庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

日本文化における時間と空間 加藤周一

2007-07-17 17:33:58 | 拾い読み
・維新当時の大勢順応主義は、10年後に少しも変わらなかった。福沢の「日本人」は100年後には変わったか、少しも変わらなかったように見える。
 例えば1937年。当時の大勢は、もはや「文明開化」でも「大正デモクラシー」でもなく、また国際連盟や軍縮でもなくて、対外的には中国侵略戦争へ、対内的には軍部独裁体制へ向かっていた。「大勢」は維新以後三転四転した。しかしその各時期に「日本人」は、極めて少数の例外を除き、それぞれ大勢に従った。福沢のいわゆる「大勢に従うの趣」は、まことに「豪も」変わらなかった。36年に陸軍の「皇道派」は「軍事クーデター」を企てて、権力奪取に失敗したが、同じ陸軍の「統制派」はその失敗を巧みに利用し、権力機構の内部において陸軍の影響力を画期的に拡大することに成功した。はたして37年には東京の中央政府の意思を無視し、陸軍は中国との戦争を拡大した、盧溝橋から上海へ、上海から南京へ。この大勢に議会で抵抗したのは、36年に「粛軍演説」を行い、40年に対中国政策を批判して衆議院から除名された斉藤忠夫ただ一人である。彼の除名に反対したのはわずかに7名に過ぎず、社会大衆党は党決定に反して欠席の形で斉藤の除名に反対した10名を除名した。周知のように、その後に来るのは「体政翼賛体制」と太平洋戦争であった。p122

・私は、昨日まで天皇のために命を賭すとまで言っていた「日本人」が、占領下の天皇の「人間宣言」を、静かに、平然として、当たり前のことのように受け入れるのを見て驚いた。彼は「天皇はカミ」と信じていたのだろうか。もし信じていなかったとすれば、その為に命を賭すことはできないだろう。もし信じていたとすれば、天皇自身の「カミではない」ということばを全く平然と受け入れるはずはないだろう。この矛盾を解くためには、「カミ」の概念と「信じる」という動詞の意味論に立ち入るほかはない、とその後の私は考えるようになった。しかし、今はそのことに立ち入らない。(注14↓)p126



・かくして、「ここ」の文化も、「今」の文化と同じように、部分と全体との関係に還元される。別の言葉で言えば、部分が全体に先行する心理的傾向の、時間における表現が現在主義であり、空間における表現が共同体集団主義である。p239

・雪舟や芭蕉が偉大なのは、彼らが日本の「自然」を発見したからである。発見するためには京都や江戸の旅の、閉じた文化圏の枠を破ってそこから脱出する必要があった。しかし今では彼らの発見した「自然」そのものがなくなった。少なくともその大部分が失われた。・・・彼らは旅に一時の安らぎと楽しみを見出したのではなく、自然と共に「このひとすじの道」、すなわち新しい件pの創造力を見つけたのである。p248