
飫肥城大手門






一般開放していました

明治40年頃、飫肥杉などを取り扱う本町の豪商山本猪平が建築したものです。土間や玄関に美しい模様のタイルを
貼るなど、当時としてはハイカラな商人屋敷だったそうです。


小村寿太郎生誕地


小村寿太郎生家

小村寿太郎記念館

豫章館、樹齢数百年の大楠にちなんで豫章館と名付けられ、飫肥に現存する武家屋敷の中で最も江戸時代の面影を
残しています。

旧藩主伊東家の庭園 豫章館の説明版

武家屋敷通り

四半的(しはんまと)は的までの距離が四間半(約 8.2m)、矢の長さが四尺半(約 1.36m)、的の大きさが四寸半(約 13.6cm)ある事から
「四半的」と言われているそうです。座って矢をいるのも珍しいそうです。
飫肥(おび)は天正16年(1588)から明治初期までの280年間飫肥藩・伊東氏5万1千石の城下町として栄えたところです。
初代藩主は伊東祐兵(すけたけ、工藤祐経の子孫)は豊臣秀吉より九州征伐の功績により、飫肥城が与えられました。。
武家屋敷を象徴する門構え、風情ある石垣、漆喰塀が残る町並みは、昭和52年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
江戸時代初期に完成した町割りが今もそのままに残り、当時の建物や石垣などが風情溢れる景観を見せてくれます。
その歴史的景観の価値が認められ、昭和52年(1977年)、九州で最初に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたそうです。
実はツアーに参加するまで飫肥城下町の存在を知りませんでした.まずは飫肥城大手門を見てから大手門通り、武家屋敷通り、商人通りなど
小雨降る中のお昼前のひとときを歩いて回りました。
日南の偉人 小村寿太郎(1855~1911)は 宮崎県日南市飫肥出身。 藩校振徳堂に学び、大学南校・現東京大学卒業後、文部省留学生として
米国ハーバード大学に留学。日本の外交官、政治家。外務大臣、貴族院議員などを務め活躍された方の誕生の地や生家、記念館もありました。
観光客は多くはありませんでしたがアジア系の若者の大勢のグループにも出会いびっくりしました。
昼食は元祖おび天本舗・おび天蔵で冷やしうどんにおび天ぷらのついたセットを賞味しました。魚とトーフで作った伝統食品の味は甘めで
美味しかったです。鹿児島のさつま揚げより柔らかく初めて食べた味です。真空パックでのお土産用がなかったのが残念でした。
商売気とはおよそ縁遠い城下町みたいで次回は個人で来てもっとゆっくりまわってみたくなりました。
宮崎駅から日南線の下り電車で40分で飫肥駅に着くようです。宮崎空港からさほど遠くないかもしれませんので。
旅行から帰ってから、先日皇居東御苑を巨木散策のお仲間と見学している時に県の木が植えられている場所には宮崎県の県木として飫肥杉がありました。
飫肥杉を起源とする宮崎の杉は、現在も県内全域に植林されており素材生産量は、日本で生産されるスギの約15%のシェア(2015年)を占め、
全国1位を誇っているそうです。
飫肥杉は、赤味が多く、油分を含み、耐水性があることから、江戸時代には船舶用材として重宝されてきました。
柔らかいため、傷はつきますが、木材でありながら畳のような温かみが感じられとのことです。新しい知識を知りえて嬉しいことでした。。