ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

ヒマラヤユキノシタ (12月12日)

2009-12-12 09:03:04 | 我が家の歳時記
庭のヒマラヤユキノシタが春を待つ蕾をつけました。



同じユキノシタ科ですが、葉や花の形も開花の時期も一般の「ユキノシタ」とは
異なります。
ウインター・ベゴニア(Winter begonia)の異名もあり、近縁種にはシベリアユキノシタ
という品種もあるそうです。



普通のユキノシタは夏に咲きますが、ヒマラヤユキノシタの開花は2~3月頃
です。これは今年の早春の写真です。



「ヒマラヤの峰を偲ぶやユキノシタ」変愚院

もちろん俳句にはなりません。ユキノシタは夏の季語ですから…。

実のある?話 (12月11日)

2009-12-11 09:59:46 | 我が家の歳時記
3日ほど前、嫁の実家(松本)から送って頂いたリンゴです。



長野県は、青森に次ぐ第二位のリンゴ生産県です。
若い頃、北アルプスの土産は松本駅前で買った青いリンゴでした。
多分、早生の「祝」という小型品種ではないかと思います。

長野のリンゴは、日光を十分に浴びさせて栽培される「サンふじ」
が多いようです。なお、「サンふじ」は長野JAの登録商標で、頂いたのも
この品種と思いますが、蜜が多くて、とても甘くジューシーです。



これは松本市郊外の息子宅からほど近いリンゴ畑です。(2005年11月撮影)



ところで、これは我が家の庭で見つけた小さな黒い実ですが、何でしょう?
近くにあるリュウノヒゲより葉の幅が広く、実も少し大粒です。
どなたか教えて下さい。

富士を見る山 (12月10日)

2009-12-10 09:33:50 | 過去の今日
私たち二人…特に♀ペンは富士山が大好きです。
ある時期、この季節になると毎年のように石割山、雁ヶ原摺山、浜石山、竜爪山
などの富士周辺の山や、箱根、伊豆などの観光地めぐりをしていました。



1993年12月12日 伊豆・万三郎岳



1994年12月10日 忍野

1995年12月10日は安倍川上流にある、安倍奥の青笹山(1,550m)に登りました。
案内して頂いたのは静岡県島田市のMさんです。
彼とは2年前に天城山の万三郎岳で知り合い、この山行の後も今度は私が藤原岳
へ案内したりして、今もお付き合いが続いています。



カヤトと緑の笹に囲まれた青笹山山頂は、360度の大展望台でした。
「東に大きく富士が裾野を伸ばし、その右に特徴ある愛鷹山、さらに右に伊豆
の山々が霞む。富士の左には金峰(双眼鏡で五丈岩も確認)、瑞墻など奥秩父
の山々、その左に八ケ岳、鳳凰三山、今越えてきた仏谷山の肩に真っ白な北岳
と続く。北から西にかけては大井川上流の井川高原が近く、その向うに大無間
など、さらに遠く荒川、赤石、聖、上河内、茶臼、光と雪を冠った南アルプス
南部の峰々が連なっている。富士の手前に毛無山、身延山など、さらに富士川
の流れ、右手に光る駿河湾といつまでも見飽きぬ景色が展開する。」
 下の写真、背にしているのは荒川三山です。



ところで、こんな句を見つけました。
「湯豆腐やつれ添うてほヾ五十年」岩木躑躅

私たちは今日が四十五回目の結婚記念日です。
「あつあつの湯豆腐に似た刻ありき」変愚院

大詔奉戴日(12月8日)

2009-12-08 09:04:50 | 読書日記
「たいしょうほうたいび」…昭和17年から19年までの僅か3年間、
この日は「太平洋戦争」が始まった日として重要な日付でした。
大詔とは「天佑を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本帝国
天皇は…」で始まる対米英開戦詔書のことです。
(「テンユウをホユウし、バンセイイッケイのコウソをフめる…」
の文言は何時の間にか暗記していました)

当時、私は国民学校1年生でした。
ちなみに国民学校制度は、私の入学した昭和16年(1941)から政令
によって制度化され、これまでの尋常小学校や尋常高等小学校が
すべてこの名前に変わったのです。

1941年12月8日は、大阪も寒い冬晴れの日でした。
朝早くラジオが「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英
軍と戦闘状態に入れり」という「大本営発表」を伝えました。
(この文句は有名になった後から覚えたのかも知れません。)
親父が「とうとうやったか!」と妙に興奮していたのを覚えています。
学校の帰りには、新聞販売店の前に号外が張り出されていました。
いわゆる「ハワイ真珠湾攻撃」による当初だけの大勝利の始まりです。
子供心にも「勝った!勝った!」と有頂天でしたが、この頃のたいてい
の人がそういう気持ちだったのではないでしょうか?

