katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

棟梁とリピーターさんとみどりの相席教室

2017-09-15 00:19:16 | モザイク教室
今日は棟梁とリピーターさんとみどりの相席教室。ではまずリピーターさんから・・。これがこんなの初めて見たと思うんだけれど・・・これを見て貰おうかな・・・。


これはこの方が色を塗った下絵に1cmタイルをこう切って作ろう・・・って線が入っているのね。凄いでしょ?ただね、この通りに切ろうとすれば、不慣れであればあるほど、失敗した時に上手く切れなかった・・・と言うダメージを受ける事になるのね。

しかし、そのダメージが少なく済む人なら、なるべくこの通りに切れれば・・・って目安として使えると思うのね。まっ、これが棟梁の前フリにもなるんだけれどね・・・。要するに棟梁の場合、切る事に早々困らないのね。じゃ一体何に困るのか?となると・・・



この図面のような絵があれば、きっとこの通りに切っちゃうんだろうね・・・左程困らずにね。つまり切る技術が上がれば上がるほど、こうした感じの線が欲しくなるのね。けれど、今ドレスの最後の部分をやり出したんだけれど、どうだろうか?

そうなのね・・・・何も描いていないのね。つまりかなり流動的になる・・・まっ言い方変えればほぼ感。確かに感でもそこそこ結果は出るのね・・・たって切る事が上手いから。ただじゃ今後はどうだろうか?となると、伸びしろが少なくなるのね・・・。

だって後は感なんでしょ?・・・今後もってね。だからこそ、切る事が上手くなったら・・・それを生かすも殺すも感じる事なのね。
じゃ何をどう感じるのか?となった時に、あわてんぼうさんは話を聞かずに、じゃ線を入れれば良いんですよね?ってなるのね。

じゃどんな線をどう入れる?って聞くと、何て答えるのかな?・・・ほらね、また感になる・・・って感じ。そこをしっかり感じてからの行動。そこで一体どうしたいのか?残りのドレスは・・・と聞くと、ヒラヒラしたい・・・レースだからって。

ここなのね・・・上手くなりたい人の伸びしろ部分って言うのはね。じゃいつものように、ヒラヒラってどんなか?やって見て・・・って事になると、ヒラヒラを横を手に表現するのね。例えば同じ事を俳句のくじらに質問したとする?何て答えるだろうか?

ここで何が言いたいか?は切る技術がまだ慣れないリピーターさんが全てを教えてくれるのね・・・しかも本人は何も気が付かずにね。ではその答えが、縦に手を向けたのね。お見事なのね・・・では例えばヒラヒラを使って何か文章を作ったとする。

すると、ヒラヒラと葉が落ちたりしない?・・・もしそうだとすると、棟梁の横の手は本当は一体何て表現をするのだろうか?って事になると、ユラユラだったりしないかな?・・・つまり、棟梁はヒラヒラを作りたいんじゃなくて、ユラユラを作ろうとして

いた事になるのね。そうすると、完全に勘違いをしているのに、ヒラヒラが作りたいのにユラユラを作ってしまう事になる。これをそんなのどっちでも良いじゃん・・・って言った人は、そこまでで平気な人なのね。つまり左程こだわりは無いのね。

だって俳句のくじらなら、ヒラヒラとユラユラでは全く違うって言うだろうし、もし同じじゃんって人は、もう国語なんて大した勉強なんていらないのね・・・だって、繊細な表現はいらないのだから、どっちも一緒なら1つだけ覚えれば良いのね。

ただそれをひとたび違うと感じたのなら、ヒラヒラと葉が落ちて、ユラユラとその落ち葉は流される・・・みたいな事になると思うのね。つまりそれを感じられた人は、縦に落ちて横に流れた・・・って事を伝えたい事になる。

では今の表現のままに棟梁が作ったのなら?・・・ヒラヒラと言ったが縦を気にするのか?と思いつつ、実はユラユラが作りたかった・・・横にを意識して・・・って気持ちなのだから、要するに3段に分かれている横のラインを3本入れようとするだろうね。

