白川静『常用字解』によると、
悠 ユウ(イウ)/はるか・ゆるやか・うれえる
【 p624
で、みそぎをするの意味である。みそぎによって心身が清められ、心がゆったりと落ち着くことを悠といい、「ゆるやか、のどやか」の意味となる。悠遠(はるかに遠いこと)・悠久(果てしなく続くこと)のように、「はるか、ながい」の意味にも用いる。また悠思(はるかなもの思い)の意味から「うれえる」の意味が導かれたのであろう。】
夜になっても暑い、そんなとき豆まきの声が聞こえてきたら、これは間違いなく幻聴でしょう。でもその声が「福は内、鬼も内」でしたら幻聴ではなく金澤翔子さんの声なのです。
八月が始まりました、平成を年号とする最後の八月です。
は月が入っていませんので、毎月一日の同じ言葉から始まります。
今日は、
カレンダーは、
6日に「西日本に記録的大雨」からはじまった7月も1日は、「無事」で始まりました。
『字訓』によって、私たちの祖先が文字を使い始めた頃ー中国の漢字を話し言葉と結びつけ表記し始めた頃ー、言葉は事(事=事実)を意味していたと知りました。
今日からの2018年8月、どのような日々として迎えるのか、無事であることを願いつつも、事が有っても直視して応じていく心構えを期していかねばならないでしょう。国政に責を負う政府政権の言葉と事実を遊離させることの大きさを見せつけられた7月を抜けてきたばかりですから。
八月に発する言葉をいっそう磨かねばと思います。
80歳代のひとり暮らしの人が、何らかの方法でほぼ毎日「発信」出来ていたら、その人の消息を「発信」を通じて知ることができます。同時にその人も「発信」で社会とつながり、それは受信でより深くなります。
「いのち」の「い」が「息吹き」の「い」であるならば、「発信」は社会的な「息づかい」でもあります。
「両忘」について。
白川『字通』に、 岩波文庫『荘子 第一冊 内篇』に、
堯は良いが桀は悪いなどということにとらわれず、両方を忘れてしまいもっと大きい道に立って一体になりなさい。
というような意味でしょう。
「忘却とは忘れ去ることなり。 忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」
菊田一夫の「君の名は」です、この言葉忘れ得ず、です。
絆は常用漢字表には入っていません、人名用漢字です。
『人名字解』です、
ここに「馬のちふ」とありますが「執+糸」の文字が変換されません、字の形としてはそんなに難しくありません。気になるのがこのなかに「幸」が組み込まれていることです。
「幸」と「きずな」の関係は?
『常用字解』によると「幸」は、
【手枷(てかせ)の形。古い字形からいえば、両手にはめる刑罰の道具である手枷の形である。これを両手にはめた形は執(とらえる)、報復刑として手による犯罪に枷をはめることを報(むくいる)という。報は両手に手枷をはめられて跪(ひざまず)く人を又(ゆう・手の形)で後ろから抑える形である。
幸はおそらく倖(こう・さいわい)の意味であろう。手枷だけの刑罰ですむのは、僥倖(ぎょうこう・思いがけない幸せ)であり、重い刑罰をも免れるというので幸というのであろう。それで幸(さいわい)の意味がある。】
不幸中の幸い、というような場合の「幸」なのでしょう。
この漢字としての「幸」が、私たちの祖先の手でこの国の言葉に移されて「山の幸、海の幸」のように「獲物」を意味する言葉につながっていくのでしょう。
*本紙とは「しんぶん赤旗」のこと、この記事は2014年5月3日、
而は常用漢字表には入っていませんが、人名用漢字にとられています。
白川静 津崎幸博『人名字解』に、