「日本三景」をはじめ「三名園」「三名城」「三橋」など日本ベストスリーは数多いですが
山関係では「日本三名山(富士、立山、白山)」
「日本三急登(烏帽子ブナ立て尾根、甲斐駒黒戸尾根、谷川岳西黒尾根)」
「日本三大雪渓(白馬、針ノ木、剣沢)」「日本三彦山(弥彦山、英彦山、雪彦山)」などがあります。
「○○三山」もあちこちにありますが、そのうち私たちの登った山を…。
白根三山(北岳 3192m、間ノ岳 3189m 、農鳥岳 3026m)
<64.7.22~27>
東京オリンピックのあった年、大阪山友クの夏合宿。総勢13人のパーティで変愚院はCL、♀ペンは食料係でした。
この頃は港町発の「やまと」という急行にがありました。これに乗って富士から身延線の始発で甲府へ。ここからバス、マイクロバスで広河原へ入りました。
白根御池で幕営。24日、草滑りを頑張って稜線に出ると富士、中ア、北アと最高の展望と涼しさが待っていました。

北岳山頂にて。前列左・変愚院、中央・♀ペン
北岳小屋横の幕営地は絶好のロケーションで、キジ場から満月と富士が見えました。
25日、白根三山の縦走。毎日の快晴続きで水不足。東農鳥岳の手前でついに一人ダウン。日蔭を求めてハイマツに潜り込みました。先行させた後輩が迎えに来るまで空身で歩かせて、キスリングザックを二つ担いで頑張りました。
やがてSLまでバテ気味になったので、大門沢下降点でパーティを二つに分けました。SLと男子1人、女子6人を先に降ろし、残りのものでビバーグの準備をしました。
夕食用の水を求めて二人が1時間ほど下った水場へ行くことになり、最後に残したあった水を飲ませていると、病人も「自分も飲ませてくれたら歩けそうだ」と言い出しました。
先行と1時間ほど遅れで長い長い大門沢を下りました。ようやく水場に着いて、
たらふく水を飲めたときの嬉しさは忘れられません。
連日の快晴続きが仇となって、全員が熱中症寸前の暑い暑い夏山でした。ついでですが、この年の暮にペンギン夫婦が誕生し営巣を始めました。
白馬三山(白馬岳 2932m、杓子岳 2812m、白馬鑓ヶ岳 2903m)
<59/08, 64/08>
主峰の白馬岳へは5度登っていますが、三山巡りは二度だけです。
初めての白馬はもう半世紀近く前、母校に勤務していた時です。
この高校には山好きな先生が多く、毎年夏に山岳部以外の生徒を募集して、白馬、穂高、立山のサイクルで集団登山を実施していました。
この年の白馬は70人もの参加者があり、変愚院はSLでした。二度の六甲での予備登山をすませ、初日は蓮華温泉まで歩き本当の露天風呂に入りました。
蓮華温泉
翌日、白馬山荘泊。3日目、山頂でご来光を拝んだ後、三山巡りをして下山。快晴で立山連峰の眺めが最高でした。
64年は後立山連峰縦走の途中です。この年はバスが佐渡見平まで入るようになり 『蓮華温泉入りが便利になった』と日記に書いています(今はもちろん蓮華温泉までバスでいけます)。
翌日は大池から白馬岳へ。

『村営小屋の幕営地は汚く、おまけに小屋のスピーカーがうるさく、うんざり』。このスピーカーの音は今も耳について離れません。
「○○番から○○番の札の方は夕食です」と外へも聞こえる大きな声…
その合間に「ここは白馬 雪渓一里 ピッケル片手にさくさく登る…」と大音量の白馬小唄が鳴り響きます。
おかげで歌詞も節もすっかり覚えてしまいました。
この日は三山を縦走し、天狗池の畔で早めにテントを張り、午後は休養日にしました。そのあと、五竜、鹿島槍吊尾根と幕営を重ね、予定通り爺岳から扇沢出合へ下山しました。
音羽三山(音羽山 852m、経ヶ塚山 889m、熊ヶ岳 904m)
<1978.11.23、79.01.28>
多武峯(とうのみね)談山神社から正面に見える三つの山です。連続して登っているのは11月が下見のためでした。
「左くゎんのん右たふのみね」の古い石標から十七丁の音羽観音参道を登ります。南音羽の村落を抜けて観音寺で小憩、暗い杉木立の沢沿いに急坂を上り稜線に出ます。勾配が緩み、金剛・葛城を見ながら音羽山頂へ。
稜線の小さい登降を繰り返して経ヶ塚山へ着きました。お経を埋めたと伝えられる跡に、案外新しい石塔が立っていました。

