塩釜の後は、再び南下を始めました。
名取市は仙台空港のある市で、当然行きにも通ってきたわけですが、その時は全く土地勘が働かずに素通りしていました。しかし名取市閖上地区と言えば、その仙台空港から車で10分ほどの所にあり、かつ東日本大震災の津波到達の様子がNHKで30分ぐらいにわたって放映された所でもあり、人口の1割がなくなった地区でもあり、また自分の震災関連の記事に度々登場する「宮城の知り合いの先生」が、過去に赴任していた学校がある場所でもあります。
この辺りはずっと平野が続いており、津波も数kmに渡って押し寄せてきたそうです。建物があったのかなかったのか分からないような更地が見渡す限り広がっており、また所々に転々と漁船が打ち上げられていました。その数は、一瞥しただけも数隻を数えたので、その総数はおそらく2桁か、場合によっては3桁に届いているのかもしれません。
この前日にその先生と連絡が着き、7年ぶりぐらいに話をしました。本日この学校に寄るつもりだということも話したので、一応関係者の許可?を得たつもりになって伺った次第です。当然、うちの学校であれば、正門は休日であれば基本的に閉められ、「関係者以外立ち入り禁止」と張り紙がされているわけですが、ここにはその門自体がありません。また、学校を囲んでいたであろう樹木やフェンスもほとんどなく、敷地であったことを示すコンクリートも所々削り取られていました。やや遠慮がちに敷地内に入り、また誰かに咎められれば早々に退散するつもりで歩を進めました。
しかし、そんな心配は全く無用でした。と言うか、学校の建物自体がもう機能していなかったからです。正面玄関は開きっぱなしで窓ガラスは割れ放題、通用口?は扉すらありませんでした。校内は泥と砂がまだ残り、教室内にもなにもない、完全な廃墟と化していました。まあ、当然机いす等はあったでしょうから、既に片付けた後だということでしょう。注意深く見ると、1階の壁には泥の後が生々しく残っており、その汚れの到達点は首の高さを超えていました。津波の予想時刻を30分ほど越えた頃、校庭に津波が押し寄せ、体育館に移動していた100余名がまた一斉に校舎を駆け上がったそうです。最大では2階まで波が来たそうで、たまたま職員室や校長室は2階にあって無事でしたが、当然水も電気も使えません。ただ、トイレに「流す際はバケツの水を使ってください」の張り紙が残っていたので、しばらくの間、決して少なくない数がこの環境下で避難生活を送っていたのでしょう。
校庭には、「チビッコ丸」という舟の遊具がありました。「学校の中に舟があって、皆が遊んでいた。」と、宮城の先生が7年前に話してみえたのを思い出しました。漁業が盛んな地区なので、学校のシンボルだったのでしょう。しっかりと固定されていて無事流されずに済んだようですが、まさか学校付近にまで同じように舟が転々と地面に乗っかることになろうとは・・・
そのうち、体育館に人が入っていくのが見えました。支援物資の供給とか、もしかしたらまだ身元を捜す伝言板などがあるのでは?などと思いつつ、恐る恐る覗いてみて驚きました。一面のダンボールの山。支援物資ではなく、地元で見つかったであろうアルバムや写真の山でした。ボランティアによって洗浄・整理され、名前が判明しているものは50音順に並び、その他は手がかりの情報のメモと共に、ずらっと並べられていました。しかし、その方達の熱意に感嘆したものの、フルネームまで分かっているのにも関わらず、1年経っても持ち主が取りに訪れていないことに違和感を覚えました。子どもの七五三の写真や、結婚式、卒業アルバム、旅行の記録等々、皆命の次に大切なもののはずです。まさか1年経って、ココにそういったものが集められ、50音に分けられている情報を知らないわけはないでしょう。と言うことは、逆にその思い出を受け取り、かみ締めるのが辛い状況に苛まれているか、もしくは受け取り手がすでに存在しないということなのか・・・この裏には、仏具や位牌に加え、ランドセルや上靴・鍵盤楽器等もたくさん置いてありました。こちらも当然名前が判別できるものが多かったのですが、50近いランドセルの引き取り手が今だないというのは、新しいランドセルを手にしたからもう必要なくなったのか、津波を思い出すから心情的に受け取れないのか、または県外に引っ越して簡単に取りに来られないか、そのいずれかに違いない・・・と自分に言い聞かせたものの、もう1つの可能性がどうしても頭から消えず、無性に悲しくなりました。
1年生を教えていると、新しいランドセル1つに子どもがどれほどの喜びと期待を抱いているかが良く分かります。10年後でもいいから、必ず名前の主に取りに来てほしいなあと思いました。
