kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

防空壕を体験した世代の一人として……。

2022-03-03 16:36:00 | 三浦半島

下の写真は「kaeruのつぶやき」2月28日で紹介しました、この映像のなかに防空壕に避難する場面があり、この子も薄暗い地下防空壕で「死にたくない」と……。


そしてロシアでは子どもを逮捕するロシア警察、子どもの手の大きな紙には
нет войны(戦争はノー)」
と書かれています。

1945年8月15日の正午まで日本人は戦争下にあり、防空壕が日常生活の中にありました、私たち80歳前後の世代はその多くが体験したでしょう。当時日本人の防空壕での姿を世界の人がどれほど「見る」ことが出来たでしょうか。

20世紀(1940年代)と21世紀(2020年代)の違いに相応しい対応を、大人として子供の大きな未来のために広げていかねばと思います。


サライのこの一文、三浦一族に注目

2022-02-14 01:34:00 | 三浦半島
まず、『吾妻鏡』治承四年八月二十四日〔『現代語訳吾妻鏡』〕
武衛(源頼朝)は杉山の内の堀口辺りに陣を構えられた。大庭三郎景親は三千余騎を率いて再び追ってきた。頼朝は後方の峰に逃れられた。
〔石橋山の敗走の始まり、そして〕
景親は頼朝の跡を追って峯や谷を探しまわった。ここに梶原平三郎景時という者がおり、確かに(頼朝の)御所在を知っていたが、情に思うところがあって、この山に人が入った痕跡はないと偽って景親の手勢を引き連れ、傍らの峯に登っていった。〔これが13日放映の冒頭〕

以下は第6回のリポートです(「サライ」による)、
文中の三浦一族についての記述に注目して下さい。



綾「寅さん、人間は……、なぜ死ぬのでしょうね」

2022-02-13 13:15:00 | 三浦半島

吉川孝昭さんの「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」

「kaeruの純情詩集 綾の死、浪子の死」
男はつらいよ第18作には二人の女性の死が描かれています。一人は作品のテーマとして、もう一人は劇中劇で。

「人はなぜ死ぬのか」、二人とも人生の最期の言葉として男に問いかけています。

寅は旅先の信州上田(kaeruの故郷)別所温泉の芝居小屋で「不如帰」を観ます。
浪子が夫に向けて「千年も万年も」(貴方と一緒に)生きたい❗️と……。

綾は寅さんに、


綾の人生最期の「愛の告白」だったと思います、哀しいけれど……。

同時に、寅さんの答えも含めこのシーンは、


雅子の言葉の内容でもあります。


マルクスは生きている——志位さんの紹介した三つの命題

2022-02-07 20:07:42 | 三浦半島
第一の命題は昨日紹介しましたがその中心部分です、
ここの部分で昨日つぶやき漏れしてましたが、村上龍さんの「マルクスはやっぱりいいことをいいますね。いまでも生きていることを」という言葉です。マルクスのこの言葉が「いまでも生きている」と、同時にこの言葉のなかにマルクスは生きているという意味でもあります。だからこそ小池栄子さんが「(マルクスと)触れ合いました」と感じることができたのです。

志位さんは続いて、


さらにもう一点、


これらを頭において不破さんの 『「資本論」全三部を読む 新版』 を手引きに『資本論』を読んでいきたいと思います。

なお志位さんの話をはじめ荻原、山口、不破さんの挨拶や講演がこちらで視聴できます、













立春に暦を考える。

2022-02-04 23:14:00 | 三浦半島
まずは今日が立春で今日から春です、そこで
 

我が家の玄関前の小さな梅の木、花が咲いています、
がこちらは
 

庭の大きな梅には花が一つも無い、よく見れば
 

枝々に蕾が……、あと二、三日待って欲しい、という感じです。
暖かい日が続けば良いのですが。
 
ここまでは我が家の春だより、こちらは暦の成り立ちの話です。
 
「ブリタニカ国際大百科事典」で暦を開いたら予期せぬ解説が冒頭にありました。
借入金とか未払金とか買掛金などなど、相手側では貸付金、未収入金、売掛金などなど、これらの決済に関わる「時の契約」がカレンダーの始まりだったのです。

一日のうちの「何時」とか「何時から何時間」という約束が時間単位を必要にしたのが、交易という余剰生産を前提にした社会的行為でした。
 
そして、

書かれているのを写します、
「週は完全に人為的な時間の区分で、一定の日数の繰返しという以外には、天文学的現象や自然現象とはなんの関係もない。週という概念の発端もやはり商業に由来している。これは定期的な交易を行うまでに進歩した古代の人々の間で発生したもので、最初は市の立つ日の間隔として現れた。」 
なるほど、そうだったのですね。
 
二月一日の旧正月のこと、昨日の節分そして今日は立春、旧暦に添った季節感やひと昔の暮らしに関する話として触れてきたようですが、やはり生活の本質としての経済に暦も根ざしていました。