果たしてそれで自分の描いたラインの特徴を生かす事が出来るだろうか?・・・俺の目にはブロックに区切られているように見えるのだが・・・ただそれをグルッと区切ってしまうと、羽根のようになってしまい、1度使ったテクニックの使い回しになるし、

使い回しをした事で、折角の特徴を1つ無くしたように見えてしまうのもね・・・そうすると、今までに無い表現をしたい訳で。しかもその表現を自分でヒラヒラとしたのね。所が本当はユラユラと横のラインしか意識はしていない。

それなら何もブロック状に描く必要は無かったんじゃないのかな?つまり自分の描いたブロック状の形を表現したかったのなら、実は縦ラインも必要になったりしないのかな?だからヒラヒラとユラユラの違いを体感して欲しかったのと、それに寄って一体、

何処が強く感じる場所か?って事を知って欲しかったのね。まぁこだわっている人への説明は非常に難しいのね。しかも、その人に自覚が無く、そんなに難しい事をやろうとしている意識が無い場合、意識から変えないと、何も変えられないからね。

こんな事は何でも一緒で、例えばピアノだったりする。楽譜通りに弾けば良いじゃん。音は合っているじゃん。上手いじゃん。もう誰もが一緒じゃん。金魚だってそう。品種一緒じゃん・・・はいおしまい。これで良い人ならそこまでで十分なのね。

所が一度こだわりを持つと、強弱を付けたりして弾いたりする。何で?・・・それはその情景にあったようになんじゃないのかな?
単に音符を追うだけなら、強弱なんていらないのね。その場面場面にあった弾き方を追求したからだったりするんじゃないのかな?

つまり感じるって事が必要になると、その感じ方を理解しないと、ただ目先の音符のみを追い掛ける事になる。それを不慣れな段階では音符通りに弾く事に意識は取られる。だからそんなに余裕は無いのね。じゃ何故か?それは時間が流れて行くから。

取り直しが出来るCDなら細切れに取る事が出来るから、音符をやっとやっとだとしても、生での演奏のような緊張や緊迫しない分、連続技の繰り返しにならないから、そこそこに誰でも聞こえるはずなのね。ここね、つまり細切れに出来れば良いのね。

って事は連続技の繰り返しのモノ作りって?・・・例えば、陶芸。形を作っても乾燥してヒビも入るかも知れないし、釉薬が思う色に出ないかも知れないし、焼いて割れる事もある。もう元には戻らない・・・流れの技の繰り返しになる。

それが油絵だったら・・・何度も繰り返し塗り足す事が出来る。是正が出来る。勿論、是正の技術は必要だけれど、陶芸のようにやり直ししか無いものでは無い。じゃモザイクは?目地以外左程取返しが付かないような事は無いだろうし、それとて陶芸ほどの

ダメージは無いはずなのね。もっと言えば、大して進まない分、きちんと意識すればその通りに進める可能性は広がるはずなのね。しかしながら、時間が掛かる分、失敗のダメージは大きい・・・だからこそ、こだわりを持った人は感じる事が重要になる。

それでね、ここまではヒラヒラとユラユラの話の分なのね。ここから更に、レースだから・・・って言葉が加わるのね。じゃレースってどんな感じ?ほら、また感じなきゃならなくなった・・・すると、透けているって言うのね。どんな感じに?・・・

すると、このスペースいっぱいに埋め尽くす勢いの細かい絵を描こうとするのね・・・こらこらこら。こんな狭い敷地の中にやりたい事を満載にしては本末転倒になると思うのね。つまり、レースが大事な人は透けている方が大事になるのね。

つまり通過して行く下を通過する方をね。それをレースは透けている・・・と表現をして置いて、実は表になる方の模様を作ろうとしているのね・・・ただそうしようとしている人は、その模様は出来るって腕を持っているからこそ、それが出来るから、

そんな表現をしているんだけれど、実はそれはレースは透けている・・・って作り方では無く、レースのような模様がが作りたいだけで、下を通過する方をないがしろにしている表現をしているのね・・・意識は全く無くね。

