歩、人間の科学技術の進歩には、限度がありません。現在でも、宇宙生成の神秘や物質の根源への探求は日々進んでいます。いつの日にか、軍事研究の副産物としてではなく、真理を探究する科学の王道のなかから、安全の保障された新たな方法で人類が核エネルギーを利用できる時代にも到達できるでしょう。そういう日をめざして、科学研究に取り組むことが、未来社会の大方向となることを、私は確信しています。

 

   地球温暖化の傾向にストップをかける

  これは、未来社会の実現を待ってはいられない、現瞬間に緊急の解決を求められている重大問題であり、現在、地球の大部分を支配している資本主義社会そのものが、温暖化の傾向にストップをかける責任があります。

   そのことを前提として、あえて、次の時代を担う未来社会の課題をいえば、資本主義社会が果たし得ないままでこの課題を次の社会に残したとしたら、温暖化傾向をストップさせることそのことが、未来社会が取り組むべき緊急最大の課題となるでしょう。 そしてそれが果たされた段階では、さらに進んで、地球大気をより低温化しより住みやすい環境条件を回復することが、次の新しい任務、未来社会でしか担い得ない壮大な任務となるのではないでしょうか。


不破さんの「未来社会論」ー5ー「異常気象」

2018-09-28 21:29:29 | kaeruの『資本論』

https://weathernews.jp/s/topics/201809/280085/

 

(以下、不破さんの「前衛」 掲載文より) 

「利潤第一主義」がうみだした地球温暖化の危機

   いま人間社会を襲ってい最大の危機は、地球温暖化の危機です。その影響はいますでに気候の大変動として現われています。今年に西日本を襲った史上空前の広域豪雨も、進行する地球温暖化が予想を超える巨大災害をひき起こすことを、まざまざと示したものでした。この危機がこのまま進めば、地球上での人類の生存が不可能になる、こういう深刻な事態がいま進行しているのです。
   温暖化というこの事実が確認されたのは、30年ほど前でした。その後の調査で、地球大気の温度は1860年頃を転機にして上昇傾向に転じ、その上昇が21世紀に入ってもずっと続いていることが確認されています。いままでの上昇はほぼ1度程度ですが、それだけでも、すでに気候のたいへんな異常変動を地球全体の規模でひきおこしています。

   問題は、地球大気の変質にありました。

   私たちは、大気のもとでの生活を当たり前のこととしています。しかし、実は地球大気は、そのことを可能にする特別の条件をもっているのです。それは、地球の大気の中の二酸化炭素が0.04%と、ごくわずかな量だというこです。二酸化炭素は、地球に降り注ぐ太陽熱を外へ発散せないで、内にこもらせるという作用(温室効果)をもっているため、   大気中のその量が増えると、大気の温度は上がってきます。

   温暖化の原因はなにか。それもすぐつきとめられました。地球大気のなかで二酸化炭素の濃度が増え続けていたです。そのために、地球大気の温度上昇が始まったのでした。これは、地球という惑星の、誕生以来の歴史を逆転させる大事件でした。

   地球が46億年前に誕生した時には、大気は二酸化炭素を主成分とした原始大気でしたから、地球表面は猛烈な高熱状態で、とても生命が存在できる条件はありませんでした。その大気の構成に、35億年前、海中での生命の誕生とともに転機が起こりました。「植物の光合成(こうごうせい)」と呼ばれる若い生命体の作用ーー二酸化炭素を吸収して酸素を吐き出すーーのおかげで、地球大気の構成が次第に変わり、4億年前ごろに、二酸化炭素を主役としていた初期の状態から、窒素と酸素が主役となる現在の状態に到達しました。そこで初めて、生命体の地上への上陸が実現し、さまざまな生命体が地上で活動し、やがては人類とその社会をうみだす新たな地球史に道を開くことができたのでした。

