今日はベスパの張り上がりから・・・中心部になる文字の両脇なんだけれど、床屋さんってバーバーって言うでしょ?お孫さんがいるから、駄洒落ね。
床屋さんに引っ掛けたのね。それで両脇はバリカン・・・これで下部終了となり、こっちサイドは終わったのね。って事で、側面反対側スタートとなるのね。
そりゃこんな既存の葉っぱのタイル張りゃ、誰でも素敵に出来るのね。若干イラッとも来るし、とは言え、もうやり過ぎだしなぁ・・・って気持ちもある。
何しろ作家なんて生き物は、人と違った事がしたいし、凄いとか言われるのが普通ってイメージなのに、普通な事でも普通が違和感・・・。ただそれでも
その普通って思っている中に、例えほんの少しでも爪痕程度に何か盛り込もうとする訳で・・・。だから直接表現って言うより間接表現チックにね。だから、
一番上の葉っぱが輪郭のタイルを突き破って成長して行くって言うのは繁栄的なイメージと、2014って事が新しいんで、左右対称では無く伸びしろ・・・
ってイメージなのね。ただ余りベスパと違うと違和感になるだろうから、バックは同じ白・・・この辺までは決めてあったから、ここまでは何と無く・・・
思った通りだったが、あぁ文字を囲うタイルを韻踏んだ方が良いかぁ・・・と、ベスパの中心部に合わせて見たら、やっぱパンチが足らないな・・・と
大きな文字を赤にしたのね。そんなこんなでアトリエに戻った後は、
実家の隣の方が、父にナンテンを持って来てくれて・・・それを見て、あぁ金の丸入れよう・・・って思ったのね。そうね、良くひらめきみたいな事を言うでしょ?
そうね、デジャブ的な・・・俺はこんな事を思っているんだけれど、例えば進撃の巨人の漫画で、過去の記憶なんて言う事を題材にしているんだけれど、
それは例えば、自分の記憶では無く、父や母、祖父や父母・・・もっともっと前に遺伝子として受け継がれているのなら、自分の記憶では無く古の人の記憶
なんて事になるだろう・・・と。かと思えば、近々の記憶的に、作っている最中に何か物足りないんだよなぁ・・・と思っていたとする。自覚無くね。
ただそのナンテンを見た時に、何か・・・では無くて、この丸か?ナンテンはヒントなのかぁ?って気が付くような感覚で、そのまま取り入れれば、赤丸だが、
ここは金のなる木なんじゃないの?・・・とか、まぁヒカルの碁でも、同じような話で、ヒカルにはサイがいたんだけれど、普通の人にはいないし見えない。
ただ今の話のように、俺は遺伝子の話やら、デジャブなんてもんをこんな風に思ったりするのね。だからどれも普通なのね。変わった話じゃないのね。
それをエリートの場合なら、勉強をして理屈を習う事になるんだけれど、それは先人の知識を習うのだから、歌舞伎とか落語の感覚になる。
それは今更俺には無理って事になると、それとは別なもので補わないとならないのね。だから知識では無く知恵って事になるのね・・・。
エリートの場合、基本的な事から学ぶ・・・つまりみんなと一緒になる。それは学校だから。何かを教わるって言うのは、みんな平等になるのね。
ただみんな平等なら差は出ないはずなんだけれど、スポーツに体が大きい小さいで、有利不利があるように、美なんてもんは、目に見えない事が多い。
勿論、デッサン力だの、色彩能力だの、目に見える差はある。ただ教わった強さがあるのなら、教わらない強さって言うのもあるのね。影響されないってね。
でも自己流には限界があって、それが何が?になる。足りているなら足りないのは何か?だろうし、足りていないのは未熟なだけ。とても判りやすい。
その時に、ある程度技術って言うのは反復で解決するものなのね。例えば、職人なんて場合は、古典落語と同じスタイルなのね。一般的には。
こんな場合、図面が来たり、いつものスタイルって言う工務店の指示があるから、言われた通りに仕上げるって言うのは、0から考える事は無いのね。
これが、職人さんにお任せします・・・となると、タイル選びから、お客さんと打ち合わせやら、デザイン、金額等の交渉やらをやる事になる。
でもそれでもそんなの出来る・・・なんて人は、デザインなんて考えずに、ただ四角いタイルを張るだけって思っている人なのね。お花を作ったり、模様を
考えたりしない、出来ない、考えもしなかった人なのね。つまり出来ないのね。そもそも考えるって言うのは、その人、その人の個性であって、例えば、
ウチの犬なんてお題の場合、犬自体は写真だから、キチンと切れれば、ある程度の腕があれば誰がやっても出来るものなのね。ここで一番大事なのは、実は
バックなのね。ここが各々の見せ所なのね。個性を出す絶好の場所なのね。そこで杏さんは思い出でもあるのかな?ネモフィラを選んだのね。それはその人しか浮かばない。
そんな事が個性の第一歩になる。思い入れや情緒なんてもんは、切る、張る技術とはまた違った技術で、作曲が出来るからって作詞が出来るとは限らないし
打つのが凄くても、守る事が凄いとは限らないのね。つまりベスパの方は、ありとあらゆる情報から、全てを網羅した上のデザインであって個性的なのね。
それを何の情報も無く、必要最低限だけだと看板になる。ただそれでは場が埋まらないのね。勿論、福山くんや長渕さんなら、ギター一本でドームもあり
だろうが、俺じゃね・・・この大きさじゃ間が持たないのね。そこで余計な事を省く・・・つまり個性を消す的になれば、無難になる。考えないのだから、
難が無くなる・・・無難。それでも多少は考えるから、こうなるんだけれど、ベスパのような構想って言う程の事は無いのね。しかもこうして葉っぱのたいるのように、
既存のタイルを使えば、技術として切る上手さは見せられないのね。だからそれをどう張るか?だけになる。元々素敵なのだから、左程変わらないし、
こうしてお披露目してしまえば、簡単に真似が出来るのだから、デザインとは残酷なものだったりする。そうなると、切るって技術は簡単には真似が出来ないし、
大きな差として判りやすいのね。その時にコースターや鍋敷きとは大きさが違うから、飲まれやすい。大作って言うのが大事なのはそんな所なのね。
人は慣れると慣れで、手慣れしちゃうのね。癖とかがあって、ついついいつもと同じ気に入った事しかしなくなるのね。チャレンジしなくなるとでも言うのかな?
所がこんなに大きいと、いつもの手慣れた事って訳には行かなくなるし、戸惑ったりする。ここが勉強になるのね。所がこうして何度か繰り返す事で、
大きさにも慣れて来る。まぁひよこもダチョウも鳥だから、飼育は一緒だとしても、きっと違うよね?でもそれだって飼育員だとしたら、きっと慣れる。
だからゾウも一緒。俺もこの大きさに慣れて来た感じなのね。ただ慣れとは恐ろしいもので、慣れると油断をするもんなのね。大抵現場の事故は、ベテラン
であって、素人みたいな奴は怖がるから、危ない事はしないのね。つまり油断って言うのは、ベテランがするものなのね。そう言う点では、まだ大きさには
未熟だから、そんな油断をする事は無いが、ビビリって感じの素人や若手って感じからは少し前進したかなって感じなのね。このピエロの壁画で・・・。
色んな事を得た・・・katsu前進って手応えはある。