庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

一つの生命

2007-07-16 22:41:40 | 自然
昨日はちょっと嬉しいことがあった。

通いなれた海岸で、台風一過の南風にひと吹きされた後、着替をしていたら、アゲハチョウが一匹ヒラヒラと飛んできて、脱いだばかりのウェットスーツにとまった。

ウェット独特の匂いに誘われたか、その色合いが気に入ったか、それとも・・・早速デジカメを取り出して数枚撮ったのだが、どんなに接近しても恐れて逃げ出す景色がない。なにか私に特別な興味があるような風で、すぐ近くを舞ったりウェットにとまったりを繰り返している。

以前、山に通っていた頃に似たような出来事があったのを思い出した。やはりアゲハチョウが一匹、木立の中から突然現れて、昼食中の私のブーツの先にとまった。「大丈夫だから肩においで」と心の中で話しかけたら、なんとその通りの行動で応えた。その時、なんともいえない穏やかな喜びを感じると共に、充分に気持ちが通じ合えた・・・という気がした。

30歳を超えて「ドリトル先生シリーズ」を面白く読んだ・・・というわけでもないのだろうが、いつの頃からか、私は、この世界のあらゆる生命と人間は、何らかのかたちで心を通い合わせることができるに違いないと思うようになった。

相対的な違いはいろいろあっても、彼らも生命、私も生命。生命としての基本的な部分は同じなのだから、その基底部に触れるような方法をとることができれば、それなりの意思疎通ができないはずはない・・・。

これまでに、さまざまな生物との出会い触れ合いを経験したが、この思いが強い確信に変わったのは、1歳になったばかりの飼いネコの死と14年共に暮らしたビーグル犬の死に直接立ち合った時からだ。

ネコのミーが死を悟った時のあの毅然たる姿勢。犬のロビンのあの眼差しの優しさと穏やかさ。その生物種を超た崇高さは確かなもので、ある種、人間以上に人間的なものだった。私には、あれほど毅然と厳しく、あれほど優しく穏やかに、自分の死を迎える自信は今のところない。