   私は、四億年ものあいだ、地上での生命体の進化をささえ、人類の誕生と進化を守ってきた地球大気を「生命維持装置」と呼んでいます。この「生命維持装置」に1860年頃を転機として変化が起き、大気中の二酸化炭素の増大という危険な過程が始まったのです。
    なにが、この危険な転換をひきおこしたのか。答えは明らかでした。最大限の利潤を求めて、時には「大量生産、大量消費、大量廃棄」をスローガンに、ひたすら生産の拡大を追求してきた資本主義の産業活動が、地球史が4億年もの時間をかけてつくりあげてきた「生命維持装置」を破壊し始めたのです。
    問題は、この産業活動が、もっぱら石油と石炭の燃焼をエネルギー源としておこなわれ、大量の二酸化炭素を大気中に吐き出すことです。次の表を見てください。地球温暖化の転換点となった1860年といえば、「資本論』の刊行とほぼ同じ時代ですが、この時代と約150年後の現代との、人間社会の二酸化炭素排出量を比較した表です。

                     人口    二酸化炭素排出量       同1人当たり
1860年代    13億人         4.8億トン               0・37トン
2014年       72億人     361 . 4億トン        5, 02トン
        倍率          4倍           75.3倍                   13·6倍

    資本主義のもとで、社会がこの危険に気づくのはおそかったのですが、対応策はさらにおくれました。

   国際連合での最初の本格的討議が1977年の京都会議でした。それから18年を経てようやく2015年に、「地球温暖化」防止の目標と義務を定めた「パリ協定」が締結されました。しかし、エネルギー消費の増大はその後も依然として続いています。世界最大の二酸化炭素排出国であるアメリカで、トランプ大統領が、「地球温暖化」などはマスコミがつくり出した〝フェイク·ニュース(虚偽報道)〟だと称して、「パリ協定」からの脱退を宣言する始末です。

  「地球温暖化」の脅威は地球の全地域で、その危険な姿をますますむき出しにしつつあります。日本でも、洪水をともなう台風と豪雨が季節を無視して各地を襲い、〝過去に記録がなかった大災害〟といった報道が各地でくりかえされています。
   この問題に取り組む国際機関IPCC (気候変動に関する政府間パネル)は、2014年度の報告書で、21世紀初頭から同世紀末までの気温の上昇を2.6〜4.8度とする予測を発表しましたが、事態は、この予想の最悪の線か、あるいはその線を超えかねない勢いで進行しているとみるべきでしょう。
   「地球温暖化」はまさに資本主義そのものがひきおこした人類社会の危機です。この危機を解決する力を発揮できるかどうか、それは、資本主義社会が21世紀に生き残る資格があるかどうかが問われる問題だということを、声を大にして言わなければなりません。


不破さんの「未来社会論」ー4ー「原発問題」

2018-09-26 21:41:14 | kaeruの『資本論』

   昨日は、アメリカの若者のあいだで社会主義旋風が吹き出している話で、不破さんの示す「三つの問題点」のその1を紹介しました。

今日はそのその2「原発問題」です。

今日の「しんぶん赤旗」記事中の解説部分です。

「社会通念」で火山リスク容認

【 解説 】
   広島高裁の昨年12月の決定は、阿蘇カルデラで約9万年前に起きた過去最大級の噴火について、「火砕流が到着した可能性は十分小さいと評価できず、原発の立地は認められない」と判断し、今年9月30日まで伊方原発の運転停止を命じました。
   今回の決定も、過去の阿蘇カルデラ噴火の火砕流が伊方原発敷地に到達した可能性を認め、規制委の内規である「火山ガイド」に従うなら「伊方原発敷地内に原子力発電所を設置することは認められないことになる」としています。
   昨年12月の決定が火山ガイドを厳格に適用したのに対し、今回は、火山ガイドの内容が不合理だと判断。巨大噴火の危険の想定について「社会通念を基準として判断せざるを得ない」などと主張。巨大噴火が発生する可能性が「相応の根拠を持って示されない限り」、伊方原発の立地は不適とはならないと結論づけました。
   現在の知見では巨大噴火について「前駆現象を的確にとらえることはできず、具体的予防措置を事前に取ることはできない」と認めているにもかかわらずです。つまり予測不可能な巨大地震が巨大地震が原発の運用期間中に発生する可能性を「相応の根拠を持って」示すという、不可能な要求を住民に課しているのです。
   四電の申し立ては9月30日を過ぎれば、利益がなくなります。住民側弁護団は声明で「四電の保全異議の申し立ての却下を避けて、急いでずさんな決定を出したのではないか」と指摘します。
   実際、今回の異議審で、住民側は火山や地震の専門家の証人尋問を求めましたが、広島高裁は全員を不採用。四電側には火山灰対策に関する文書を卓急に提出するよう促すなど、審査を急ぐ姿勢を示したため、住民側は裁判官の忌避を申し立て、却下されています。

