kaeruのつぶやき

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花の巴里での決意。

2018-01-03 22:15:55 | 『乱』と「西郷どん」

  『乱』は第1章「異人斬り」が文久三年九月二日(1864年10月14日)の井土ケ谷事件から書き出されています。それを糸口にして池田筑後守一行が遣欧使節団としてフランスに行く、昨日のスフィンクス前の一行の写真は旅の途中のことです。

  この写真が紹介されている第2章「サムライとスフィンクス」には、池田筑後守一行が何故フランスへ行くことになったのかがこう書かれています。

【文久三年(1863)八月十八日の政変により、京都から過激攘夷派を一掃し、倒幕論を駆逐することに成功したが、天皇の公武合体による攘夷の意志は一層強化された。そこで幕府としても、せっかく公武一和の回復したことであるから、朝意遵奉の一端として何か朝廷を喜ばすことはないかと知恵を絞り、(長崎・横浜・箱館のうち)せめて横浜一港くらい閉鎖してみせてはどうか、というアイディアが生まれたのである。】

このアイディア言い出してみたが行き詰まり、そこにヨーロッパの条約国に使節団を派遣したら、と言い出す者が出てきます。

【 これに飛びついたのが(将軍後見職の)一橋慶喜であった。】

交渉して成功すればそれも良し、たとえ失敗しても3、4年の時間稼ぎになることが一番の魅力と考えた。

   その頃、公使から井土ケ谷事件の謝罪等の使節をフランス政府に送って欲しいとの申し入れがあり、それに合わせて横浜鎖港の事も交渉にと外国奉行池田筑後守長発一行の遣欧使節団となった所以です。

   慶喜の派遣の狙い所も知らず国に殉ずる赤心に富み、それ故にこの使命を奉ずるや死を決していたらしい池田筑後守でした。攘夷感情にあふれていた筑後守でしたが、巴里(パリ)の市内を見物させられているうちに、

【 いったい、いま自分たちは日本から何を攘(はら)い斥(しりぞ)けようとしているのか。まだ二十八歳の筑後守にとって、肌に感じる西洋文明の華やぎは抗いようのない魅力となって心魂を惑わし、しばしば自分の任務を忘れさせた。】

昨日紹介頁を部分拡大してみます、

そして、

【 自分の胸中で形づくられた決意を、使節団の幹部一同に表明したのである。】

【 いままでの攘夷主義を払拭し、日本の将来は〈開国〉以外にないと結論づけられたことを宣言した。そしてこれを機会に、朝廷のご機嫌とりのために〈横浜鎖港〉といった、非現実的な外交政策を持ち出すような、姑息因循な幕閣の態度を打破し、京都に上がって、臆病で疑り深い公卿たちの迷妄を覚まし、無識無学で宇内の形勢にうとい過激浪士どもの頑迷固陋な頭を打ちくだき、あっぱれ〈開国の国是〉を定めようではないか、と説き、そのためにはこのたびの使節団の一行が力を一つに結集し、他の国々への歴訪を取り止め、ここから直ちに本朝に帰国して、幕府に建言し、朝廷に抗議し、死を決して公卿たちと論争するならば、その意を貫徹できないことはないはずだ、と強調したr。】

この後、昨日の一行です。

「だれ一人、それに反対する者はいなかった。」


乱の内部構造

2018-01-02 20:22:00 | 『乱』と「西郷どん」

   「乱」、乱れるは要するに内部がグチャグチャになってしまうことです。明治維新150年というのは150年前に日本というアジアの小国内部がグチャグチャになって150年経ちましたということです、が……。

   それ以後も相変わらずグチャグチャしている日本を整理していきましょう、というのか現状の取り繕いの言い訳に使うか、自分たちの(アメリカさんの意向によって)利権を守る為の方便に使うのか、ということです。

   ですから乱の内部状況を知りたい、それも壊す側からでなく壊されたくない側、今までの利権を守りたい側の動きを知るのは、2018年という年だから面白いのです。

   前口上はこれだけにして、この写真から

   Wikipedia の池田長発ですが、スフィンクスの写真と同じものが、『乱』にも紹介されています。

   1864年4月4日、一行に同行していた岩松太郎という者の「航海日記」には「二十八日亥晴」とあるのは文久四年の二月二十八日を示しています。しかし、エジプトの砂漠からはるか離れた日本では元治元年二月二十八日と記されたことでしょう。この年の二月二十日に文久から元治に改元されていましたから。

   さて、綱淵謙錠は「この写真は、構図上から生まれる空間的な〈雄大さ〉だけでなく、世界最古・最大の遺跡が語りかけて来る時間の永遠相と、たまたま旅の道すがら立ち寄った日本武士団のもつ人生の偶然相とが、この一瞬に交錯し、この一枚に凝縮したことで、人類史的な〈雄大さ〉をも獲得した、といってよいだろう。」と記しています。

   池田筑後守一行は、文久三年十二月二十九日(1864年2月6日)横浜を離れ船の乗り換えなどを経て、この日(1864年4月4日)にカイロに着いたのですが、この日の記念撮影について綱淵の筆はこう書いています。

「日本出帆からこの日まで、一行はだれひとり〈横浜鎖港〉という自分たちの使命に疑問を抱く者もなく、全員はじめての海外旅行者としての珍談奇談を産み落としながら、明るく毎日を過ごして来たのであった。そう考えると、巨大な人面獅身像の前での記念撮影も、かれらの最も華やいでいた時期の〈記念〉として、重大な意味をもつということができよう。」

ではそういう毎日が暗転し、

「築後守が死を決して使節団幹部の秘密会議を招集し」……、

「だれ一人、それに反対する者はいなかった。」

  その日は1864年6月5日(元治元年五月二日)でした。その決断とは何かなど写真の頁の下の段に書かれています、長くなりますので明日に……。


どこから始めるか、先を見て手の付く所から。

2018-01-01 22:50:20 | 『乱』と「西郷どん」

昨日とは昨年末ですが、三冊の本を紹介しました。

『乱』と『マルクス「資本論」の視点で21世紀世界経済危機の深部を探る』、『終結期の安倍政権』のうち

はじめに読み出したのは『乱』です、

明治維新150年、歴史から敗退者として退いって行った幕府、その中にいた者たちの目から見た「新時代」、それを帯にはこう書かれています。

 「倒幕派の視点から書かれた幕末維新史は多々あるが、幕府側から見たそれはこれまでほとんど書かれたことがない。諸外国からの外圧、薩長勢の内圧に堪えて新時代を模索した男たちの足取りが、本書によってついに蘇った。

   綱淵歴史文学の最後にして最大の秀峰が、今ようやく雄渾な姿をあらわしたことを喜びたい    作家  中村彰彦」

文久三年九月二日(1863/10-14)、現在の神奈川県横浜市南区井戸ヶ谷下町(と書かれているが、ここですね)、

地図右側に「井土ケ谷事件の跡」とあります、

井土ケ谷事件についてのWikipediaは、wikipedia.井土ケ谷事件

『乱』は井土ケ谷事件から書き始められていますが、

明日も朝から神社への予定ですので寝ておかねばなりません、本の面白さなど明日以降に……。