まずはウチの犬の杏さんから。今日はいよいよ後半なんで、初のネモフィラに入ったのね。ただ本人は、この小さい花の大変さが判っているようで、中心部のてんてんは無しの方向で考えていたようなのね。でも有り得ないのね・・・そもそも特徴って言う点では、例え1つであっても入れる。
そうね、ちなみにこの点は楊枝の後ろ側程度の大きさなんだけれど、それがあるのと、無いのでは全く違うのね。しかも今例え1つでも入れていたとすると、この先何個作るのか判らないけれど、もし上手くなったとする・・・その時に入っていなかったら?やっぱり入れたいと思わないかな?
だって今1つ入れられているのに、本当に最後まで1つのままだと思う?俺は思わないのね。つまり言い方を変えれば、先生としての判断は、杏さんは切れるはず・・・なんだけれど、当人は切らなくても良いかな・・・って。そして入れなきゃ駄目と言われて、出来ないのでは無く出来た・・・。
では出来るのに入れなかった理由は?この判断を犬にここまでこだわったのに、ネモフィラはバックだから・・と気を抜いたとか、面倒だからとか、いずれにせよ、後向きになったとしたら?それは質を落とす結果になる。そもそもネモフィラに見えないのなら、やる必要性は特に無いのね。
その時に結果として、人が見た時に、あっネモフィラじゃん・・・となれば、犬も犬種が判り、ネモフィラも判って貰えたのなら、ダブル得点になるが、曖昧なものを作ると、ただ綺麗ね・・・とか、雰囲気が良いとか、何しろただの色合いの得点にしかならないのね。
所がせめて手前だけでも、きちんとネモフィラに見えさえすれば、後半曖昧になっても、一眼レフで撮った写真のように見えるはずなのね。恐らく花が好きな人なら、もうこれだけでもネモフィラに見えて来ているはずなのね。と言う訳でこのままをキープして貰えば、茨城に負けないネモフィラ畑
になるんじゃ無いのかな。そんなお教室の合間合間に大理石の仕込みと昼食。お次は中学生。
縁取りを1cmタイルで、中を銀のお絵描きタイルの併用にしているのね。そうね、諸注意としては、ぺきぺきと似たような話なんだけれど、常に良い事と悪い事は背中合わせ・・・って言う前提で、ぺきぺきは柔らかい。柔らかいから切りやすい・・・こんな表現の人は上手くない人なのね。
それは心情としては硬いの苦手・・・って言ってるようなものだから。しかもどうして硬いのが苦手か?となった時に、非力だから・・・となるのね。はぁ?なのね。タイルはコツで切るものであって、力で切るもんじゃ無いのね。いかに適量を挟み、いかに少ない力で切るか?であって、大爆発みたい
な力で切るもんじゃ無いのね。例えば野球が好きなら、大谷さんのように大きな人が大きなパワーを使えば、誰も見た事の無い飛距離が出るし、物凄いスピードになる。こんなのは誰もが判るのね。所がイチローさんならしなやかにヒットを打つのね。右に左に。
つまりコツなのね。その人の持つ力は一体どの位?が判れば、大谷さんと同じ事をするのでは無くて、自分の力量で切れるコツな事を身に付ければ良いだけなのね。その時に、ニッパーを持つ利き腕を体に付けると、自然とタイルを持つ手も体よりになるのね。つまり両脇が締まる。
これでブレが無くなる。そして非力こそニッパーを長めに持たないとならないのに、重く感じるから、ついつい短く持とうとするのね。何故なら、手首を体に付けないからなのね。手首が浮けば重さを感じるから。全て良くも悪くも理に適っているのね。こんな所作的な事が出来ると、
次は刃の入れ方。非力は浅くなのね。なのに非力な人に限って、刃を全部入れるのね。何故なら、真っ直ぐ切るのに、全部挟めれば、流動的なラインにならずに済むんじゃ無いか・・・と判断するからなのね。ほらさっきの杏さんの、点々無くても・・・と同じなのね。大丈夫の思い込みなのね。
この判断ミスが失敗の可能性の確率を上げるのね。だから失敗するのね。これが上手い人って言うのは、成功しているんじゃ無くて、失敗の確率を下げているから、勝手に成功へ向かっているだけ・・・こう思った方が良いのかな。結果が後から付いて来るって比喩は、こんな理屈なのね。
そしてここからが、病は気から・・・てきな気の部分になるのね。テクニックやセンスなんて言った、くだらない理屈で諦めるのはナンセンスだし、出来ない人の言い訳なんて言う考え方だと思った方が良いのね。何故なら結果としてこの説明で切れたら、テクニックはこんなもん・・・って事に
なるのね。そして今までより良くなれば、習って良かった・・・になる。所が人間とは欲深いものだったりする。おかわり・・・ってね。出来ない事が出来た・・・でも出来たなら良く出来た方が・・・とね。更に言えば、丁寧が遅さに繋がってしまうが、美しさに反映するのに、美しい事よりも
速さを求めれば、能率効率と言った、考える事を極端にしないように、流れ作業のように繰り返す事になり、出来上がりに満足が行けば良いが、落ち着いて見た時に、急いで作った事を後悔したりする・・・ただそれとて、急いだ自覚が無かったのかも知れないが・・・。そして何故そうしたか?