突如、まずメロディーがそして歌詞が思い出されました。
「見よショウトウ(檣頭?)に高らかに Z旗高く翻る 時こそ来たれ令一下
 ああ 十二月八日朝 星条旗まず倒れたり 巨艦裂けたり砕けたり」

間違っている可能性大で題名も忘れましたが、今頃また浮かんでくるとは
なんと恐ろしいこと…。



この本を読んで、オビに書いてある「国民的熱狂」という文字が
とても重く感じられます。後からでは何とでもいえますが、当時は
文化人もマスコミも殆どの人が「戦争に熱狂していた」していて、
庶民は否応なくその雰囲気や渦の中に巻き込まれていったのでしょう。

今、「戦後編」を読んでいますが、終戦は私の小学校5年生の時、
そして卒業すると新制中学校第1期生です。(最も小学高等科の先輩
がすでに2.3年生としておりましたが)
あの頃の想い出は、ただただ「ひもじかった」の一語につきます。
「昭和史」を読むと、日本中が飢餓状態だったことがよく分かります。

あの戦争のために失ったものは、国家も個人も実に大きなものでした。
今日は8月15日とは違った意味で、これからは二度と馬鹿な戦争をしない、
平和な国家であり続けることを祈る日でありたいと思います。

散歩の途中で (12月7日)

2009-12-07 17:02:01 | 矢田だより
今日は「大雪」、暦の上での名にふさわしい冷たい朝になりました。
晴れ上がった冬空に矢田丘陵がくっきりと浮かび上がっています。



昨日の写真の場所から少し先にある「一の矢塚」に寄ってみました。
田圃の中にぽつんと置き忘れられたような、荒れ放題の小さな小さな土塚で、
道標もないので地元の人以外にはちょっと分り難いところにあります。



しかし「矢田」の地名の元になった「矢落明神伝説」の三本の矢のうち、
最初の矢が落ちたのがここという伝承地になっています。

「矢落明神伝説」については「ペンギン夫婦お山歩日記」
矢田丘陵周辺の見どころの中の矢田座久志玉比古神社 の項と
同じページの下部の三の矢塚 の項をご覧ください。

堺市・大仙公園 (12月4日)

2009-12-05 13:12:14 | 旅日記


義妹宅近くの堺市・大仙公園に行きました。
公園は北を仁徳天皇陵、南を履中天皇陵に挟まれた中百舌鳥古墳群の中にあり、
日本都市公園100選に選ばれています。





仁徳天皇陵駐車場に車をいれました。御陵のマツの緑と真っ赤な漆の葉が
見事なコントラストを見せて、お濠に影を映しています。



広い公園内を歩きます。江戸時代のため池を改修したドラ池から平和塔を
見たところ。
平和塔は戦争や戦災で亡くなった方の慰霊塔で、高さ60m。
大仙公園のシンボルタワーです。
写真を撮った辺りは、サクラの園の近くで春には花見客で賑わうそうです。
今はもちろん枯葉が残るだけですが、大芝生広場の向こうに見える淡い桜色
が続いている場所へ、ゆるく登って行きました。



見事な紅葉と桜の競演です。



「四季サクラ」です。他に「十月サクラ」という品種も植えられています。



園内には小さな古墳がたくさん保存されています。これはグワショウ坊古墳。





「都市緑化センター」では「押し花展」が開かれていました。「四季の庭園」
も温室も今は花が少なく、やや淋しい季節です。
温室の外に咲くこの皇帝ダリアだけが、華やかな色どりを見せています。



四季サクラのところに帰り、別の道を駐車場へ帰ります。
「雷様の落し物という面白い形のモニュメントがありました。
はや夕暮れ近い感じになり、16時のチャイムが聞こえましたので急いで車に
帰りました。
あまり時間がなく慌ただしい散歩でしたので、次はゆっくり日本庭園など
他の施設も楽しみたいと思います。

枇杷の花 (12月3日)

2009-12-03 08:44:27 | 我が家の歳時記
家を建ててすぐの頃、庭の西北端に種からビワの木が二本生えました。
しばらくすると、放っておいても大きな甘い実がたわわに実りました。
ご近所だけでなく、職場まで持って行くほどたくさん出来たのですが、
樹が大きくなりすぎて北隣の庭にまで進入するし、夏になると大きな
毛虫が来て糞をまき散らしますので、何時の頃か二本とも伐ってしまい
ました。