(経塔の前で♀ペンと息子)
ここから急降下で熊ヶ岳の鞍部へ下ります。鞍部から見上げる熊ヶ岳はずいぶん高く見えますが、左に室生の山々を眺め、右に大和平野を見下ろしながら登ると案外楽に山頂に立ちました。
ここから大峠をへて不動滝に下りました。滝の名は横に不動明王を刻んだ大石があることから来ています。
「割れ不動」といい「慶長十三年、多武峯の鳴動で割れた」という幅2センチほどの割れ目がありました。
大和三山(耳成山 140m、畝傍山 199m、天香具山 152m)
<86/02, 92/01>こちらをご覧ください
「○○三山」は続きます。
山関係では「日本三名山(富士、立山、白山)」
「日本三急登(烏帽子ブナ立て尾根、甲斐駒黒戸尾根、谷川岳西黒尾根)」
「日本三大雪渓(白馬、針ノ木、剣沢)」「日本三彦山(弥彦山、英彦山、雪彦山)」などがあります。
「○○三山」もあちこちにありますが、そのうち私たちの登った山を…。
白根三山(北岳 3192m、間ノ岳 3189m 、農鳥岳 3026m)
<64.7.22~27>
東京オリンピックのあった年、大阪山友クの夏合宿。総勢13人のパーティで変愚院はCL、♀ペンは食料係でした。
この頃は港町発の「やまと」という急行にがありました。これに乗って富士から身延線の始発で甲府へ。ここからバス、マイクロバスで広河原へ入りました。
白根御池で幕営。24日、草滑りを頑張って稜線に出ると富士、中ア、北アと最高の展望と涼しさが待っていました。

北岳山頂にて。前列左・変愚院、中央・♀ペン
北岳小屋横の幕営地は絶好のロケーションで、キジ場から満月と富士が見えました。
25日、白根三山の縦走。毎日の快晴続きで水不足。東農鳥岳の手前でついに一人ダウン。日蔭を求めてハイマツに潜り込みました。先行させた後輩が迎えに来るまで空身で歩かせて、キスリングザックを二つ担いで頑張りました。
やがてSLまでバテ気味になったので、大門沢下降点でパーティを二つに分けました。SLと男子1人、女子6人を先に降ろし、残りのものでビバーグの準備をしました。
夕食用の水を求めて二人が1時間ほど下った水場へ行くことになり、最後に残したあった水を飲ませていると、病人も「自分も飲ませてくれたら歩けそうだ」と言い出しました。
先行と1時間ほど遅れで長い長い大門沢を下りました。ようやく水場に着いて、
たらふく水を飲めたときの嬉しさは忘れられません。
連日の快晴続きが仇となって、全員が熱中症寸前の暑い暑い夏山でした。ついでですが、この年の暮にペンギン夫婦が誕生し営巣を始めました。
白馬三山(白馬岳 2932m、杓子岳 2812m、白馬鑓ヶ岳 2903m)
<59/08, 64/08>
主峰の白馬岳へは5度登っていますが、三山巡りは二度だけです。
初めての白馬はもう半世紀近く前、母校に勤務していた時です。
この高校には山好きな先生が多く、毎年夏に山岳部以外の生徒を募集して、白馬、穂高、立山のサイクルで集団登山を実施していました。
この年の白馬は70人もの参加者があり、変愚院はSLでした。二度の六甲での予備登山をすませ、初日は蓮華温泉まで歩き本当の露天風呂に入りました。

翌日、白馬山荘泊。3日目、山頂でご来光を拝んだ後、三山巡りをして下山。快晴で立山連峰の眺めが最高でした。
64年は後立山連峰縦走の途中です。この年はバスが佐渡見平まで入るようになり 『蓮華温泉入りが便利になった』と日記に書いています(今はもちろん蓮華温泉までバスでいけます)。
翌日は大池から白馬岳へ。

『村営小屋の幕営地は汚く、おまけに小屋のスピーカーがうるさく、うんざり』。このスピーカーの音は今も耳について離れません。
「○○番から○○番の札の方は夕食です」と外へも聞こえる大きな声…
その合間に「ここは白馬 雪渓一里 ピッケル片手にさくさく登る…」と大音量の白馬小唄が鳴り響きます。
おかげで歌詞も節もすっかり覚えてしまいました。
この日は三山を縦走し、天狗池の畔で早めにテントを張り、午後は休養日にしました。そのあと、五竜、鹿島槍吊尾根と幕営を重ね、予定通り爺岳から扇沢出合へ下山しました。
音羽三山(音羽山 852m、経ヶ塚山 889m、熊ヶ岳 904m)
<1978.11.23、79.01.28>
多武峯(とうのみね)談山神社から正面に見える三つの山です。連続して登っているのは11月が下見のためでした。
「左くゎんのん右たふのみね」の古い石標から十七丁の音羽観音参道を登ります。南音羽の村落を抜けて観音寺で小憩、暗い杉木立の沢沿いに急坂を上り稜線に出ます。勾配が緩み、金剛・葛城を見ながら音羽山頂へ。
稜線の小さい登降を繰り返して経ヶ塚山へ着きました。お経を埋めたと伝えられる跡に、案外新しい石塔が立っていました。

(経塔の前で♀ペンと息子)
ここから急降下で熊ヶ岳の鞍部へ下ります。鞍部から見上げる熊ヶ岳はずいぶん高く見えますが、左に室生の山々を眺め、右に大和平野を見下ろしながら登ると案外楽に山頂に立ちました。
ここから大峠をへて不動滝に下りました。滝の名は横に不動明王を刻んだ大石があることから来ています。
「割れ不動」といい「慶長十三年、多武峯の鳴動で割れた」という幅2センチほどの割れ目がありました。
大和三山(耳成山 140m、畝傍山 199m、天香具山 152m)
<86/02, 92/01>こちらをご覧ください
「○○三山」は続きます。