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不破さんの掲載文より。

 原発問題ーー人類社会への社会的責任の放棄

   次に原発の問題です。

   第二次大戦後の世界で、原子力発電が安全性の問題や本当のコスト問題などの本格的な検討もなしに、安易に広がったのも、利潤第一主義の害悪の典型的な現われの一つだと言わなければなりません。なかでも、被爆国である日本を、411基の原発が立ち並ぶ世界第三の原発国家[★]に変えてしまったのは、その害悪の最大のもので、それを推進してきた日本政府と電力業界の責任は、徹底的に追及されるべきでしょう。
 

   ★ 世界の原発数と国別順位 2018年1月時点での世界の原発総数は443 基、国別の順位を見ると、1位·アメリカ99基、2位·フランス58基、3位·日本42基です。国土面積の小さい島国の日本に、世界の原発の10%が集中しているのです。

 

   原子核の分裂、融合の際に起こる核エネルギーの発見(1938年)は、人類史上の一大事件でした。不幸なことは、この核エネルギーの利用が、もっぱら戦争のための軍事利用という目的で始まったことです。最初は原子爆弾の研究・開発がヒトラー・ドイツ、次いでアメリカで始まり、この競争で勝利を収めたアメリカは、1945年8月、広島・長崎の巨大な惨害をうみだしました。これは、反ファシズム世界戦争の大義を傷つける人類史的な暴挙でした。

