庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

私にとっての20世紀 加藤周一

2007-07-09 23:23:57 | 拾い読み
・私にとっての20世紀とは何かというと、私の経験に則して言えば、テクノロジーの進歩による環境の変化が一番印象的なことの一つです。・・・しかし、20世紀を生きてきて強く感じたのはやはり戦争です。・・・私は、あまり道徳的に良い人間ではないだろうと思いますけれど、ただ、私の良し悪しの判断の一つは、裏切りということです。友達を裏切ることはしたくない。p9

・資本主義社会ですから大抵のものには正札がついていて、値段の高いものはいいとか、値段の安いものはつまらないとかなる。同じ建物でも高い家と安い家がある、そういう段階がある。ところが、戦争中私が体験したように、死が迫ってくると、そういう段階は崩れるのです。要するに生札が取れてしまう。どっちでもよくなる。そうすると、これこれ特別なバラとか特殊な珍しい蘭(ラン)は高く、庭に生えている小さな花は大事ではない安いものだという区別がなくなってしまう。
 それは一種の価値の転換です。そういうことを戦争は体験させた。
 その印象というか経験が強かったために、一種の約束事として世間で高いもの、安いものとされている価値付けをひっくり返してみるというか、それを無視してみる見方みたいなものが自分の中に定着したと思います。それはほとんど詩人の態度、あるいは件p家の態度に近いと思う。物の価値は見方の問題、それを受け取る人の側の心の動き方に重点が合って、物そのものの性質はどんなに小さなものからでも強い幸福感や満足感、あるいはその美しさを読み取ることができるということです。p12

・1999年、ガイドライン法案、盗聴法、国民総背番号制、日の丸国旗・君が代国家法・・・政府が国民をコントロールできる広範な可能性を政治権力に与えた。・・・時限爆弾というものはすぐには爆発しない。・・・例、1920年代に通った治安維持法、これをすぐには使わなかった。しかし、それから10年、20年経つと、それを使って言論と集会の自由を弾圧した。これはもうファシズム国家です。その悪名高い日本軍国主義の柱の一つは治安維持法だった。まさに時限爆弾です。できたときは大したことはない、使わなければ別に心配はないといわれた。誰も逮捕されなかった。しばらくして、それが極限まで使われて酷いことになった。1925年に成立した時限爆弾が(主として)30年代に爆発したのです。p16

・1936年、2・26事件が起こって、国民の大部分にとってはあまりよく分からないままに、さりげなく静かに、「軍部大臣現役武官制」というものが復活した。だからってどういうことはないわけで市民生活には何の影響もなかったから、みんな安心していたのです。ところがちょっと経つと、軍部は、実際には陸軍ですが、自分たちの望まない内閣を、その法律を使って流産させた。p16

・多数派と少数派があって多数派に従って行動するというのは便宣的な問題です。・・・多数派が正しいということでは全くない。代議制民主主義とは意見が分かれているときには、仮に多数派に従って行動しようという約束なのです。その約束の中に多数派が正しいということは入っていない。
 ところが、そういうことを考慮しないと、少数派はいないほうがいいということになるし、あればその意見を無視する。できれば少数派を消してしまったほうがなおいいという考え方が成り立つのです。それがジョン・スチュアート・ミルが『自由について』の中でさんざん強調した「民主主義は少数派の尊重だ」ということです。p18

民主主義の最大の悪は多数派の専制であるといったのは、18世紀の米国の民主主義を観察した、トクヴィルです。ミルの意見もトクヴィルの意見も同じです。p19

・大衆の中にはいつの時代でも大勢ができます。それを強化して、大勢に乗ってこない人たちをその中に組み込んでいく作用、そういう意味での大衆操作は、テクノロジーと関係して今は昔よりも強くなっていると思います。p44

・大勢順応という習慣が強いと、それは現在のことに関心が強くて、過去や未来との関係において現在の行動を定義することが少ないということになります。過去の事実、ことに不快な事実を正面から見る習慣がない。それが一番基本的な問題だと思う。p44

・戦後世代の戦争にいたる責任というのは直接にはない。しかし、戦争をかつて生み出したような考え方、あるいは文化が今日持続していれば、それの持続か断絶かということは戦後世代に責任があります。・・・・もし望めば充分な情報を収集することができるし、自分で考えることができる。だから戦争を生み出した文化を承認すれば、それは間接に戦争に対しての責任があるということで、将来の可能な戦争に対しての責任があるということになります。要するに過去に対しては責任がないけれども、未来に対しては責任がある。 もう少し具体的に言うと、ではどういう文化に対して責任があるのかといえば、たとえば大勢順応主義に対して責任がある。大勢順応主義が最も危険なのは、その大勢が戦争に向かったときですから。大勢順応主義に批判なくして、若い世代が、つまり直接の戦争責任のない人たちが、戦争に対して責任はないということを主張するのは無理だと思います。そして戦争はもういっぺん起こりうる。決して最後ではないと思います。p47

・戦争中、能をたびたび見ていた理由は、一つは名優がいたからなのですが、特に能に興味を持ったのにはもう一つ理由があります。死が迫ってくると、演劇でも二次的なものをそり落とした、骨格だけの人間の劇が良くなってくるのです。そこに感動するようになる。・・・近代劇を二人の人間の間の葛藤であるとすれば、能は一人の人間の中に起こってくる生と死との葛藤なのです。あるいは神との関係ということになる。p110

・何でも思ったことが簡単に実現できるのだたら、それは劇ではない。人間が遭遇する自らを超えるものの力との戦いの中で敗北に終わっても、人間の尊厳がその中に生きてくればいい。人間の尊厳というのは、必然と自由との緊張関係の中にしかない。それはギリシャでもそうだったし、今でもそうです。・・・私が戦争で殺される可能性が非常に高くなってくると、それに対しての抵抗というのは、殺されていく事実そのものを変えることはできないから、今残されている時間の中で、精神の自由を最大に活用することだった。p113

・政治学、あるいは歴史学の場合には、学問が進めば進むほど歴史的な現象が現在起こっていることの必然性を理解することになるので、進めば進むほど批判力が低下する。p75

・客観的な知識を磨いていることから戦争反対が出てくるのではない。・・・戦争反対をできないようにする傾向が科学的知識の中には含まれている。ですから、「科学から倫理」ではなくて。『倫理から科学』でなければならないと思う。p76

海岸三首

2007-07-09 00:43:26 | 創作
梅雨晴れに炭の煙で風を見る 彼の地の空もかく平和たれ

初夏の浜飽きずに遊ぶ子供らは 砂の全てがセンス・オブ・ワンダー

海岸で離着陸する海鳥を 真似る翼のいかに拙(つたな)き 

-寛太郎