katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

キウイとくじらの相席教室

2022-06-25 06:48:13 | モザイク作家

今日はキウイとくじらの相席教室。そうね、基本くじらは俳句の人だし、先生katsuでは無くて、作家katsuに興味のある人だから、指導と言うよりも意見交換的な事だったりする。ん・・・例えば、先生katsuに習う生徒さんって言うのは、モザイク

を習いに来ている感覚になるから、指導って言う点では、モザイクって事から離れる事は指導に思われづらいのね。簡単に言うと、最初は基本のタイルの切り方とか、どう張るのか?とか、でも段々と出来るようになると、相談相手みたいになる。

どっちが良いか?みたいにね。またどう見せる?なんてテクニックに変わったりね。逆に作家katsu側になると、オリジナルを作る作家なんで、オリジナルの作り方なんて事になると、ある程度の切り方、張り方は困らない前提で、モザイクの話より

どんな考え方で、作るのか?になるのね。つまり大袈裟に言えば、モザイクの話は要らないのね。要するにオリジナルに必要な、洞察力、観察力、想像力って言う、目に見えない力をどう使うのか?って話になるのね。その基本として、感じる・・・

って五感の話になるのね。そもそもこの五感を鍛えないと、当たり前の事しか浮かばないものなのね。例えば味覚、聴覚、視覚・・・みたいなものを使って、全ての分野は表現されるのね。なのに、何食べても美味しい・・・とか、何見ても、

可愛いぃぃ・・・とか、凄い、ヤバい・・・これでは、微妙なさじ加減なんて事から、大きく外れるのね。つまりえぐるような話をすれば、こんな感じの人は大体なのね。つまり興味のある事以外はどーでも良い感覚なのね。

この時点でどんなに切る事や張る事が上手くなったとしても、オリジナルは上手くはならないのね。大体は何処かで見た真似のアレンジになるのね。だから、何処かで見たような・・・似ているようなものになるのね。

もし、その腕を持ってして、考え方が視覚過敏のように研ぎ澄まされる方向であるのなら・・・スポーツなら、ボール1つ外すとか、音楽なら、こぶしの回し方だったり、強弱だったり、絵画なら、一筆のタッチなんかにこだわれると、

更に上手い人のように思えない?ただね、これは技術の話なのね。テクニックとかね。でもオリジナルって言うのは、その力じゃ無いのね。どんなものが作りたいか?それはどんなものなのか?みたいに、見た事の無いものを想像して構築する。

つまり作詞と作曲とか、守備と攻撃とかみたいに、こっちが上手いからって、あっちが上手いとは限らないのね。勿論、スタイルだから、オリジナルを捨てれば、作詞のみやら、攻撃のみ・・・これの一流もある。ただ、やっぱオリジナルを

・・・って事になると、目に見える力では無くて、目に見えない力の練習が必要なのね。そんな中、くじらはモザイクが上手くなりたいんでは無くて、他分野でオリジナルを目指しているkatsuって人と、異種格闘技をしに来ている感覚。

そもそも例えば、同じ分野の話って言うのは、普通とか、常識とか、何でも片寄りがちなのね。所が他分野の人は、その常識が違うのね。まぁ恐ろしく簡単な話だと、昔プロ野球選手がオフに陶芸とかして、何か新鮮だった・・・みたいな、

そして何かを得たような表現をしていたのだけれど、当たり前でしょ?そんなの。でも具体的に何も語らなかったし、そもそも何か・・・って表現をしている時点で、教えたく無いか?気が付いて無くて、ぼんやりみたいな表現なのね。

その理由は、そもそもスポーツってのは、あっちむいてホイの仕組みなのね。つまりいかに相手の裏をかくか?なのね。駆け引きが支流なのね。つまり悪意を持って言えば、毎日があざむく・・・そんな事なのね。それは疲れるわ。

その時に、オフに陶芸・・・物作りは自分自身なのね。つまり毎日のあざむく姿勢は必要無いし・・・つまりこれで得た事は、駆け引きでは無く、素直に来た球を打つ・・・こんな事に気が付いたんだろうね。ってこれに気が付いた事って事は、

ある程度の実力者って事になる。そもそも駆け出しにこんな事はほぼ起こらないのね。そもそも駆け引きなんてもんは、基本が恐ろしく必要な物なのね。だって狙った所の裏をかくのだから、大体ね・・・って言うのでは、そもそも狙った所

なんて行くはずが無いのね。つまりそもそもそんな事を思うよりも、まずは狙って打てるの訓練が必要なんじゃ無いの。なのね。つまりそんな事を悩むって奴は、そこそこの実力者であり、もう一つ上を目指すものであり、ある程度の期待を

背負っていて、でも自分の思う結果が出ない・・・そんな葛藤をしているような感じなのね。これが世界に1つだけの花の歌で説明してくれるのね。ただ、まぁ思い込みだけで良い歌なんてザックリ思うのも、猪木さんにビンタされて注入って

人も同じ感覚なんで、そっち側の人には必要無い話なんだけれど、そうで無くて前に進もうとするのなら、根拠立てして結果と是正の繰り返しなのね。あの歌詞に、ナンバーワンにならなくて良い、オンリーワン・・・って言うのね。

誰の歌詞か?なのね。槇原さんって、何個もヒットを持っている、そもそもナンバーワンも持っている人じゃん。それを狙い疲れた人の歌なのね。つまりさっきの陶芸の話と同じで、目指して疲れた人達に、最後は自分らしさじゃ無いの?

って歌なのね。しかもオチはオンリーワン・・・って。結局また目指してんじゃん。それを何でもゆとりで一緒だよぉって歌って名曲か?って話なのね。花屋の話もそう。タンポポはお店には並ばないのね。お金も出して貰えないし。

でもお店で名前も言えない花もあるのに、タンポポは誰もが知っている・・・こう言う事なんじゃ無いのかな?売りもんにはならないけど、オンリーワンって。ってこんな話もくじらには、刺激の1つになったりもする。ただこれじゃプロには、

なれないのね・・・それがひまわりなら、同じタンポポのような存在なのに、お店で扱われる。二軍から昇格した選手のようなのね。そうかと思えば、童謡?ダサっ・・・って大人になると思うのに、平井堅さんが歌うと、大きなのっぽの古時計は名曲に聞こえる。

これも昇格した感じがする。また感じ・・・って言葉。こうした何でもどーでも良い話をテーマ無しで、気になった話を膨らませて行くのね。そうか、そう来たかぁ・・・じゃこう・・・ならこう・・・って事はこう?この文章だけで、

音楽に関わっている人なら、セッション?って想像するだろうし、楽譜の無い音楽ってこう言うやり取りって思うだろうね。つまり俺はモザイク、くじらは俳句の異種格闘技の考え方の話であるが、でもこの程度のモザイクは出来るのね。

この腕もありきでの話は、モザイクの話もネタの1つになる。幅が広がるのね。勿論、こんな面倒な話ばかりでは無いんだけどね。ただ横で聞いているキウイは、2人とも似ている事を言っている・・・みたいな感覚だったりする。

これも大事で、目指すって人と、目指してはいないって人が同じ話の中いるのは、これもまた片寄らない意見も聞ける訳で・・・この教室、腕はキウイの方が良いが、考え方としては、俳句で目指す、向上するって点では、姿勢が違う。

お互いに無いものが見せられる・・・これがマンツーマンでは得られない事であり、俺も勉強になるのね。

そんな後は浦安の魚・・・マゴチ。

微妙にしか進んでいないんだけど、2人にこのタイル絶妙って褒められたのね。二人の実力を持っての評価・・・悪く無いのね。


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