この図は永井路子さんのこの本、
のはじまりの方に出てくるのですが、図に関して永井さんが書かれていることをそのまま記します。
海からの歴史地図
友人が熱海の裏山に山荘を造ったから遊びに来ないか、という。招きをうけたその日は、稀に見る快晴で、海に面した小高い山の中腹にあるその家からは、正面に大島、右寄りに三宅島が、驚くほど近くに見えた。
が、それより私を驚かせたのは左手の海に突出した半島が、あまりに手近に、そして鮮かに見えたことだった。
「手前のこんもり樹の繁っているのが真鶴半島、その先が三浦半島、その先に見えるのが房総半島」
友人の説明に私は思わず感嘆の声をあげた。
「三浦半島って、あんなに小さいの。へえ」
「房総半島って、随分近くにあるのね。それに、随分大きいのね」
たしかに、房総半島は、ちっぽけな三浦半島を後から抱えるような形で、海に長々と伸びている。平面の地図を眺めるのとはまるきり違った感じである。それを見ている間に、私はふいにあることに気づかされた。
【以下図が置かれてるp10】
友人の山荘のあるのは、伊豆半島のつけ根の部分だった。
そこから真鶴、三浦、房総と海に突き出た半島つないでゆくとする。そしてそこに十二世紀末という「時」のヴェールをかぶせてみると、たちまち一つの歴史地図が浮びあがるのだ。
すなわち、伊豆の北条、真鶴半島の土肥、三浦半島の三浦、房総の千葉——。これらこそまさに頼朝の旗揚げの中心になって働いた武士たちではないか……。
伊豆で旗揚げした頼朝は、石橋山の合戦に敗れると、土肥実平にかくまわれて真鶴半島に逃れ、海路房総半島をめざした。三浦一族も緒戦に平家に組した畠山一族と戦って敗れると房総半島に逃れる。そこで千葉氏はじめ関東の武士団に迎えられて、一気に勢力を挽回して鎌倉入りする。この歴史の動きを考えながら海に突き出た三つの半島を眺めると、彼らの連繋プレーが、ごく自然に納得できるのだ。
いわば彼らは、この東国クーデターの核のような存在だったのだ。現代人は陸路に馴れすぎ、
【行の途中ですが、ここからp11】
とかく海のことを忘れがちだが、あの時点を考える場合、この「海からの歴史地図」を忘れてはならないようだ。
と、思ったとき、まことにふしぎなことだが、それまでひどくちっぽけに見えていた三浦半島が、だんだん、ずしりと重く、大きな意味を持つものとして、私の眼に映って来た。そして、かつて、この半島が歴史に向って放った雄叫びが、そのときさながら聞こえて来るような気がしたのである。
この一文中kaeruが抜書きしておくのは、この部分
まことにふしぎなことだが、それまでひどくちっぽけに見えていた三浦半島が、だんだん、ずしりと重く、大きな意味を持つものとして、私の眼に映って来た。そして、かつて、この半島が歴史に向って放った雄叫びが、そのときさながら聞こえて来るような気がした
ここの部分は、この人のここと通じます。
これは以前の「kaeruのつぶやき」ですが、
日本歴史における三浦半島、そして三浦一族への視点です。