そんな事に繋がるのが気の話。例えば出来なかった事を習って出来るようになった。ただまだ自信は無いから・・・と、これで良いのかな?これで良いのかな?と思っているウチは、特に問題は無いのね。そこは慎重だし、謙虚だったりするしね。所が、フォワード的な考え方の場合は、あっそうかぁ
・・・で進むから、判ってしまえばこっちのもの・・・って感じになるのね。文字にすると、自信が付いた。あぁこうすれば良いのかと。不安が無くなった・・・と。でもね、それは最低のキープだったのね。ではさっきの杏さんが、今のままで最後の花まで同じ事をすると思う?
もし点々を2つ、3つと増やしたとしたら・・・難易度も大いに上がるのね。でも今の心持ちなら、慌てる事も無いし、油断も無いと思うのね。だから無事に終わるはず・・・それはこれが出来るなら・・・これを・・・みたいに段階を経てやって行くからなのね。だから自分超え的にね。
所がフォワード的な場合、もし速度だけを重視して、そのまま続けたら、能率効率だから、それが最高ぅぅって繰り返そうとする。つまり最初の最低限のポイントのままね。だから簡単、だから量産ってね。全く意味が違うのね。前者はステップアップで、後者は最低限のそのままキープ。
ただ前者はどんどん難易度が増すから、上手くなって進みが悪くなり、最高の仕上がりに向かうけれど、後者は最低限をキープし、どんどん慣れて反復する事で、考えずに悩みも無くなる・・・美しさの差は歴然となる。ただこれは時間制限の無い人と、時間制限のある人の差でもあるのね。
その折り合いって言うのが難しいのね。しかも元に戻って気の部分。試験があるから、やらなくなる。やらなくなるって言うのは、習慣が途切れる事なのね。これがやっと出来るぅぅなら、やる気満々になるが、試験が終わり疲れて一安心と思いきや、お疲れモードならやりたくないだろうし・・・
気持ちって言う気の部分は、俺は前回の時の状態や状況を知っているだけで、それまでの間の状況を書き換えないと、前回のままなのか?そうで無いのか?は聞いて見ないと、判断しずらいのね。勿論、様子が違う程度なら、読み取れるかも知れないけれどね。この気の部分はとても難しいのね。
それなのに病は気から・・・気が病だから病気になるのね。気持ちが立て直せるのなら、病は軽減されるのね。それが立て直せれば、立ち向かおうとするのと、諦めるとでは、結果が大きく違うのは当たり前の話なのね。ただ欲望は果てしないから、強欲に思えば止めなきゃならないだろうし、
逆に諦める方向だったり、楽をする方向ならハッパも掛けないとならないし、叱咤激励的なものは、間違えるとスパルタにも甘やかしにもなる。
ただ二人共に受賞者なのもあるが、まぁ去年にも増して力作だし、完成すればそれ相応の見栄えになる・・・ただ後は、どう着地へ向かうかであって、ただ終われば良いだけとは、内容が大きく違うのね。そんな本日最後の中学生教室が終わると9時過ぎ。今日は自炊は諦めカップヌードルにして
看板作品に時間を費やして・・・明日が最初の山になるのかな。パーツは揃ったし、張り始めるとして、文字が終わってくれると、少し気持ちに余裕も出て来るのかな・・・・って感じなのね。まぁ簡単な話、文字は杏さんの犬って言ってるようなものだからメインディッシュ。
この時点で似ていないとか、美しくないなんて論外だから、緊張感がある。所がここを切り抜ければ、最低ラインは切り抜けた事になり、基本後は扇野模様の繰り返し。つまり時間が解決って事になって行くのね。しかも、パーツとしての油断が無ければ、特に支障をきたすような事は無い。
つまり順調に先が読めるし、見えて来るのね。ただそうなると予定調和過ぎるのね・・・順調過ぎたら、余計な事を考えるだろうし、逆にトラブル的なイレギュラーな事があれば、遂行する的な終わり方になるだろうし・・・まぁそこはやった様子。