名取市は仙台空港のある市で、当然行きにも通ってきたわけですが、その時は全く土地勘が働かずに素通りしていました。しかし名取市閖上地区と言えば、その仙台空港から車で10分ほどの所にあり、かつ東日本大震災の津波到達の様子がNHKで30分ぐらいにわたって放映された所でもあり、人口の1割がなくなった地区でもあり、また自分の震災関連の記事に度々登場する「宮城の知り合いの先生」が、過去に赴任していた学校がある場所でもあります。
この辺りはずっと平野が続いており、津波も数kmに渡って押し寄せてきたそうです。建物があったのかなかったのか分からないような更地が見渡す限り広がっており、また所々に転々と漁船が打ち上げられていました。その数は、一瞥しただけも数隻を数えたので、その総数はおそらく2桁か、場合によっては3桁に届いているのかもしれません。
この前日にその先生と連絡が着き、7年ぶりぐらいに話をしました。本日この学校に寄るつもりだということも話したので、一応関係者の許可?を得たつもりになって伺った次第です。当然、うちの学校であれば、正門は休日であれば基本的に閉められ、「関係者以外立ち入り禁止」と張り紙がされているわけですが、ここにはその門自体がありません。また、学校を囲んでいたであろう樹木やフェンスもほとんどなく、敷地であったことを示すコンクリートも所々削り取られていました。やや遠慮がちに敷地内に入り、また誰かに咎められれば早々に退散するつもりで歩を進めました。
しかし、そんな心配は全く無用でした。と言うか、学校の建物自体がもう機能していなかったからです。正面玄関は開きっぱなしで窓ガラスは割れ放題、通用口?は扉すらありませんでした。校内は泥と砂がまだ残り、教室内にもなにもない、完全な廃墟と化していました。まあ、当然机いす等はあったでしょうから、既に片付けた後だということでしょう。注意深く見ると、1階の壁には泥の後が生々しく残っており、その汚れの到達点は首の高さを超えていました。津波の予想時刻を30分ほど越えた頃、校庭に津波が押し寄せ、体育館に移動していた100余名がまた一斉に校舎を駆け上がったそうです。最大では2階まで波が来たそうで、たまたま職員室や校長室は2階にあって無事でしたが、当然水も電気も使えません。ただ、トイレに「流す際はバケツの水を使ってください」の張り紙が残っていたので、しばらくの間、決して少なくない数がこの環境下で避難生活を送っていたのでしょう。
校庭には、「チビッコ丸」という舟の遊具がありました。「学校の中に舟があって、皆が遊んでいた。」と、宮城の先生が7年前に話してみえたのを思い出しました。漁業が盛んな地区なので、学校のシンボルだったのでしょう。しっかりと固定されていて無事流されずに済んだようですが、まさか学校付近にまで同じように舟が転々と地面に乗っかることになろうとは・・・
そのうち、体育館に人が入っていくのが見えました。支援物資の供給とか、もしかしたらまだ身元を捜す伝言板などがあるのでは?などと思いつつ、恐る恐る覗いてみて驚きました。一面のダンボールの山。支援物資ではなく、地元で見つかったであろうアルバムや写真の山でした。ボランティアによって洗浄・整理され、名前が判明しているものは50音順に並び、その他は手がかりの情報のメモと共に、ずらっと並べられていました。しかし、その方達の熱意に感嘆したものの、フルネームまで分かっているのにも関わらず、1年経っても持ち主が取りに訪れていないことに違和感を覚えました。子どもの七五三の写真や、結婚式、卒業アルバム、旅行の記録等々、皆命の次に大切なもののはずです。まさか1年経って、ココにそういったものが集められ、50音に分けられている情報を知らないわけはないでしょう。と言うことは、逆にその思い出を受け取り、かみ締めるのが辛い状況に苛まれているか、もしくは受け取り手がすでに存在しないということなのか・・・この裏には、仏具や位牌に加え、ランドセルや上靴・鍵盤楽器等もたくさん置いてありました。こちらも当然名前が判別できるものが多かったのですが、50近いランドセルの引き取り手が今だないというのは、新しいランドセルを手にしたからもう必要なくなったのか、津波を思い出すから心情的に受け取れないのか、または県外に引っ越して簡単に取りに来られないか、そのいずれかに違いない・・・と自分に言い聞かせたものの、もう1つの可能性がどうしても頭から消えず、無性に悲しくなりました。
1年生を教えていると、新しいランドセル1つに子どもがどれほどの喜びと期待を抱いているかが良く分かります。10年後でもいいから、必ず名前の主に取りに来てほしいなあと思いました。
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