   戦後、アメリカは、それにくわえて核エネルギーの軍事利用の新しい道の開発にすすみました。核物質を燃料として燃やして、画期的な航続力をもつ潜水艦をつくろうという研究です。この研究が超スピードで成功をおさめ、1954年には原子炉(動力炉)を動力とする最初の戦闘艦、原子力潜水艦第1号のノーチラス号が完成し、活動を始めました。
   ここから、利潤鄕第一主義の活動が始まりました。これを民間用に転用すれば、安いコストで大量の電力をつくりだせるという思惑で、アメリカの電力業界がそれに飛びついたのです。しかし、軍部の手による原子炉の開発は、もともと戦争用の開発ですから、安全などは二の次、三の次でした。またコストが安いといっても、計算されているのは、当面のいわば運転コストだけで、原発が吐き出す大量の放射性廃棄物の処理の問題などは、まったく頭の外においた話でした。
   こうして、人間社会の運命にかかわるこれらの問題に目をつぶったまま、アメリカの電力業界が、軍艦用の「動力炉」を転用して原子力発電を開始し、それがすぐ日本の電力業界に持ち込まれたのでした。アメリカの場合でも日本の場合でも、民間への転用に当たって、安全性の検証や後処理後始末までふくめたコスト計算などを、本格的にはやらないまま、利潤第一主義に突き動かされてこの転用を強行してしまったのです。
   日本自身が福島原発の大災害を経験したいまでも、日本の政府と電力業界は、原子力発電の継続に固執しています。これはまったく道理の立たない無謀きわまる政策です。自民党政府と日本財界はいまでもこの原子力発電にしがみついていますが、それは、国民にとっても日本経済にとっても、その将来を脅かす何重もの危険をはらんでいるのです。
   (1) 第1は、原発大災害の危機です。
   世界はすでに、アメリカのスリーマイル事故(1979年)、旧ソ連のチェルノブイリ(1986年)、日本の福島原発事故(2011年)と、三度にわたる原発大災害を経験してきました。なかでも、福島の原発事故は三つの原子炉が爆発し溶融するという史上初の大規模災害でした。7年たったいまでも、爆発した原発内部の実情の調査さえ、序の口についたかつかないかという段階にあり、炉底に沈んだ溶融核燃料を取り出すことなどは、まったく何の見通しもついていません。
   日本のように地殻や気候の変動の激しい列島では、どの地域の原発であろうと、こうした大災害を引き起こす可能性を必ずはらんでいるのです。
  (2) 第二は、原発が生み出す使用済み核燃料を処理する有効な方式が見いだせず、この面だけからいっても、日本の原発がすでに存続不能の状態に陥っていることです。政府の原発推進政策には、この点で、最初から「トイレなきマンション」づくりという批判が浴びせられてきました。これに対して、政府はいつも、使用済み核燃料理する「核燃料サイクル」をつくるから心配ない、とこたえてきました。しかし、実態はどうか。何十年たって日本国内での再処理施設の建設がすすまず、ごく一部をヨーロッパに送って、イギリスやフランスに再処理をお願
ている始末です。いま、使用済み核燃料は、それぞれの原発が特別のプールをつくって、そこに貯蔵していますが、そのプールにすでに1万8000トンの使用済み核燃料が収容されており、すでに満杯状態に近づいている原発も各地に現れてる始末です。
   問題はそれだけではありません。再処理された核燃は、体積こそ大幅に縮小しますが、放射能はそのままでから、人間が近寄ったらただちに生命を落とすほど、猛烈な危険性をもった放射能の塊(高レベル放射性廃棄物) になります。そしてこの放射能が人間に危険を及ぼさない程度に減衰するまでには数万年から10万年かかるといいますから、この処分は簡単なことではないのです。
   いま一番有力な方法といわれているのは、「地層処分」といって、地下数百メートルのところに貯蔵室をつくってそこに閉じ込める方法ですが、地球は、誕生以来、地殻レベルの巨大な変動を続けてきた惑星です。比較的地殻が安定しているとされるヨーロッパでも、万年といったスケールで、地下の貯蔵室の安全を誰が保証できるのでしょうか。
   とくに日本のような、三つの大陸プレートが重なり合う独特の地帯を基盤とする火山·地震列島で、数万年もの練練にたえる適地を見つけるというのは、まったく不可能だというべきでしょう。
  (3) 第三は、原子力発電継続は、国民の莫大な経済的負担なしにはなりたたないことです。電力業界は、原子力発電の開始に当たって、電力コストが安いことをうたい文句の一つにしましたが、これはまったくのごまかしでした。
   そのさい、コスト計算の費用にくみいれたのは、発電機能にかわる直接の経費が主で、災害が起きた場合の損害補償や被害を受けた地域の復旧の費用などは、計算の外においていました。実際、福島の原発事故の場合にも、当事者の東京電力は、損害補償の一部を負担しただけで、あとは国がやるのが当然だという態度をとっています。国が負担するというのは、結局、経済的負担を国民の税金でまかなえということ。こんな無法な態度を平然ととっている産業界は、電力業界以外にはありません。失敗した「核燃料サイクル」の中核、もんじゅ、の後始末も全額公費で、国民の負担に転嫁されます。
   さらに、日本ではまだ実現からほど遠い状態にありますが、核燃料廃棄物の再処理にくわえて、最終の産物である高レベル放射性廃棄物の「地層処分」のコストまで計算に入れるとすれば(現在ではまったく計算不可能ですが)、その建設および数万年におよぶ管理のコストは、おそらく天文学的な数字になるでしょう。
   現在の原子力発電は、これらの巨大な費用はすべて社会が負担することを前提にして、なりたっているのです。史上空前の災害をひきおこし、回復しがたい被害を福島県をはじめ各地の住民にあたえながら、原子力発電の継続にともなう費用の大きな部分を社会、すなわち国民に転化し、原子力災害の危険に目をつぶって、各地の原発の再稼働を急ぐ日本の電力業界、またそれと一体化した日本政府の態度は、利潤第一主義の害悪の、現代における最も象徴的な現われだといっても、けっして言いすぎではないでしょう。