今日は午後からさくらとキウイの相席教室。それまではトラックの玄関ポーチ。6枚の繋ぎ目を中心に・・・。
段々と終わりが見えて来たのね。さてそれではさくらから。眼が1つ終わったのね。どうしても苦手な人には難しいのは、瞳のような丸い部分をピザを切るような感じで、中心部の丸をくるむみたいに・・・。
例えば、葉っぱのような葉脈のような、しっかりしたラインがあると、それに合わせて切れば全体が葉脈によって、ブロックごとに分かれたりする。そうすると、そのブロック1つ1つで考える事も出来たりするが、全体の葉っぱの大きさで
考える事になると、一体どんなパーツにしたら良いのか?って言う悩みが起こるのね。例えばそうね、料理で例えると、ベテラン主婦なら、どんな食材を貰っても色んな使い方が浮かんだりする。でも初心者なら?どうなるのかな?って話。
例えば、俺ならゴーヤだとしたら、もうゴーヤチャンプルしか浮かばない・・・こんな感じ。つまりこれをモザイクに当てはめたら、ベテランなら、こんな仕上げもある、あんな仕上げもある、これに合うのはどれかな?って何通りもある。
しかしながら、初心者の場合なら、困ったらクラッシュ・・・とても安全に進められるし、そこそこの結果も出る。じゃさくらの場合となると、眼をクラッシュって訳には行かないから、苦手と知りつつピザな感じ・・・になる。
そう考えると、やっとやっとではあるが、何とか切り抜けたって感じなのね。結果の良し悪しよりも、やった事の方が大きいのね。昔なら難しいから出来ない・・・とか、上手く出来ないから・・・と最初からやらなかっただろうけど、今は
結果はどうであれ、やる・・・って気持ちがある事が大事なのね。やらなきゃ何も始まらないし、上手くなる為の1歩に手を出さないのでは、その是正も出来ない。そう言う点では、良く頑張ったのね。最近、同じような話が続くんだけれど、
例えば、良く自分の事は自分が一番良く知っている・・・なんて事を言ったり、こんな事不器用だから出来ない・・・と自分で決めてしまったり、いずれにせよ、自己完結の話をする人がいたりするのね。でもね、凄い事って今すぐは結果に結び付かないから、凄いんじゃ無いのかな?
そうね、インスタントをチンしただけなのに、凄いね・・・料理上手いねとは言わないでしょ?これが子供が作ったのなら、出来た事を褒めるし、ただ味は2の次。でも大人だって初めてなら同じ事だし、増して大作ならなおの事。
チャレンジする気持ちは大事だし、でも大変な事ばかりが続く訳で・・・でも最後まで終われば達成感が2.3日で出来たものとは全く違う訳で・・・。それは作った人にしか判らないものなのね。それがキウイの作品だったりするのね。
この作品は十数年掛かっているのね。勿論、道中に何作も作っているし、全時間使った訳じゃ無いんだけれど、果てしない時間が掛かっているのは確かなのね。それは完成すると、コースターや鍋敷きの体験とは比較にならない作品になる。
つまりこう言うものは、飾りたい・・・ってモノでは無くて、習って自分は一体どの位の腕なのか?みたいなもので、物騒な比喩なら、竹刀では無敵と言われても、実践・・・つまり人を切った事が無い。それが竹刀から日本刀で練習を積んで・・・。
見事な太刀って感じなのね。だからこそ凄いって見えたりするし、誰が見ても果てしないのが判る時点で、見事なんだけれど、絵画と違って、そっくりそのまま写真見たい・・・って仕上がりになりづらい事が、絵画との比較で見劣る原因なんだけれど、
モザイクを知っているのなら、凄さは増々痛感するはずなのね。何しろ技術が判るからね。これがどんなに絵画や彫刻の腕を持っていたとしても、所詮判断は何と無く・・・何しろ見る所はデッサン力だけ。つまり野球の選手にサッカーの選手が褒められた・・・そんな感じ。
でも凄い人は素人にも判るのね。大谷選手なら誰もが判るでしょ?凄さって言うのはそう言うモノなのね。そうね、この2人の眼位になると、トラックの玄関ポーチの質なんかも判って貰えたりもするのね。2人共にコンテナを見て切ったんだ・・って。
まぁ恐らくそんな所に眼が行くってのは通なのね。まぁ普通なら、言われないと判らないと思うのね。何せただの真っすぐなパーツだから。こんなタイルがあるんだろう・・・とでも思ってしまうだろうし。でもそんな時はちょっと笑う。
気付かれなかった場合、それこそが見えないお洒落って話。そんな事が粋だったり、通だったりするのなら、見えているのに見えない・・・まさに究極のお洒落なのね。だとするのなら、2人の作品はそれっぽく見えるのね・・・。