「七百年」と「八〇〇年」

2022-01-27 22:22:00 | 三浦半島
見出しの歌詞「鎌倉」は昨日ある集まりで歌ったもので、明治43年の唱歌です。
明治43年と言いますと1910年、源頼朝をはじめ鎌倉時代の武士たちを英雄とし彼らの墓の苔生す様を詠んでいます。

下は頼朝の墓の紹介、



これは政子と実朝の墓のある寿福寺です、

歌詞には「七百年」とあります、一緒に貼ってあります本のページはNHK出版の『鎌倉殿の13人 ー北条義時とその時代』から。こちらには「八〇〇年」、頼朝、政子、実朝それぞれの墓の苔も100年分の変化を重ねています。

共に歌った御婦人のなかの多くは80歳を超え、95歳とか91歳の御婦人も……、政子とは違う状況であってもやはり日本社会の激動期を生き抜いてきた人々です。

鎌倉時代の人口が750万人ほどと言われる規模であってみれば、1970年の国勢調査で1億人を超えいまを迎えている80歳代90歳代のなかでどれほど多くの「北条政子」が各分野で各地域で主導性を発揮してきたか、あらためて思いを深めなければと思います。


「鎌倉殿の13人」と図書館

2022-01-26 23:15:00 | 三浦半島
今日午前逗子で打合せがあり、少し早めに出たので逗子市図書館に寄ってみました。2階のコーナーに、


写りが悪いのでこれだけにしますが「鎌倉殿の13人」関連の本を中心に集められていました。先ほどネットでこのコーナーの資料等が見られないかと検索(「逗子市図書館 鎌倉殿の13人」)をかけました、提示されてきたのは、







検索の仕方が悪いのか、 おや?という思いです。

見出しの写真は、鎌倉ではと思い直し検索したのですが同様の結果でした。
twitterでコーナーがあることが分かりました。




永井路子 ー 石母田正 ー 不破哲三

2022-01-24 20:50:00 | 三浦半島
永井路子


石母田正


不破哲三


永井路子『つわものの賦』「あとがき」より

それは外からの力に突き動かされての変革ではない。内部の盛上りが必然的に一つの道を選ばせたのだ。

 
石母田正『中世的世界の形成』
わが国における中世の成立過程は、欧州におけるが如く民族移動や征服関係などの外部的事情によって乱されなかったために、より純粋な過程を呈示していると考えられる。^
 
不破哲三『講座「家族、私有財産および国家の起源」入門』

古代から現代にいたる社会や国家のこうした交替や変革が、日本列島という画然と区分された領域のうえで、日本人という同一の民族的集団によって、他民族による征服や民族大移動といった事態を一度もへることなしに、なによりも社会自体に内在する矛盾とその発展を原動力として、進展してきました。

永井路子の筆は、作家として人間の動きを通して時代の特徴をえぐり、鎌倉時代の到来と発展を日本という列島社会の内部のエネルギーの変動発展の結晶として捉えています。
 
唯物史観を歴史観の基礎に置いて中世を詳細に分析した歴史学者石母田正の中世史観が、この一文に収められています。一昨日ある書店の古本の棚にあった一冊50円のなかに、偶然目に入った一文です。なおこの著書が戦中の仕事であることを知り、社会科学者としの戦闘性に頭が下がります。
 
不破哲三『講座〜入門』は中世史にとどまらず、日本列島社会は「内在する矛盾とその発展を」原動力として発展してきた「世界史の中でも〝例外的〟な存在だと」位置づけています。
 
今後「鎌倉殿の13人は、日本社会の封建制への移行を示す武士社会の誕生・鎌倉時代へと三谷幸喜の筆を借り、一時代を画す革命戦争「承久の乱」に向けて画像鮮やかに展開されるでしょう。

 

 