だってきっとほって置いたら、模様で埋め尽くして、下を通らないとならない部分の隙間を空ける気はサラサラ無いからね。これが2mの大きさなら、流石に模様は埋め尽くすアイデアは出ないから、逆にスカスカに空くだろうから、いくらでも下を作れる。

つまりレースのような・・・とこんな狭い部分で作りたい場合、やりたい事を1つに絞れば可能性は高くなるが、何もかもそこに出来る前提で進めば、恐らく透け感は出来ずに、素敵な模様を作っておしまいになるだろうね。

ただそれでも、まっ良いかっ・・・って思えれば、それはそれで構わないが、もしその模様は上手く行ったとしても、自分の思った透け感が出ていない・・・と感じれば、納得しないだろうね・・・。ここ。・・・と感じればって急にここで感じた・・・。

作る前に感じるものを、結果だけ感じようとする。ここが直れば、棟梁は上手くなるのね・・もっと。だから、モザイクの腕じゃないのね。それが、くじらもそうだし、今日のリピーターさんもそうだけれど、モザイクの技術は確かに棟梁よりも劣っていても

感じる・・・って事はモザイクとは一切関係の無い技術だから、誰にでも権利があるのね。いかに感じるか?は感受性だの感性って話だから、敏感かどうか?になる。それをくじらは俳句の人だから、文字にする・・・だから伝える人になる。

ただ難しいのは俺もそうだけれど、長い時間携わると、色んなテクニックが身に付いたり、もっと言えば生き方なんてもんも影響したりする。例えば、俺に回せ・・・と主張するストライカーや4番バッターは主張が得意だと思うのね。

この場合、誰にでも判りやすい。直接的なんでね。これを逆も真なりなら、キーパーやらキャッチャーって言うのは、正反対のような主張なのね。目立ち方だの、存在が人から見た場合にね。こんな事に向いている人って誰?って話。

人はそれぞれの生い立ちやら生活習慣の中で、人間形成をして来た訳で・・・その繰り返しをしている。それがひとたび目指すなんて口にすると、当然その輪からはみ出す事になり、そこの場所では生きづらくなったりするから、みんなと一緒みたいな、

空気を・・・なんて事を意識したりさせられた感はあったりもする。勿論、気にならない人はそれで良いが、気になる人もいるし、疑問があっても口にしない人もいる。ではくじらは?となると、表現者だから、伝えようとする事が普通に感じるのだけれど、

これが古文みたいに伝わる人にだけ・・・って形を取ると、薄味になる。所がそのさじ加減を間違えると、最初から薄味だった場合、自分の思っている以上に薄くなるし、逆に棟梁のように自分の普通が人には濃く感じる事もある。

そんな場合を考えて、普通の基準は何処に置くか?・・・が感じるに繋がるが、その前に自分の表現が伝えたい事と見合っているか?・・・になる。それが17文字の規制の中では、伝えたい事は相当削られているはずなのに、更に消そうとすれば、

談志さんの落語みたいになる。要するに説明をしないと判らない人に違う事例やら、比喩やらを使ってその意味やら心情を伝える為に横道に反れて、本題からずれたとしても、長い時間の中で、ご理解を願うと、自分のファンを獲得する事にもなる。

しかも、通なお客さんは、落語の本題よりも個性的な枕やその説明が面白かったりもする。ただ逆にうんざりだわっって嫌われるリスクも多いけれどね・・・・ここにもそんなのがいるがね。

そもそも古典落語のように昔から同じ話で個性を出すなんて、それもそれでテクニックだと思うが。だからこそ、人と違うようにするには・・・って考え方の1つではあるのだけれど・・・。

おっと話を戻して、要するに人はついつい習慣でそこの位置に落ち着いたりするんだけれど、そこから違う景色を見たければ、何かを変えないとならない・・・って良く成功者さんが言うから、何かを変えなきゃ?何を・・・だから意識。



良くみどりが意識が少しだけ変わった・・・って言うのだが、そう思えたのなら、当然作品にも反映されるものなのね。だって、作品は自分自身なのだから・・・。いずれにせよ、この3人の相席、中々面白い環境なのね。

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