それからまた何年か経って、今は西側の公共施設の敷地に落ちた実が大きな
木に育って、ブロック塀越しにふるさとの我が家に枝を伸ばしています。
確か民法では、こちらに入った実は我が家のものになる筈ですが…。

「枇杷の花ゆるやかに刻狂ひおり」岸田稚魚
「枇杷の花しきりに落つる日なりけり」石原舟月

山友クラブの思い出

2009-12-02 09:23:08 | 山日記
11月29日に50周年記念パーティが行われた大阪山友クラブに、変愚院が入会
したのは山を初めて2年目の1959年、♀ペンは61年に「山と渓谷」の会員募集
を見て入会しました。

1959年は4月10日に天皇が美智子皇后とご成婚、臨時の休日になりました。
もちろん喜んで山に行き、泉南の側川谷を遡行して槇尾山に登りました。
帰りにアベノの居酒屋で、ご成婚パレードをTVで見ました。
この頃は会の山行に飽きたらず、個人山行が多い生意気盛り…。



この年の春に唐松岳の帰りに八方尾根でビバーグする羽目になった時も、
5人パーティのうちリーダーとサブリーダーを除く3人が山友会員でした。


(1961年 仁川の岩場で)

1963年、チーフリーダーになりました。
1月に愛知工大生が薬師岳で遭難、13人という大量の犠牲者を出しました。
同じ日、弟の所属していた大阪岩嶺会も大喰岳(槍ヶ岳)で遭難と伝えられ
ました。岩嶺会で救援を相談しているときに、弟ともう一人が新穂高温泉に
下山して全員無事を伝え、負傷者は救援のヘリで救出されました。



山友クラブでは夏山合宿に参加するには、3回に分けて行うボッカによる
六甲全縦走のうち少なくとも2回参加することを条件にしました。
男子は30~40㎏、女子でも20㎏以上のボッカで、「あれは辛かった」という
想い出話が50周年パーティでもでていました。

ついでながら変愚院の誕生日の11月22日、アメリカ大統領・ケネディが暗殺
された年です。

翌64年、会長に祭り上げられました。トタンに120名いた会員は80人に激減
しました。辞めた人は殆どが女性で、いかに変愚院に人気がなかったかが
分かります。実は3月のリーダー会で山行以外の行事縮小、例会への参加義務
などが決議されて、幽霊会員をリストラすることになったことが大きいと思い
ます。これで当時でいえば日高パーティ、現在の言葉では合コンでの婚活目当
ての人はなくなり、本当に山が好きな人だけが残りました。


(1964年7月、白根三山縦走合宿で北岳を背に・前列左変愚院その横♀ペン)

10月東京オリンピック、そして12月、変愚院夫婦が誕生しました。


(1969年7月、三俣蓮華付近、このときの合宿は17名が参加しています)

この頃は春、夏、秋、冬と四季にわたって合宿が行われて、非常に活動が活発な
時期でした。

1970年、大阪万博、三島由紀夫割腹、よど号事件と色んなことのあった年です。
5月には日本山岳会隊がエベレストに登頂。
クラブでは創立15周年記念で槍集中登山を企画。西鎌尾根~、北鎌尾根~、
槍沢~、北尾根~奥穂~、など6つのコースで槍ヶ岳の肩へ集合。
全員で槍へ登って槍沢を降りようという計画でした。ところが集中日の前日、
台風が北アルプスを直撃。連絡もままならぬ中を各コースのリーダーの的確な
判断で全員無事下山しました。変愚院は蝶~常念~コースでしたが、横尾で
降りてきた北尾根隊と合流、上高地に下りました。ところが土砂崩れでバスは
不通。タクシーで平湯峠を越えて高山へ出ましたが、旅館はどこも満員。
駅のベンチで夜を明かしました。
結局この時、槍の肩まで行ったのは、屏風岩登攀を終えて涸沢から北穂へ登り、
大キレットを越えて風雨をついて縦走した、Tと変愚院弟の二人パーティだけ。
後でさんざんボヤカレました。

 

1971年、5月の春合宿の槍沢です。



このあと槍は肩までしか登れませんでしたが、天候回復後、蝶ヶ岳に登りました。

1972年、浅間山荘事件、札幌五輪、沖縄復帰の年。


(剣岳頂上にて)

この年の夏の大日~剣岳縦走が最後の合宿になりました。以後は仕事が忙しく、
しばらく山歩きから遠ざかって年報の編集などしていました。
15年足らずの在籍でしたが、この時代が私たちにとっては全てを山にかけた、
楽しい青春でした。