「頼朝の腹」、旗揚げ? kaeruはお手上げ

2022-01-16 22:32:00 | 三浦半島

 タイトルの頁は「鎌倉殿の13人ー2ー」の見出しですが「挙兵の雄叫び」からは今日の分です。文字化しておきます次頁分まで。

 挙兵の雄叫び

 三浦半島が雄叫びをあげたのは、1180 (治承四)年八月、ふつうこれを頼朝の旗揚げというが、その実体は、「頼朝の」というより、それを担いだ東国武士団のクーデターだったと、私は思っている。そしてそのとき、中心になって活躍したのは、まさに三浦一族だった。彼らは、たしかに伊豆での挙兵の現場に居合わせてはいない。が、にもかかわらず、彼らを中心勢力と見るのは、一つには彼らの動員兵力を重視したいからだ。
 頼朝が事を起したとき、直接従ったのは、舅である北条時政やその付近の武士団、それに土肥実平たちだが、彼らを合計して、せいぜい三百、と『吾妻鏡』は書いている。それも石橋山(ここまでp11 次から頁を替えて)
まで出て来たときの数で、挙兵時は百にも満たなかったのではないか。これに比べて大庭景親に率いられた平家側の武士は三千というから、その数をそのまま信じるかどうかは別としても、とうてい頼朝側が互角に戦える相手ではなかった。
 これに対して三浦一族の動員兵力はどのくらいか。正確なことはわからないが、「三浦半島城郭史」を書かれた赤星直忠氏は、『源平盛衰記」を引かれて三浦氏の兵力を三百八十くらいと推定しておられる。三浦氏は頼朝が行動を開始したとき、それに呼応して、石橋山に駆けつけるべく行動を起しているが、このときは全勢力挙げての出陣ではなかったにしても、まず、かなりの数が動いたとみてよい。頼朝が彼らをあてにしていたことは、明らかである。

永井路子さんのこの一文では、特記したいのはここです。
 三浦半島が雄叫びをあげたのは、1180 (治承四)年8月、ふつうこれを頼朝の旗揚げというが、その実体は、「頼朝の」というより、それを担いだ東国武士団のクーデターだったと、私は思っている。

「私は思っている」とは言うまでもなく永井路子さんの思いですが、三浦半島に今は冬眠中のkaeruの腹の中でも「共感」の2字がジワリと広がっているのです。

 しかし、肝心のプリンターとの接続は出来ず、何時間かの奮闘努力の甲斐もなく、こちらはお手上げでした。

鎌倉殿の13人 −2ー

2022-01-12 22:40:00 | 三浦半島
この図は永井路子さんのこの本、
 

のはじまりの方に出てくるのですが、図に関して永井さんが書かれていることをそのまま記します。


  海からの歴史地図

 友人が熱海の裏山に山荘を造ったから遊びに来ないか、という。招きをうけたその日は、稀に見る快晴で、海に面した小高い山の中腹にあるその家からは、正面に大島、右寄りに三宅島が、驚くほど近くに見えた。
 が、それより私を驚かせたのは左手の海に突出した半島が、あまりに手近に、そして鮮かに見えたことだった。
 「手前のこんもり樹の繁っているのが真鶴半島、その先が三浦半島、その先に見えるのが房総半島」
 友人の説明に私は思わず感嘆の声をあげた。
 「三浦半島って、あんなに小さいの。へえ」
 「房総半島って、随分近くにあるのね。それに、随分大きいのね」
 たしかに、房総半島は、ちっぽけな三浦半島を後から抱えるような形で、海に長々と伸びている。平面の地図を眺めるのとはまるきり違った感じである。それを見ている間に、私はふいにあることに気づかされた。
以下図が置かれてるp10】
 友人の山荘のあるのは、伊豆半島のつけ根の部分だった。
そこから真鶴、三浦、房総と海に突き出た半島つないでゆくとする。そしてそこに十二世紀末という「時」のヴェールをかぶせてみると、たちまち一つの歴史地図が浮びあがるのだ。
 すなわち、伊豆の北条、真鶴半島の土肥、三浦半島の三浦、房総の千葉——。これらこそまさに頼朝の旗揚げの中心になって働いた武士たちではないか……。
 伊豆で旗揚げした頼朝は、石橋山の合戦に敗れると、土肥実平にかくまわれて真鶴半島に逃れ、海路房総半島をめざした。三浦一族も緒戦に平家に組した畠山一族と戦って敗れると房総半島に逃れる。そこで千葉氏はじめ関東の武士団に迎えられて、一気に勢力を挽回して鎌倉入りする。この歴史の動きを考えながら海に突き出た三つの半島を眺めると、彼らの連繋プレーが、ごく自然に納得できるのだ。
 いわば彼らは、この東国クーデターの核のような存在だったのだ。現代人は陸路に馴れすぎ、
【行の途中ですが、ここからp11】
とかく海のことを忘れがちだが、あの時点を考える場合、この「海からの歴史地図」を忘れてはならないようだ。
 と、思ったとき、まことにふしぎなことだが、それまでひどくちっぽけに見えていた三浦半島が、だんだん、ずしりと重く、大きな意味を持つものとして、私の眼に映って来た。そして、かつて、この半島が歴史に向って放った雄叫びが、そのときさながら聞こえて来るような気がしたのである。
 
この一文中kaeruが抜書きしておくのは、この部分
 
まことにふしぎなことだが、それまでひどくちっぽけに見えていた三浦半島が、だんだん、ずしりと重く、大きな意味を持つものとして、私の眼に映って来た。そして、かつて、この半島が歴史に向って放った雄叫びが、そのときさながら聞こえて来るような気がした
 
ここの部分は、この人のここと通じます。
 
これは以前の「kaeruのつぶやき」ですが、
日本歴史における三浦半島、そして三浦一族への視点です。